日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年9月24日福島正則宛豊臣秀吉朱印状写

 

於其国*1寺沢越中守*2相註伐置候大仏*3材木・其外御用木共、依由断遅怠、無是非次第候、然者為御奉行水原亀介*4・美濃部四郎三郎*5被指下候条、急度到尼崎*6可相届候、猶以於無沙汰者、可為曲事候、委細浅野弾正少弼*7・増田右衛門尉*8可申候也、

 

   九月廿四日*9  御朱印

       福島左衛門大夫とのへ*10

 

(四、2712号)
 
 
(書き下し文)
 

その国において寺沢越中守相註し伐り置き候大仏材木・その外御用木とも、由断により遅怠し、是非なき次第に候、しからば御奉行として水原亀介・美濃部四郎三郎指し下され候条、きっと尼崎に到り相届くべく候、なおもって無沙汰においては、曲事たるべく候、委細浅野弾正少弼・増田右衛門尉申すべく候なり、

 

 
(大意)
 
伊予国の、寺沢広政が註文し伐った大仏の用材、その他の御用材木などがそなたの「油断」により到着が遅れたことは仕方のないことであるので、奉行として水原吉一・美濃部四郎三郎を派遣したので摂津尼崎まで届くように差配しなさい。重ねて遅怠あるときは処罰する。なお詳しくは浅野長吉・増田長盛が口頭で述べる。
 
 

 

Table.1 福島正則伊予国領知高

                   『愛媛県史 資料編 近世上』より作成

 

なお上表のような郡別の石高を持ち出しておいて何だが、石高とはあくまで軍役賦課基準高に過ぎないことにも注意しておきたい。石高の多寡のみをもって「生産量が高い/低い」というのは意味のある比較とは思えない。下表2のように米の取れない屋敷地に高率の石盛が付されていたように、そもそも石高は「年貢高」なのか「年貢賦課基準高」なのか「生産高」なのかが明確でないのだから。

 

Table.2 文禄度石盛

豊臣政権が主従関係を基本とする武家政権である以上、軍事動員のための一元的な軍役賦課基準を設ける必要がある。そのための軍役基準高程度に考える方が無難だろう。全国土全人民を石高=軍役で国家的に編成することが「天下統一」であり、豊臣政権や徳川政権の特徴だったのだ。

 

この秀吉から課される軍役が「際限なき軍役」と呼ばれるほど過酷だったことは、宇都宮国綱が朝鮮出兵時「京家へ公役*11相重さなり候上、なお今度唐入りについて知行分物成三分一納所し料簡なく候*12*13と家臣に嘆いているところからうかがえる。

 

様々な普請に加えて「天下統一」戦争への度重なる軍事動員が禍したのか福島正則は方広寺大仏殿の用材運搬で遅延という失態をおかした。そこで秀吉は急がせるため水原・美濃部といった側近を派遣したというわけである。この年の2月24日正則は桑村郡河原津*14に宛てて、文意が取りにくいものの船賃に関する「掟条〻」を発している*15。その点彼はけっして怠慢だったわけでなく、むしろ周到に準備していた。秀吉が「是非なき次第」といったように不可抗力の災害や事故に遭遇した可能性もある。

 

Fig.1 伊予国桑村郡河原津

                   『日本歴史地名大系 愛媛県』より作成

 

 

Fig.2 尼崎・京都間周辺図

                   『日本歴史地名大系 兵庫県』より作成

 

*1:福島正則の領国すなわち伊予国

*2:広政。大仏殿建立のための材木運搬船の指揮を執った

*3:方広寺大仏殿

*4:吉一。金切裂指物使番(きんのきっさきさしものつかいばん=金地の旗指物を与えられた選ばれし者)のひとり、普請奉行として重用される

*5:美濃守ともいうが諱未詳。やはり金切裂指物使番のひとり

*6:摂津国河辺郡、下図2参照

*7:長吉

*8:長盛

*9:天正17年カ。グレゴリオ暦1589年11月2日、ユリウス暦同年10月23日

*10:正則。下表1のように伊予国東部を領有。当人発給文書のうち黒印状では「左衛門太輔」、判物では「正則」と名乗っている

*11:城郭だの寺院だのの普請役

*12:手の施しようもない、むちゃくちゃである

*13:秋田藩家蔵文書 42 城下諸士文書巻3

*14:下図1参照

*15:『愛媛県史資料編近世上』52~53頁。代官による恣意的支配を排除しようとした点で、正則は太閤検地の政策基調に忠実だったことがうかがえる