書状加披見候、伊達左京大夫*1事、何様ニも上意*2次第之旨、御請*3通被聞召候、乍去会津*4之儀於不返渡者、被差遣御人数*5、急度可被仰付候条、成其意、堺目等之儀、佐竹*6相談、丈夫可申付候事肝要候、猶以会津之事如前〻被仰付候*7ハてハ不叶儀候条、佐竹可有上洛候由候共、彼面於猥者先無用*8、得其意、堅固行*9専一候、委細増田右衛門尉*10・石田治部少輔*11可申候也、
九月廿八日*12 (花押)
羽柴越後宰相中将とのへ*13
(四、2714号)
(書き下し文)
書状披見を加え候、伊達左京大夫のこと、何様にも上意次第の旨、御請け通り聞し召し候、さりながら会津の儀返し渡さざるにおいては、御人数を差し遣わされ、急度仰せ付けらるべく候条、その意をなし、堺目などの儀、佐竹相談じ、丈夫申し付くべく候こと肝要に候、なおもって会津のこと前〻のごとく仰せ付けそうらわでは叶わざる儀に候条、佐竹上洛あるべく候由候とも、彼の面猥りにおいては先ず無用、其意を得、堅固に行専一に候、委細増田右衛門尉・石田治部少輔申すべく候なり、
(大意)
書状確かに読んだ。伊達政宗が「如何様の処分も上意次第」と承知したので聞き入れたが、蘆名氏から奪った会津を返還しない場合は軍勢を差し向け必ずや支配下に置くだろう。境目について義重と連携を取り確実に支配することが重要である。なお、会津について従来命じた通りに収まらないので義重が上洛するそうだが、関東の情勢が不安定なので上洛は無用である。守備を固めることに専念するように。なお詳しくは増田長盛・石田三成が口頭で述べる。
Fig. 会津黒川城周辺図
7月4日、秀吉は政宗に宛てて蘆名氏を攻撃したことについて、「宿意」があれば秀吉に申し出てその裁可を仰ぐべきところ軍事行動に及んだことは「越度」である。景勝をはじめとした秀吉軍を派遣し討ち果たすであろう。「上意次第に」と申しているそうだが不実であると書き送っている*14。
それを行動に移すべく景勝に発給されたのが本文書である。
また22日には施薬院全宗より政宗家臣片倉景綱宛に書状が発せられている。政宗による会津の蘆名氏攻略について全宗は次のように追及する。
私の儀をもって打ち果たさるるの段御機色*15しかるべからず候、天気*16をもって一天下の儀仰せ付けられ関白職に任ぜらるるの上は、前々と相替わり京儀*17を経られず候は御越度*18たるべく候条
(『米沢市史 古代・中世史料』760頁)
政宗の軍事行動は「私の儀」であり、天下を治めるべしと天皇より関白に任じられた以上、秀吉の許可がなければ「越度」だとしている。しかも「前々と相替わり」とこれまでの原則である「自力救済」とは異なるのだとも強調している。秀吉はみずから「新時代を切り拓いた」と広言していたのだ。むろん歴史学的な時代区分と彼の時代認識を即座に結びつけるわけにはいかないが、自力救済を過去のものとする秀吉の意図は明確である。
もちろんこれは秀吉の論理であって、政宗には政宗の論理があるだろう。
*1:イダテ政宗、出羽国置賜郡米沢城主
*2:秀吉の意思
*3:政宗の、秀吉への服属の意思表示
*4:陸奥国会津郡蘆名氏領国
*5:秀吉の軍勢
*6:義重
*7:「上杉家文書之二」所収の4月19日付佐竹義重宛秀吉判物「境目などのこと当知行に任せしかるべく候」を指しているカ
*8:何か非常事態に及ぶのなら佐竹の上洛は必要ではない
*9:テダテ、軍事行動
*10:長盛
*11:三成
*12:天正17年。グレゴリオ暦1589年11月6日、ユリウス暦同年10月27日
*13:上杉景勝、越後国頸城郡春日山城主
*14:2675号
*15:御気色=ミケシキ。秀吉の機嫌
*16:天皇の意思
*17:秀吉
*18:「御越度」とは妙な表現だが、全宗からみれば政宗は貴人であるので「御越度」とした