こういった記事をしばしば見る。
たしかに秀吉は何度か人身売買を禁じる法令を発しているが、一方で唐入においては次のような指示を出してもいる。
態と申し入れ候、朝鮮人取り置かれ候うちに、縫官・手のきゝ候女、細工仕る者、進上あるべき旨御朱印なされ候、御家中をも御改め候てこれあらば、早〻御進上もっともに候、恐惶謹言、
長束大蔵大輔
十一月廿九日*1 正家(花押)
羽柴薩摩侍従殿*2
人〻御中
(島津家文書、1763号)
この年は唐入が行われた前年の天正20年=文禄元年の翌年である。開戦1年後には捕虜のうち何かしら熟練した技を持つ者を秀吉に献上せよというのである。奴隷の原初形態とも言うべき戦争捕虜である。これはキリスト教世界の「正戦」において捕虜となった者は「正当な」奴隷であるとする認識に似ている。
次に「九州御動座記」の問題の箇所を見てみよう。
日本仁を数百男女によらず、黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすぐれ
話は変わるが「赤い靴履いてた女の子」で知られる野口雨情にこういう作品もあったことをご存じだろうか。
人買船に買はれて行つた
貧乏な村の山ほととぎす
日和は続け港は凪ぎろ
皆さんさよなと泣き泣き言ふた
貧乏ゆえに娘を売らなければならなかった悲しみが伝わってくるこの歌を、実際に歌っていた子どもらは何を思っただろうか。
また「閑吟集」には
人買ひ舟は沖を漕(こ)ぐとても売らるる身をただ静かに漕げよ船頭殿
とあり、「安寿と厨子王」などの作品にも「人商人」や「人勾引(かどい)」といった人身売買が採り上げられている。これらのことから人身売買が日常的に行われていたことがわかる。
ポルトガルのナウ船の定員は400~450名で「九州御動座記」のように数百人を乗せることが可能であったろうし、大西洋奴隷貿易同様に「効率的」に奴隷を運ぶため鎖につないだのも事実であろう。それに対して人買船の規模はそれほどでもなかったことが問題とされたのではないだろうか。日本人の中には「奴隷」と称して黒船に乗り込む者もいたという。海外に活路を見いだした者もいたので、「日本人の奴隷化」を食い止めたと言い切ることは出来ないであろう。
日本であらゆる方法での人身売買を禁じたのは1955年10月7日最高裁第二小法廷の判例である。
最後に1949年から1951年の人身売買被害者の就業先を掲げておく。もちろんこれらはわかっているだけで、実際にはもっと多いはずである。
2024年3月31日追記
3年間で人身売買被害者の男女合計は2480名、女性のみだと1972名である。このうち「接客業」と称する業務に従事させられたのは女性のみであり実質的な比率である女性のみでは41パーセントに上る(男女合計では33パーセント)。また紡績業には女性の39パーセントが従事させられており、「接客業」と紡績業で女性全体の80パーセントを超える。紡績業は「女工の仕事」という認識は戦後にも残っていたことがうかがえる。
また農業従事者も男女で21パーセントを占めていて見逃せない。これは農地解放以前の隷属的な「下人」、「名子」、「被官百姓」などが地主手作地に労役を務めていた者の代替労働力と考えられる。
以上の追記は統計数値からの推測に過ぎず、個別事例や実態は異なる可能性がある。しかしおおよその傾向をそこに読み取ることは許されるだろう。
なにより現在の中学高校生*3にあたる18歳未満が全体の24パーセントを占めているのに驚きを禁じ得ないが、「資本としての耐用年数」が長いという「効率性」、「生産性」といった「合理的」な判断から需要が高かったものと思われる。