去月廿四日之書状、被成御披見候、佐州*1之儀属一変*2之由、尤被思召候、弥仕置*3等丈夫*4可被申付事専一ニ候、猶増田右衛門尉*5・石田治部少輔*6可申候也、
七月十六日*7 秀吉
羽柴越後宰相中将とのへ*8
(四、2680号)(書き下し文)去る月24日の書状、ご披見なされ候、佐州の儀一変に属すの由、もっともに思し召され候、いよいよ仕置など丈夫に申し付けらるべきこと専一に候、なお増田右衛門尉・石田治部少輔申すべく候なり、(大意)先月24日付の書状、殿下がご覧になりました。佐渡国が一篇に属したとのこと、殿下は実に喜ばしくお思いになっています。いよいよ支配などしっかりお命じになることが大切でございます。なお詳しくは増田長盛・石田三成が申し上げます。
Fig. 佐渡国略図
この年の6月14日、上杉景勝は佐渡へ上陸し、佐渡を支配する本間氏の居城羽茂(はもち)城を攻め落とした。つまり「佐州一変に属す」とは景勝による佐渡攻略を意味するが、これは景勝による領国拡大を目指した私戦なのか、それとも秀吉公認の武力による「天下統一」の一環なのか重要な問題である。管見の限り秀吉が景勝の行動に事前にお墨付きを与えた形跡はない。つまり景勝が「私的に」起こした戦争を秀吉が「事後的に」天下統一戦争と追認した可能性が高い。
仮に秀吉が景勝の行為を「私戦」と判断すれば、すべての戦争を再点検せねばならず、豊臣政権の根底を覆しかねない。「追認」することで政権が「とりあえず」維持される「弥縫策」を秀吉は選択したようだ。