日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

2020-10-01から1ヶ月間の記事一覧

天正12~13年の秀吉と脇坂安治の心温まる文通

兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵の龍野神社旧蔵文書には秀吉が脇坂安治にあてた朱印状が多数残されている。これらの文書は火災に遭ったがさいわい焼失はまぬがれ、修復作業を経て2016年に公開された。そのいきさつについてはこちらを参照されたい。 …

天正13年8月4日羽柴秀長宛羽柴秀吉朱印状写(抄出)

長曽我部*1侘言*2申付而、森兵吉*3差上一書并口上之趣、何も聞届候、 一、長曽我部実子・同家老者とも人質可相越之条、脇城*4・一宮*5事、両城主為人質主残之由尤候、城を請取、本丸へ入置人数之由尤候事、 (中略) 一、伊予国へ蜂須賀彦右衛門尉*6・くろた…

天正13年7月15日近衛信輔宛親王准后座次定書

(端裏ウハ書) 「 近衛*1殿 」 一、親王与准后*2座次*3之儀、可為各座*4、但龍山*5与伏見殿*6者不混自余*7之条、此両人者何時茂ならはれ*8候て、可為各座事、 一、同法中*9之儀、惣並*10之准后与親王間のことく可為各座事、 一、前関白*11与法中之准后可為…

天正13年9月2日伊沢頼綱外宛蜂須賀家政判物写/三ツ木樫原名主百姓中宛同書状写

8月6日長宗我部元親は羽柴秀長に降った。秀吉の関白就任からおよそ1ヶ月ほどのちのことである。しかし、秀吉家臣の蜂須賀家政が阿波に入国すると思わぬ抵抗に遭う。このとき家政が発給した文書の写、2点を読んでみたい。なお翌天正14年には祖谷の「源平の末…

天正13年7月6日中川秀政外宛羽柴秀吉朱印状

態申遣候、 一、秀吉出馬事、先書*1如申遣、外聞候条、可遠慮*2候由、度々依申越相延候、何時成共、自其方一左右*3次第ニ可渡海候、木津城*4落去候而国中城々明退、長曽我部*5居城*6取巻候者、五日之逗留*7にて秀吉出馬可申付候事、 一、多人数にて一城取巻…

天正13年6月20日羽柴秀長宛羽柴秀吉朱印状

尚以土佐一国にて候ハヽ、長曽我部*1可指置候、委細甚右衛門尉*2・三郎四郎*3ニ申含候、已上、 書状并蜂須賀*4其方への書中*5、遂披見候、 一、長曽我部事、最前申出候つるハ、土佐一国・伊与国、只今長曽我部かたへ進退之分にて、毛利*6方・小早川*7方へ安…

天正13年6月15日宇都宮国綱宛羽柴秀吉書状

去五月四日書状、今日十五至于大坂到来、令披見候、抑*1去年少〻申事在之刻、紀州根来・雑賀催一揆企慮外働条、去三月出馬、五三日中ニ諸城責崩、凶徒依刎首候、泉州・紀州熊野浦*2迄平均申付候、同四国長曽我部*3彼悪逆人与令同意付而、為成敗拙弟秀長*4并…