日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年7月10日真田信幸宛豊臣秀吉朱印状

 

今度関東八州・出羽・陸奥方面〻*1分領*2、為可被立堺目*3等、津田隼人正*4・冨田左近将監*5為御上使被差下候、為案内者可同道、然者従其地*6沼田*7迄、伝馬六十疋・人足弐百人申付、上下共*8可送付、路次*9・宿以下馳走*10肝要候也、

    七月十日*11 (朱印)

      真田源三郎とのへ*12

 

(四、2678号)
 
(書き下し文)
 
このたび関東八州・出羽・陸奥かた面〻分領、堺目などを立てらるべきため、津田隼人正・冨田左近将監御上使として差し下され候、案内者として同道すべし、しからばその地より沼田まで、伝馬六十疋・人足弐百人申し付け、上下とも送り付けるべし、路次・宿以下馳走肝要に候なり、
 
(大意)
 
このたび、関八州・出羽・陸奥の諸大名の領国の国境を定めるため、津田信勝と富田一白を上使として派遣するので、信之殿は案内者として両名に同道するように。上田から沼田まで、伝馬を60疋、人足200人を集め、上り下りの物流を滞りなく行うように。また道路整備や宿の準備を怠らぬように。
 

 

Fig. 上野国略図

                   「上野国」(『国史大辞典』より作成)

本文書は秀吉による関八州・奥羽地方の国分に関するものである。下線部の「堺目を立てる」という文言は、文字通り物理的な標識を敷設することを意味するのか、それとも秀吉の使者が在地の実情に詳しい「証人」を立てて「政治的に国境」を決定するだけなのかは判断できない。ただ後者の場合、秀吉が「政治的に国境を掌握した」ことになるのだろう。

 

当時「国境」をどのように認識し、まだ定めていたのかはかなり難しい。「当知行」、「不知行」という言葉が当時あったが、これは実効支配が及ぶ/及ばない*13地域という意味でこれが「国境」を把握する手がかりになる。

 

なお言うまでもないが、行政区分はあくまでも行政区分に過ぎずそれ以上でも以下でもない。

*1:諸大名

*2:領国

*3:国境

*4:信勝。織田信長一族でのち秀吉家臣となる

*5:一白、秀吉家臣

*6:信濃上田カ

*7:上野国利根郡、下図参照

*8:上りと下り両方面

*9:道中。ここでは道路環境を整えるの意

*10:奔走する、世話をする

*11:天正17年、グレゴリオ暦1589年8月20日、ユリウス暦同年同月10日

*12:信之/信幸。信濃上田城主昌幸の長男

*13:年貢や陣夫役・兵役を徴発できる/できない