日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年8月日本丸鉄門番宛豊臣秀吉朱印状(本丸鉄門ニ付定)

 

   定 御本丸鉄*1御門番事

 

一、とり*2の上刻*3より、明るたつ*4の刻*5まて、女房*6とも*7一切城中の出入あるへからさる事、

 

一、夜中に状文*8の出入、番衆*9として書中を見候て、手くり*10に取次、とゝけ可申事、

 

一、御用候てまいり候女房衆こし*11の事は、とをし*12可申、いて*13候時ハおく*14より印*15にて出し申へき事、

 

一、諸奉公人*16の事、小性一人・さうりとり*17一人めしつれ可入之、但御用の物もた*18せ候ハヽ、そのもの*19はあらため*20とをし可申事、

 

一、不断御用被仰付候ともから*21、其主人にうけこハせ*22、若党・小もの*23入申へき事、

 

一、夜中に御よう*24被仰出*25に付てハ、当番の輩書状を御門番として可相届事、

 

一、当御門番衆の外、おとこのたくひ*26一切ふせる*27ましき事、

 

   天正十七年八月 日*28 (朱印)

(四、2703号)
 
 
(書き下し文)
 

   定む 御本丸鉄御門番のこと

 

一、酉の上刻より明くる辰の刻まで、女房ども一切城中の出入あるべからざること、

 

一、夜中に状文の出入、番衆として書中を見候て、手繰りに取り次ぎ、届け申すべきこと、

 

一、御用候て参り候女房衆輿のことは通し申すべし、出で候時は奥より印にて出し申すべきこと、

 

一、諸奉公人の事、小性一人・草履取一人召し連れこれを入るべし、但し御用の物持たせそうらわば、その者は改め通し申すべきこと、

 

一、不断御用仰せ付けられ候輩その主人に請け乞わせ、若党・小者入れ申すべきこと、

 

一、夜中に御用仰せ出でられるるについては、当番の輩書状を御門番として相届くべきこと、

 

一、当御門番衆のほか、男の類い一切伏せるまじきこと、

 

 
(大意)
 

   本丸鉄門番のことを定める

 

一、酉の上刻より明朝辰の刻まで、女房どもの城中の出入りは禁ずる。

 

一、夜中に文書のやりとりするさいは、番衆の務めとして書面を確認し、順繰りに取り次いで届けること。

 

一、秀吉への用向きがあって登城してきた女房衆の輿は通しなさい。出るさいは奥より合図して出すように。

 

一、諸奉公人については小性一人・草履取一人のみを召し連れて入るように。ただし御用の品物を持たせている場合は、物を持たせている者をよく改めた上で通しなさい。

 

一、日常的に御用を仰せ付かっている者たちは、その主人に身許保証するよう願い出で若党・小者を入れること。

 

一、夜中に御用が仰せ出された場合、当番の者が書状を門番の務めとして届けること*29

 

一、当番以外に男の類いを一切隠し置かないように。

 

 

 

本文書に充所は記されていないが、特定の個人ではなく、かつ名前など知る由もない身分の低い者へのものなので書かないことで尊大さを示したと解した。つまり宛所が欠けているのではなく「あえて書かなかった」というわけである。

 

本文のうち厄介なのはである。「不断御用被仰付候ともから」が「其主人」なのか「若党・小もの」なのかという問題である。若党・小ものといった豊臣政権の最下層に属し、半年もしくは1年単位で雇傭される彼らが果たして日常的に「御用仰せ付けられ」るほど重用されうるのかという点で不自然であり、また彼らに身請けできる「主人」がいるということは若党・小ものが秀吉の倍臣以下であることを示してもいるからである。ここでは次のような数段階の主従関係を想定してみた。

  

 

すなわちこの「不断御用被仰付候ともから」が従者を引き連れてよいかを大名である「主人」に身請けさせるということではないかと。

 

 

前近代日本では、日の出から日の入りまでと日の入りから日の出までをそれぞれ6分割する不定時法を採用していた。つまり夏は昼の時間が14時間程度冬は9時間程度になるという具合に*30。「秋の夜長」と言っても現在は日の長さに関わらず均等に分割する定時法なので単なる比喩でしかなく、夜の時間が物理的に伸びるわけではない。しかし19世紀まで実際に秋の夜は「長かった」のである。村の掟にも農作業を行ってよいのは「明六つから暮六つまで」(日出から日没まで)と記され、夜間の野良仕事は「盗み」とされた。日中と夜間は異なる「世界」と認識されていたのである*31

 

1973年の第1次石油危機では様々な節電対策がとられ、23時に繁華街のネオン消灯が行われ、テレビ放送も明朝まで休止された。21世紀の現在23時は「宵の口」程度だが、当時の23時は「深夜」である。現代のわれわれは体内に時計が埋めこまれたかのように時間の感覚が内面化、規律化されてるがそれは必ずしも人間の本性に由来するものではない。時間の感覚も歴史的、社会的な文脈に左右されるのである。

 

Fig. 近世の時刻と現代の時刻

保柳睦美「江戸時代の時刻と現代の時刻」3頁(『地学雑誌』86巻5号、1977年)より作成

 

さて本文書を読むと、大坂城本丸(「奥」)とその外=公共空間を夜間隔絶する目的で出されたようである。ひとの出入りはもちろん、文書すら書中を確認した上で順繰りに取り次ぐように指示している。きっかけとなるような事件について触れるところはないが、①③⑦に見えるように「女房衆」や「おとこのたくひ」とあるところから男女の密通でもあったかと勘ぐりたくなる。

 

野良仕事と異なり明け六つより遅い卯の刻としたのは十分明るくなってからといった女房衆への配慮からだろうか、それとも早起きは苦手ということだろうか。いずれにしろ夜間は大坂城本丸と外側を遮断する意図から出されたものであることは間違いない。つまり夜間の本丸は秀吉のprivateな空間とする宣言である。

 

また本丸は昼は政庁として機能するが夜間は私邸とすることも意味する。言い換えれば大坂城本丸は日中は「公儀」の空間であり、夜間は私的なそれで時刻で同じ空間の機能の切替を行ったわけである。

 

 

④、⑤の奉公人については下記を参照されたい。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

*1:くろがね

*2:

*3:日没頃

*4:

*5:午前8時頃

*6:女性

*7:複数形を表す接尾辞「共」

*8:文書

*9:警固にあたる武士

*10:

*11:輿

*12:

*13:

*14:奥。「表」=publicの反対語で「private」な空間。秀吉は大坂城本丸を「奥」と位置づけた

*15:合図

*16:後述の「若党」や「小者」など一年季半年季雇傭の奉公人。供給元は百姓や町人

*17:草履取

*18:

*19:

*20:改、調べて

*21:

*22:請け乞わせ。身許保証を雇傭主に願い出ださせて

*23:前述の「諸奉公人」と同義

*24:

*25:秀吉からの命

*26:男の類

*27:伏せる。隠し置く

*28:天正17年8月は「大」の月なので1ヶ月は30日。よってグレゴリオ暦1589年9月10日~10月9日、ユリウス暦同年8月31日~9月29日

*29:諸大名が大坂城下に集住していることを前提としている

*30:下図参照

*31:日本のような中緯度および低緯度な地域はこれで対応可能だが、白夜や極夜のある高緯度地域では想像もつかない。冬深雪に閉ざされていることに目をつぶっても、月や星、雪明かりのみで屋外で活動するのはかなりむずかしい。逆に夏は一睡もせず働かねばならなくなる。そういった環境に適した生活をしていたのであろう