日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年10月3日武蔵国比企郡かたよせ郷百姓中宛上田憲定朱印状

これまで秀吉や家康側の史料から小田原攻めについて見てきたが、今回からしばらくの間後北条氏側の史料からこの戦争について見ていきたい。 かたよせの郷*1、今日より中い*2にさしおき*3候、百姓わきの者*4并出家以下まても、ふさた*5なくはしりめくり*6肝要…

天正18年4月8日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状写

此表様子為可聞届、飛脚付置之由、尤悦被思食候、先書*1如被仰遣、去月廿七日至三枚橋*2被成御着座、翌日ニ山中*3・韮山*4躰*5被及御覧、廿九日ニ山中城中納言*6被仰付、則*7時ニ被責崩、城主松田兵衛大夫*8を始、千余*9被打捕候、依之箱根・足柄、其外所〻…

天正18年1~3月「家忠日記」に見る秀吉軍通過の準備

ここで秀吉軍を迎える家康の準備について「家忠日記」から抄出してみた。 正月小 二日己巳、駿府より近日御陣*1可有之由申来、夫丸留につかハし延引之事、 十九日壬戌、殿様*2来十九日中泉*3へ御座候、皆知行方亥年之五十分一高辻越候へ之由申来候、 廿一日…

天正18年3月6日豊臣秀次宛豊臣秀吉朱印状写

去朔日至神原*1着陣之由註進状、今日六日於清須*2披見候、家康*3・内府*4令相談、先手へ可令陣替之旨、①何様ニモ家康指南次第*5、無越度様裁判*6専一候、度〻如被仰出候、陣取丈夫ニ申付、御着座*7迄可相待候、次②伊豆浦処〻放火、おむす*8の城迄退散之由、…

天正18年3月4日脇坂安治宛豊臣秀吉朱印状

去月廿九日注進状*1、四日於柏原*2披見候、廿七日至清水*3着船之由被聞召届候、無由断動*4、切〻*5申越之義感思召候、九鬼*6相談、伊豆地躰*7早舟ニて可見計由、順風相待尤候、少茂越度候てハ不可然候、今日大柿*8江被為成候、猶以追〻可致言上候、猶長束大…

天正18年1月28日徳川家康宛豊臣秀吉書状写

芳墨令披見候、誠長丸*1事令対面珍重候、先書二如申遣、一段利発ニ而、別而祝着候、家康二も不劣、公義*2を大切ニ可存心底相見候、尤ニ思召候、此侭可有在洛由ニ候へとも、右如上意*3候、自然人質之様ニ関東辺*4取沙汰候ハんハ、其方之為如何敷候間、早速被…

天正18年1月28日豊臣秀次宛豊臣秀吉振舞法度

今度相州江御進発路次中御とまり*1おちつき*2振舞*3御法度 一、御膳*4ハ七五三*5たるへし、此外別の造作*6一切有間敷事、 一、御相伴衆*7・小性衆*8、合五拾人分ハ、汁二・引さい*9たるへき事、 一、其とまり/\ニ八木*10九拾石・大豆*11拾石、合百石事、 一…

天正18年1月8日龍造寺高房宛豊臣秀吉知行割目録写

肥前国龍造寺藤八郎*1知行割之事 但田畠七千八百拾弐町弐段 一、八万七千石 佐嘉郡*2 但田畠四千弐百四十五町八反 一、四万七千弐百石 小城郡 合拾三万四千弐百石内 三万石 藤八郎京のまかない*3 五千石 民部大輔いんきよ分*4 壱万千弐百石 佐嘉にてのたい所…

天正17年12月日信濃国宛豊臣秀吉禁制

禁制 信濃国 一、軍勢*1甲乙人*2等乱妨狼藉*3之事、 一、放火事、 一、対地下人*4百姓非分之儀*5申懸事、 右条〻若於違犯*6之輩者、忽可被*7処罪科者也、 天正十七年十二月 日*8 (朱印) (四、2880号) (書き下し文) 禁制 信濃国 一、軍勢、甲乙人など乱…

天正17年12月28日宗義智宛豊臣秀吉判物

高麗鷹*1二居・同馬一疋鞍置*2到来之、希有之仕立御感悦候、随而国主*3参洛之儀、依寒天不自由、来春為可召俱*4、其地滞留*5之段、長〻之辛労之至候、猶小西摂津守*6可申候也、 十二月廿八日*7 (花押) 宗対馬守とのへ*8 (四、2873号) (書き下し文) 高…

天正17年12月28日徳川家康宛豊臣秀吉書状写

芳札*1披見候、誠今度者早〻依帰国、残多覚候*2、仍関東堺目無異義旨尤候、今少之間ニ候、弥無油断可被入精候、就其北条懇望之由*3、如書中何共申候へ、京都ハ御赦免之上不沙汰、不及言舌儀候、自然号御侘言書状等持参者候者、可被為生涯*4候、随而御出馬相…

天正17年12月5日加藤嘉明宛豊臣秀吉朱印状

(包紙ウハ書) 「 加藤左馬助とのへ*1 」 北条*2事、致表裏*3不届次第無是非候、然者来春*4被成御動座、可被加御誅伐候、御先勢従正月被相立候、其方儀人数六百召連、為船手*5自身可相動*6候、然者二月中至伊勢・志摩令着岸、舟共相揃、九鬼大隅守*7為案内…

天正17年12月5日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状

志岐城*1落居之様子言上*2候、小西摂津守*3同前ニ相動*4砕手*5之由被聞召届候*6、無由断儀、尤ニ被思食候、次天草表儀、是又小西相談、無越度様可申付候、猶浅野弾正少弼*7可申候也、 十二月五日*8 (朱印) 加藤主計頭とのへ*9 (四、2830号) (書き下し文…

天正17年12月26日加藤正次宛三河国碧海郡河野郷年貢請負一札

本文書は郷村から家康家臣の加藤正次に差し出された請負一札の写で、雛形写も残されているという。ただ原本の所在は不明で、塚本学氏による筆写原稿のみが残されており*1、「(印)」とあることから控え(副本)を筆写したとも考えられる。 重要な点は発給人…

天正17年12月12日三河国渥美郡亀山村宛彦坂元正年貢割付状

天正17年の年貢割付状はきわめて貴重である。ただかなり煩雑になるので本文の大半を表にし、重要と思われる部分のみを引用した。本文書はもともと亀山区有文書という、共同体の構成員が全員で管理したり、区長が持ち回りで管理する共有財産*1だった。亀山に…

天正17年11月21日萩原昌之宛伊奈忠次知行書立(黒印状)

家康の七ヶ条定書を読むと、政策基調が秀吉とかなり異っていたことに気づかされる。そこで比較の意味も込めてしばらく家康や家康の代官頭らが発給した文書を読むことにする。 政策と社会構造がどのように対応するか一般論として述べることは難しいし、また安…

天正17年9月17日三河国幡豆郡貝吹郷宛徳川家康七ヶ条定書(下)

この文書の発給者は朱印を捺している家康だろうか、それとも文末に署名している島田重次だろうか。ヒントになるのが伊奈熊蔵が署名している天正17年10月28日付甲斐国八代郡向山(むこうやま)郷の「左近丞」ら12名に充てた七ヶ条定書である。「伊奈熊蔵家次…

天正17年9月17日三河国幡豆郡貝吹郷宛徳川家康七ヶ条定書(上)

天正17年7月から徳川家康は写真のように統一された様式による7ヶ条の定書を郷村宛に発している。現在確認されてるだけでも240通を超えており、統一された様式をもち、直接郷村宛に発したという点において秀吉の在地掌握をある意味上回るものであったといえる…

天正17年12月4日吉川広家宛豊臣秀吉朱印状

北条儀為誅伐、来春*1至于関東被成御進発条、其方事人数*2五百召連、二月中旬有上洛、尾州星崎城*3請取、自身可被在番候、委曲輝元*4・隆景*5江相達候*6、猶浅野弾正少弼*7・黒田勘解由*8可申候也、 極月*9四日*10 (朱印) 吉川侍従とのへ*11 (四、2828号…

天正17年12月1日上賀茂社家中宛豊臣秀吉朱印状

当社家境内地子以下令免除訖*1、永不可有相違*2者也、 天正十七 十二月朔日*3 (朱印) 上賀茂 社家中 (四、2784号) (書き下し文) 当社家境内地子以下免除せしめおわんぬ、永く相違あるべからざるものなり、 (大意) 当社家境内地子以下免除せしめおわ…

人身売買、娘の身売りを「囚人のジレンマ」モデルで表してみた

はじめにお断りしますが見よう見まねでつくってみた叩き台に過ぎませんので、誤解などございましたらご指摘いただけますとさいわいです。 また「囚人のジレンマ」で表現することを目的としますので「ナッシュ均衡解」などを求めようなど大それた野心を抱いて…

天正17年11月28日梶原政景宛豊臣秀吉朱印状

今度北条事、致表裏、不恐天命、不顧恥辱、無道之仕立*1、無是非題目*2候、然者来春*3早〻被出御馬、可被加御誅伐之条、可成其意候、氏直不届次第被書顕、対北条被成御朱印候*4、其写為覚悟被遣之候、於彼面諸事可被仰付候、猶天徳寺*5・石田治部少輔*6可申…

天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状(最後通牒)2/止

(承前) 一、当年極月上旬、氏政*1可致出仕旨御請一札*2進上候、因茲被差遣津田隼人正*3・冨田左近将監*4、沼田*5被渡下候事、 一、沼田要害請取候上ハ、右之一札ニ相任、則可罷上と被思召候処、真田*6相拘候なくるみの城*7を取、表裏仕候上者、使者ニ非可…

天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状(最後通牒)1

天正17年11月24日、秀吉はついに北条氏直へ最後通牒を発した。しかも当人のみならず諸大名へも「北条左京大夫とのへ」との充所と朱印を捺した正本を送りつけている。原則として古文書は受け取った者の家に残されるものであるが、正本が各大名家に残されると…

「市場で取り引きされる1人あたりの単価と取引総量の積」は人々の生活水準のメルクマールたり得るか調べてみた

かなり挑発的なタイトルになってしまったが、このところ流行の数量経済史に覚える違和感の一端をド素人ながら考えてみた。 主食など生活必需品の需要曲線は価格弾力性が低く、傾きが急な右下がりの曲線となる。なぜなら人間は価格が下がるまで霞を食べながら…

天正17年11月24日徳川家康宛豊臣秀吉朱印状写

態差遣使者候、北条*1儀、可致出仕由御請申、沼田城*2請取之、一札之面*3氏直をハ不相立、信州真田*4持内なくるミの城*5乗捕之由、津田隼人正*6・冨田左近*7かたへ自其方之書状ニ相見候、然者北条表裏者之儀候間、来春早〻出馬、成敗之儀可申付候、早四国・…

秀吉は本当に人身売買を禁じようとしたか

こういった記事をしばしば見る。 toyokeizai.net たしかに秀吉は何度か人身売買を禁じる法令を発しているが、一方で唐入においては次のような指示を出してもいる。 態と申し入れ候、朝鮮人取り置かれ候うちに、縫官・手のきゝ候女、細工仕る者、進上あるべき…

天正17年11月21日真田昌幸宛豊臣秀吉朱印状

小西行長や加藤清正に肥後天草の武装蜂起に対して指示を出した同日、東国の真田氏にも国境相論に関する文書を発している。秀吉による「天下統一」事業がそれほど簡単に進まなかったことを示していて興味深い。そのこと自体中世的秩序がいかに在地に深く根ざ…

天正17年11月21日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状

(包紙ウハ書) 「 加藤主計頭*1とのへ 」 書状被加御披見候、志岐城為成敗、小西*2相動二付、人数相添遣、自身*3又渡海之旨尤候、然而為後詰天草出候処ニ、其方於手前*4追崩*5、悉切捨之由手柄候、遠路首不及差上候、重而*6志岐・天草物主*7共申付次第、彼…

天正17年11月11日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状写

小西摂津守*1志岐・天草*2之奴原*3令成敗二付、為加勢差遣佐々平左衛門*4之由尤候、自分*5相越、不残申付両島*6を、首可差上旨被仰出候、人数*7入*8候事候者、摂津守申次第、其方も同前可相勤*9候也、 十一月十一日*10 朱印 加藤主計頭殿へ*11 (四、2734号…