日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年11月1日里見義康宛豊臣秀吉朱印状写

 

為音信、太刀一腰・黄金十両到来、悦思召候、仍北条*1事、何様ニも上意*2次第と御請申付、被成御赦免、今度同名美濃守*3差上候、境目等之儀、当知*4候旨被聞召届、厳重可被仰出之条、可成其意候、猶増田右衛門尉可申候也、

 

    十一月一日*5

       里見左馬頭殿*6

 

(三、2629号)
 
(書き下し文)
 
音信として、太刀一腰・黄金十両到来、悦びに思し召し候、よって北条のこと、何様にも上意次第と御請け申し付けて、御赦免なされ、このたび同名美濃守差し上げ候、境目などの儀、当知候旨聞し召し届けられ、厳重仰せ出ださるべきの条、その意をなすべく候、なお増田右衛門尉申すべく候なり、
 
(大意)
 
贈答品として太刀を一腰、黄金十両たしかに受け取り、実に悦びに堪えない。さて小田原北条氏のことは、すべてを「上意」にしたがうと納得したので「赦免」した。このたび北条氏規を使者として上洛させ、境目相論について当知行の通りとする旨を聞き届けたので厳重にその旨を守るよう命じたので、そなたもそう心得るように。なお詳細は増田長盛が申し述べる。
 

 

里見義康は安房館山の城主で、小田原の北条氏と対立していた。

Fig. 北条氏と里見氏

反北条氏側に立つ関東の戦国大名諸氏は秀吉と誼を通じることでみずからの立場を有利にしようとしていた。本文書も里見氏による贈答に対する返書という体裁を取っている。

 

秀吉は「境目などの儀」は当知行状態を維持するように里見・北条両氏に命じた。当知行を追認するというのは、有り体にいえば現状維持であって、積極的に紛争解決しようとしたわけではない。

 

また「上意」、「御赦免」など秀吉に臣従する形式をとっていることにも注意する必要がある。

 

里見氏側の立場からは積極的に秀吉に臣従したというより、北条氏との直接対立を避けるための選択肢が秀吉への接近というかたちをとらせたのだろう。

 

*1:氏直

*2:秀吉の意思

*3:北条氏規

*4:当知行

*5:天正16年。グレゴリオ暦1588年12月18日、ユリウス暦同年同月8日

*6:義康。安房・上総の戦国大名