小西摂津守*1志岐・天草*2之奴原*3令成敗二付、為加勢差遣佐々平左衛門*4之由尤候、自分*5相越、不残申付両島*6を、首可差上旨被仰出候、人数*7入*8候事候者、摂津守申次第、其方も同前可相勤*9候也、
十一月十一日*10 朱印
加藤主計頭殿へ*11
(四、2734号)(書き下し文)小西摂津守志岐・天草の奴原成敗せしむるにつき、加勢として佐々平左衛門差し遣さるの由もっともに候、自分相越し、残らず両島を申し付け、首差し上ぐべき旨仰せ出だされ候、人数入り候事にそうらわば、摂津守申し次第、其方も同前相動くべく候なり、
(大意)小西行長が志岐・天草のやつらを攻めるにあたり、加勢として佐々平左衛門を派遣したとのこと、実にもっともなことである。そなたもそこへ赴き、両島を残るところなく制圧し、首を差し出すようにとの仰せである。軍勢が必要な場合、行長からの申し出があり次第、そなたも同様に軍事行動を起こすように。
まず充所の「殿へ」について。今日でも「様」とより厚礼な「樣」を使い分ける(はずである)。またこのほかにも文字通り「様々」な書き方があり、相手と自分の立場を慮って使い分けていた。漢字の画数が多いほど、あるいはくずし方が少ないほど相手に対する礼は厚くなる。手紙のマナーについて述べた大正期の書にも、目上の人へは行草書を避け楷書で書くようにせよとある。身分制社会の重要な特徴である。
図1の丸で囲った文字も「殿」一字なのだが、「殿へ」と書かれているように見えることから、本文書を写した者*12も誤認した可能性が高い。
Fig.1 「様」、「殿」のくずし方と厚薄
同様に「左衛門」と「左衛門尉」も間違いやすく、ほとんど合字である。近年機械にくずし字を読ませることがあたりまえになりつつある。いきおい「翻刻さえ完成してしまえば」と思いがちだが、変体仮名や異体字に代表されるように活字化しきれない要素も多い*13。悩ましいところである。
Fig.2 「尉」
ルイス・フロイス『日本史』によれば種元は行長に対して徹底して不服従の態度をとった*14。またキリシタン領主が国替えされることは、キリシタンの領民にとって「残虐な迫害に匹敵する」*15とも述べていて、この地方の信仰共同体の結束の強さがうかがえる。
Fig.3 肥後国天草郡周辺図
さて天草氏が不服従の態度をとった原因と思われる史料を見ておきたい。
(関連史料)
態と申し遣わし候、本砥の儀、天草殿*16へ代官として預け置くのあいだ、百姓中いずれもその意を得べく候なり、
三月十日*17 行長(花押)
本砥百姓中
(島津亮二『小西行長』14号文書、234頁、八木書店。下線は引用者)
天草の「本砥百姓中」に宛てて種元を「代官として預け置く」のでその旨了知せよというものである。天草氏は開発領主であり、しかも信仰をともにするという点で百姓らと天草氏の関係は濃密であったろう。ところが行長の官吏としての「代官」*18という位置づけは「伝統」ある開発領主の否定であり、天草氏の身分が不安定であることを予告するものである。受け容れがたい要求である。
こうして天草・志岐両氏と行長との間で軍事衝突が起きた。肥後国を「共同統治」している清正にも加勢するよう命じたのが本文書である。
周知のように行長もキリシタンであり、洗礼名をアゴスチーニョ(アウグスティヌス)といった。本文書の登場人物をキリシタンか否か、秀吉への臣従度合いで示すと下表のようになる。
Table. 天草五人衆、小西行長、加藤清正の位置づけ
*1:行長
*2:志岐麟泉と天草種元。両名は天草五人衆でキリシタン。天草氏は開発領主で、志岐氏は鎌倉期にこの地の地頭に任じられ、また島津氏や有馬氏と結んで南蛮貿易を行った。図3参照
*3:ヤツバラ、相手を蔑む表現。あいつら
*4:政元。佐々成政の家臣だったが、成政改易後は肥後の領主となった加藤清正に仕えたらしい。文禄5年5月14日加藤清正条々の充所に「佐々平左衛門尉とのへ」と見える
*5:清正のこと、秀吉ならば「御自分」と表記するだろうし、つづく「相越し」も「相越され」か「御動座なされ」などとなるはずである
*6:志岐・天草両島
*7:軍勢
*8:必要とする
*9:動。「動」はもっぱら軍事行動を指した
*10:天正17年。グレゴリオ暦1589年12月18日、ユリウス暦同年12月8日
*11:清正、敬称「殿へ」については後述
*12:翻刻者ではない、念のため
*13:かつての和文タイプライターも現在のデジタル技術も同様の問題を抱えている
*14:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史5』中公文庫、74頁
*15:同上書、46~47頁
*16:天草種元
*17:天正17年
*18:「代官」とは文字通り「代理で職務を遂行する官職」で他律的である。ちなみに現在の天草地方で「でゃかん」(代官)は「作男」を意味するという。他地方では「下男」の意味で用いられていて、「代官」が主人に従属する者であることをよく示している