就唐船*1相着、如目録*2到来、種〻取揃之段、別而悦思食候、猶石田木工頭*3可申候也、
十一月六日*4 (朱印影)
本郷一雲軒*5
(書き下し文)
唐船相着くについて、目録のごとく到来し、種〻取り揃えの段、べっして悦び思し食し候、なお石田木工頭申すべく候也、
(大意)
唐船が到着し、目録にある貨物が届き、様々な商品を取り揃えているとのこと、秀吉様はことのほかお喜びである*6。なお詳細は石田正澄が口頭で述べる。
(四、2731号)
Fig.1 日向国庄内地方周辺図
Fig.2 16世紀、明への倭寇行動地域と行動回数
Fig.3 16世紀後半、明への倭寇行動地域と行動回数
Fig.4 16世紀の環シナ海世界
本文書は秀吉が島津氏の家臣である北郷時久に充てたものである。島津氏の領国内に「唐人」が多数いたことは以前触れた。
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各地の戦国大名は中央政権とは独立して国際貿易を行っており、島津氏もその例に漏れず「南蛮」=東南アジア諸国*7とさかんに交易を行っていた。秀吉はそれを自身の支配下に置こうとしたのである。
明人で後期倭寇の首魁でもあった王直*8は平戸や五島列島を本拠に一大海上勢力を築き上げ、鉄砲伝来に果たした役割も大きかった。このように倭寇は「貿易」の下地をつくったのである。図2、3によれば、倭寇は大坂城が落城したあとの元和年間まで続いていたから、秀吉の海賊停止令はそれほどの実効力を持ち得なかったことがうかがえる。
まとめると、貿易の利益を独占したい秀吉の思惑と依然として独自性を保つ地域権力たる大名や海上勢力の相剋を本文書に見出すことができるのである。