日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年5月16日飛鳥井雅春宛豊臣秀吉朱印状

 

賀茂松下*1鞠之弟子取事、無例之由、同於家之人*2前曲足蹴*3事無之旨(闕字)勅書・室町殿文書*4等一覧*5、絹上絹袴有之、葛袴等無着事、同以無文*6紫革・無文燻革閇袴*7事、一切無之由、松下為弟子、沓袴令着用者於有之者、如有来*8被剥取之、法度堅可被申付候也、

    天正十七

     五月十六日*9(朱印)

      飛鳥井大納言殿*10

 

(四、2669号)
 
(書き下し文)
 
賀茂松下鞠の弟子を取ること、例なきの由、同じく家の人前において曲足蹴のことこれなき旨、勅書・室町殿文書など一覧候、絹上・絹袴これあり、葛袴など無着のこと、同じくもって無文紫革・無文燻革・閇袴のこと、一切これなき由、松下弟子として、沓袴着用せしむる者これあるにおいては、有り来たるごとくこれを剥ぎ取られ、法度堅く申し付けらるべく候なり、
 
(大意)
 
上賀茂社の松下述久が蹴鞠の弟子を取ることについて、先例がないとのこと。同様に家人の前で「曲足蹴」を披露することが禁じられている旨は、勅書や室町将軍家発給文書に明らかである。絹上・絹袴は許されているが、葛袴などは禁じられている。また無文紫革・無文燻革・閇袴も一切禁止とのこと。松下の弟子として沓袴を着用する者を見たならば、従来通りこれを剥ぎ取られるように。法度もきびしく申し渡されるように。
 

 

ブログ主は雅な世界に無縁なので、貴族の衣装や蹴鞠のルールについては省略した。

 

上賀茂神社の松下氏が蹴鞠の弟子を募集しようとしたのを、蹴鞠の師範を家業とする飛鳥井氏が秀吉に訴え、それに対して秀吉が裁決を下したのが本文書のようである。本文中にしばしば見られる「従来通り」という表現に加えて、勅書や室町将軍家発給文書の趣旨に照らしてという文言が見られるのは興味深い。

 

1936年『成簣堂古文書目録』407頁によると慶長13年にも蹴鞠のルールを破り、今後飛鳥井流のルールに則る旨の詫び証文を飛鳥井氏にあてており、蹴鞠の作法をめぐって相論が起きていたようだ。なおどうもこの詫び証文は戦災で失われたようだ。

 

ルールの変更*11やVTRによる再判定の採用*12など、より「面白く」見えるよう変更されることは今日でも珍しくない。

 

*1:述久、上賀茂神社主松下規久の子。細川幽斎などとも親交があった

*2:家人。ほかに貴族に仕える「家礼(ケライ)」があり、のち「家来」と書かれ、武家や百姓家の間でも、主人に従属する者を「家来」のように呼んだ

*3:反則技の一種か

*4:室町将軍家発給文書

*5:一通り参照する

*6:模様のない

*7:トジバカマ

*8:従来通り

*9:グレゴリオ暦1589年6月28日、ユリウス暦6月18日

*10:雅春、羽林家の飛鳥井家は蹴鞠の師範を家業とする

*11:バレーボールのサーブ権廃止など

*12:「神の手ゴール」をハンドとするなど