日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年11月23日堀秀政宛豊臣秀吉朱印状写

 

金上遠江入道*1下国ニ候間、於其元宿等并其方領内、人夫・伝馬以下入候者申付、可有馳走*2候也、

  

    十一月二十三日*3  (朱印影)

    

       羽柴北庄侍従とのへ*4

 

(三、2634号)

 

(書き下し文)

 

金上遠江入道下国に候あいだ、そこもとにおいて宿などならびにその方領内、人夫・伝馬以下入りそうらわば申し付け、馳走あるべく候なり、

 

 

(大意)

 

金上盛備が下国するので、そちらにおいて宿所および陣夫役や伝馬役が必要な場合は領国内で調達するようにしなさい。

 

 

 

このころ蘆名義広は佐竹義重らとともに伊達政宗と勢力争いを繰り広げていた。秀吉は義広に上洛を促したが、10月14日名代として金上盛備が上京していた。

 

その帰途の安全を、領国ごとに大名に分担させたのが本文書であろう。つまり、こうした警察・軍事を担うことで軍役を果たすことになるのである。

 

秀吉から「預けられた」領国内の治安維持に携わる点からすると、中世の守護に由来する可能性もある。

*1:盛備。会津蘆名義広家臣

*2:世話をすること、奔走すること

*3:天正16年。グレゴリオ暦1589年1月9日、ユリウス暦1588年12月30日

*4:堀秀政。越前北庄城主