日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年9月27日細川藤孝・忠興宛豊臣秀吉判物(領知充行状)

 

丹後一国領知方拾壱万七百石之事、対父子一軄*1令扶助内、軍役之儀、少将*2三千人、幽斎*3千人、都合四千之可為役儀、此之*4条全可領知*5者也、

 

  天正十七年

   九月廿七日*6 (花押)

     羽柴丹後少将とのへ

     幽斎

(四、2713号)
 
(書き下し文)
 
丹後一国領知方11万700石のこと、父子に対し一軄に扶助せしむるうち、軍役の儀、少将三千人、幽斎千人、都合四千の役儀たるべし、この条まったく領知すべきものなり、
 
 
(大意)
 
丹後一国の領知分11万700石については忠興・幽斎父子に一職に与えるので、軍役は忠興3000人、幽斎1000人合計4000人負担するように。この旨理解しなさい。
 

 

本文書は領知充行状なので朱印状ではなく花押を据えた判物で発せられている。非人格化著しい朱印状より判物は厚礼であるが、署名がなく花押のみというのは「とのへ」*7という敬称とともに薄礼である。それでも判物で記されるということはそれだけ武家の人格的な主従関係が社会の基本であったことを示している。

 

細川父子は丹後一国の領知を与えられた。藤孝は家督を忠興に譲り、宮津城から田辺城へ移った。領国内にある由良川では鮭漁も盛んだった。

 

Fig.1 丹後宮津城、田辺城

                   「丹後国」(『国史大辞典』より作成

 

11万700石に対して父子合わせて4000名の軍役を課している。秀吉はのちに領知目録に「台所分」、「無役」*8などを差し引いた石高に軍役を課す旨詳細に明記するようになる。それらの例から、軍役の負担は10万石に対して課されたと思われる。

 

忠興分3000名、幽斎分1000名すべてを彼らが譜代の家臣として抱えていたかというとそうではない。百姓などから徴用することもあるし、一年季で奉公人を雇傭することもあった。軍役の構成を図示しておこう。

 

Fig.2 譜代の家臣と年季奉公人

奉公人が主人に暇乞いをせず勝手に雇傭主を変えていた様子については下記を参照されたい。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

上記のように奉公人がころころと奉公先を替えれば、主人である武家は主君から課された軍役に足る軍勢を確保できなくなる。一方でこうした下級兵士自身はこう語っている。

 

 

おれは主を四五拾人も取て見たが、所所に依て覚悟がちがふものだ。今武家の水をのんで*9、殊に陣中へつん出た*10が、惣て侍衆の云こんだ、打死が手柄だときいたが、金六*11めつたと死なゝいもんだぞ

 

(『雑兵物語・おあむ物語』65頁、岩波文庫)

 

 

主人を40~50人も取っ替え引っ替えしてきた自分たち雑兵は「武家」や「侍衆」と異なり死に急ぐものではないと仲間に諭しているのだ。沈みゆく船から最後に避難するのは責めを一身に担う船長であって航海士や機関士ではない*12。代々同じ主家に仕える譜代家臣は家名・家業・家産三位一体の「イエ」の存続を第一に考えるが、守るべき「イエ」が確立していない奉公人のエートスは異なったものとならざるを得ない。また「所所によって覚悟が違う」と家風がずいぶん異なる点も興味深い。

 

 

*1:丹後を一円的に支配するという意味と国人の地頭職や在地の荘官職など中間得分を否定するという意味の二重の意味での一職。太閤検地論争のキータームのひとつ

*2:細川忠興

*3:同藤孝

*4:衍字カ

*5:前に出て来た「領知」は領国を支配する意味だが、こちらの「領知」は承知するの意

*6:グレゴリオ暦1589年11月5日、ユリウス暦同年10月26日

*7:「殿」のもっともくずれた字。くずれるほど薄礼である

*8:軍役を免除する石高、現代風にいえば控除分

*9:武家の風習にかぶれて

*10:飛び出す

*11:会話の相手の名前

*12:ノブレス・オブリージュ