一、九人 さからはゝ*3
一、拾五人 さからふち千代*4
一、八人 ふかミハヽ*5
さからうち*6
一、五人 いんとう*7むすめ
合参拾七人
右毎月可計渡候也、
天正十六年十一月廿六日*8(朱印)
石田ちふのせう*9
(三、2635号)(書き下し文)
あい渡すべき人質扶持方のこと
一、九人 相良母
一、十五人 相良藤千代
一、八人 深水母
一、五人 相良内犬童娘
合わせて三十七人
右毎月計り渡すべく候なり、
(大意)
人質の扶持米の渡し方について
一、九人 相良頼房の母へ
一、十五人 相良藤千代へ
一、八人 深水長智の母へ
一、五人 相良家家臣犬童頼安の娘へ
計三十七人
右のように毎月決められたとおり扶持米を給付しなさい。
この人数が示すものは明らかでないが、おそらく「九人分の扶持米」といった意味であろう。肥後人吉城主相良頼房の人質の世話を三成に命じている。豊臣政権における人質がどのように遇されているかを示すものであるが、扶持米が与えられており、豊臣家家政とは独立した家計を営んでいたことがうかがえる。
また充所が呼び捨てであることにも注目したい。他の大名に対しては「とのへ」を、徳川家康、上杉景勝などへは「殿」と敬称を付けるが、ここではそうではない。したがって豊臣大名の中にも「殿」-「とのへ」-呼び捨ての三階層あったことがうかがえる。