日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年9月21日末吉利方宛豊臣秀吉朱印状

 

 

手前*1諸商売付、諸公事*2被成御免除*3之上者、於何方*4不可有其煩*5候也、

 

   天正十六

 

     九月廿一日*6 (朱印)

 

          末吉勘兵衛とのへ*7

 

(三、2616号)
 
(書き下し文)
 
手前諸商売について、諸公事御免除なさるるの上は、いずかたにおいてもその煩いあるべからず候なり、
 
(大意)
 
そなたの諸商売について、諸公事を免除された以上どこで商売をしようが、誰が領主であろうとその商業行為に課税することは禁ずる。
 

 

末吉利方はこれに先立つ8月4日に「免船六艘、分国において諸浦往還相違あるべからず」と商業上の特権を上杉景勝領国内で認められている*8。「免船」は「御免船」とも呼ばれ、港湾に出入する際に懸かる諸役を免除された船である。また利方は前田利家、福島正則らとも交流があり、彼の豪商ぶりがうかがえる。秀吉の代官を務め、かつ豪商としても大いに権勢を振るっていた、最近はやりの言葉を用いればオリガルヒ(олигархи)のひとりである。

 

 

ところで関ヶ原合戦後近江国大津にて石田三成の身柄が家康に引き渡されたころ、末吉利方に一通の朱印状が下されている。

 

 

平野庄は大坂へ道法近く、騒動あるべきの間、百姓安堵のためと仰せ出せられ、おそれながら権現様(家康)御朱印一通、慶長五年九月廿一日、年寄のうち末吉勘兵衛へお渡し遊ばされ、年寄ども頂戴仕り候、

 

(『大日本史料』12編26冊650頁)

 

 

平野庄は大坂にほど近く、関ヶ原戦後の混乱に乗じた軍勢による乱妨=掠奪が行われることを危惧した平野庄年寄衆が相談の結果、利方が家康に願い出で発せられた。ここで利方は平野庄の「年寄」としての顔も覗かせている。

 

Fig. 平野庄と大坂

 

                   『日本歴史地名大系 大阪府』より作成

彼のような在地の有力者を代官に任じたのは荘園制下の請負代官に倣った可能性もある。

*1:二人称。対等もしくは目下に使う

*2:公事は年貢所当以外の雑税を指し、その種類は賦課する主体、賦課された対象により様々な種類があるが、ここでは「市庭銭」、「座銭」などの商業行為に賦課されるものと思われる。なお「諸公事」とあるので「様々な/あらゆる公事」という意味になる

*3:「御」があるので「免除」する主体は秀吉

*4:「どこであろうと」すなわちどの領主の領地であろうと

*5:「煩い」はトラブルのこと。ここでは他の者が秀吉の命を無視して勝手に課税すること

*6:グレゴリオ暦1588年11月9日、ユリウス暦同年10月30日

*7:利方。河内平野荘の豪商で天正14年8月17日河内丹北郡布忍村1000石の代官に任じられる。1941号

*8:『大日本史料』12編26冊655頁