就大仏材木之儀、最前如被仰出候、義久*1并兵庫頭*2領中*3杉・桧事、不寄大小入念付立*4、註文*5両人令持参、子細可言上候、寺社之雖神木等、大仏異尓他被仰付由候条、不存緩付立可申上候、依其趣可被差遣御奉行*6候、其刻自然*7可相立御用木於付残者、両人可為不届候条、可成其意候、就中両人罷上候跡ニも、可差上材木者堅申付、無由断相着*8候様可申付候、次巣鷹*9事、御自愛*10之段、各存知候間、定而不可有油断候へ共、当年者出来候様走廻、可入精事尤専一候、委細猶長岡兵部大輔入道*11・石田治部少輔*12可申候也、
正月廿日*13 御朱印
伊集院右衛門大夫入道とのへ*14
島津図書入道とのへ*15
(四、2651号)(書き下し文)大仏材木の儀について、最前仰せ出だされ候ごとく、義久ならびに兵庫頭領中杉・桧のこと、大小によらず入念に付き立て、註文両人持参せしめ、子細言上すべく候、寺社の神木などといえども、大仏他に異なり(と)仰せ付けらる由に候条、緩み存ぜず付き立て申し上ぐべく候、その趣により御奉行を差し遣わさるべく候、そのきざみ自然相立つべき御用木付け残すにおいては、両人不届たるべく候条、その意をなすべく候、なかんづく両人罷り上り候あとにも、差し上ぐべき材木は堅く申し付け、由断なく相着き候よう申し付くべく候、次に巣鷹のこと、御自愛の段、おのおの存知候あいだ、さだめて油断あるべからずそうらえども、当年は出来候よう走り廻り、精を入るべきこともっとも専一に候、委細なお長岡兵部大輔入道・石田治部少輔申すべく候なり、(大意)方広寺大仏に用いる材木の件、関白様よりの以前からの仰せの通り、義久領内と義弘領内に生えている杉と桧を小さいものも漏らさずすべて書き立て、それを両人が持参し、詳細を言上しなさい。寺社の神木だとしても、大仏となるのだから、見逃さず書き立てなさい。調査の出来具合によってはこちらから奉行人を派遣するつもりである。その際もし書き漏らした用木があれば、義久と義弘の越度とするので、承知しておくように。とりわけ両人が上京したのちにも、差し上げるべき木材についてきびしく命じ、油断なく書き記すようにしなさい。次に巣鷹のこと、大切に育っているので心配ありませんが、今年も巣鷹が多く生まれるよう念を入れなさい。詳しくは長岡藤孝・石田三成が申します。
本文書は写しのせいか下線部の「大仏異尓他」などやや意味が取りづらいところがある。ただこの部分は「寺社の神木といえども」とあるので、「神木も例外とはせず記録せよ」という意味合いは読み取れる。
また「事書」が二つあるため、「義久ならびに兵庫頭領中杉・桧のこと」が一つ目の、「次に巣鷹のこと」が二つ目の用件である。
最初の用件は、島津義久および義弘領国内の杉や桧などについてすべて記録し、その帳簿を提出せよと命じている。寺社の神木もその例外ではないとする。田畠や屋敷地のみならず、山々の木々すべてを関白の管理下に置こうという意図があきらかで、古代以来の原則「山川叢沢の利は公私これを共にせよ」に秀吉が介入したとも言える。
次の用件は鷹のヒナの要求である。天正15年9月25日、義弘は日向国の鷹巣奉行に任じられていて、毎年巣鷹の献上に応じている。
このころ義弘は上洛しており、秀吉から言い渡されたはずである。同月23日付伊地知重秀に宛てて、屋久島へ赴き残らず書き立てるよう、また「彼の大仏殿の儀につき諸大名御精もっとも入れられ候こと比類なく」、「御国もとの一大事に程あるべからず(比べものにならない)」と、さらに紀州では山奉行の吉川平介なる者が不届をはたらいたため斬首され、洛中で晒し首にあったことなどを記していることから見て、この秀吉の命は絶対だったのであろう。
巣鷹についても義弘書状は「当時(現在)は他領に罷りなり候あいだ、とても才覚罷りなりまじく」、金銀所領などを代償にしてでもなんとかするよう頼み込んでいる。