日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

人身売買、娘の身売りを「囚人のジレンマ」モデルで表してみた

 

 

はじめにお断りしますが見よう見まねでつくってみた叩き台に過ぎませんので、誤解などございましたらご指摘いただけますとさいわいです。

 

また「囚人のジレンマ」で表現することを目的としますので「ナッシュ均衡解」などを求めようなど大それた野心を抱いているわけでもありません。

 

 

くれぐれも誤解なきようお願い申し上げます。

 

 

 

天正17年11月28日梶原政景宛豊臣秀吉朱印状

 

 

今度北条事、致表裏、不恐天命、不顧恥辱、無道之仕立*1、無是非題目*2候、然者来春*3早〻被出御馬、可被加御誅伐之条、可成其意候、氏直不届次第被書顕、対北条被成御朱印候*4、其写為覚悟被遣之候、於彼面諸事可被仰付候、猶天徳寺*5・石田治部少輔*6可申候也、 

 

   十一月廿八日*7 (朱印)

           

                                  梶原源太*8とのへ

 

(四、2778号)
 
(書き下し文)
 
このたび北条のこと、表裏を致し、天命を恐れず、恥辱を顧みず、無道の仕立て、是非なき題目に候、しからば来春早〻御馬出され、御誅伐を加えらるべきの条、その意をなすべく候、氏直の不届次第書き顕わされ、北条に対し御朱印なされ候、その写し覚悟としてこれを遣わされ候、彼の面において諸事仰せ付けられるべく候、なお天徳寺・石田治部少輔申すべく候なり、 

 

 

(大意)

 

今回の小田原攻めについて、約束を違え、天命を恐れず、恥辱を顧みることのない無道な一部始終は許されざることである。したがって来春早々に自ら出馬し、「御誅罰」を加えるので、その旨あらかじめ含んでおくように。氏直の不届きな振る舞いの数々を認め、北条に対して朱印状を発したところである。その朱印状の写しを準備のため添えて送った。詳細は戦地において申し付ける。なお佐野房綱・石田三成が口頭で述べる。

 

 

 

本文書はほかに佐竹(北)義斯宛*9、佐竹(東)義久宛*10、太田資正宛*11が残されていることから、本文書も含めて常陸の戦国大名佐竹氏の関係者に限って発せられたものと思われる。しかし本文中で述べているようにあの「アジビラ」の写しも添えていた。

 

Fig. 佐竹氏関係周辺図

 

                                                                                  Google Mapより作成

佐竹氏はこのころ伊達政宗や北条氏と対立し、しばしば紛争状態(国郡境目相論)に陥っていた。秀吉から見れば惣無事の趣旨に反する「無法地帯」となり、軍事介入する絶好の機会である。

 

趣旨はおおむね前回と同様、氏直が「無道」に振る舞っていたことを強調する点で共通している。

 

 

*1:一部始終

*2:「ことがら」の意

*3:翌年1~3月

*4:前回、前々回の「天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状」最後通牒のこと

*5:佐野房綱。当初は下野国都賀郡上南摩(かみなんま)城主だったが、諸般の事情から秀吉に仕えることとなった

*6:三成

*7:天正17年、グレゴリオ暦1590年1月4日、ユリウス暦1589年12月25日

*8:政景、佐竹氏麾下の下総国の土豪で常陸国新治郡柿岡城主。太田資正の二男

*9:2777号、常陸国久慈郡太田城城主佐竹義重の一族。筑波郡小田城代を務めたこともある

*10:2778号、茨城郡武熊城主

*11:2779号、武蔵国埼西郡(埼玉郡)岩槻城主

天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状(最後通牒)2/止

 

                 (承前)

 

一、当年極月上旬、氏政*1可致出仕旨御請一札*2進上候、因茲被差遣津田隼人正*3・冨田左近将監*4、沼田*5被渡下候事、

 

一、沼田要害請取候上ハ、右之一札ニ相任、則可罷上と被思召候処、真田*6相拘候なくるみの城*7を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事、

 

一、秀吉若輩之時、孤*8と成て信長公属幕下*9、身を山野ニ捨、骨を海岸に砕、干戈*10を枕として夜ハ*11に寝、夙に*12おきて軍忠をつくし戦功をはけます*13、然而中比*14より蒙君恩、人に名を知らる、依之西国征伐*15之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽*16、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家*17を乱し叛逆之条、是又退治畢、此外諸国叛者*18討之、降者近之、無不属麾下者就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命者哉、予既挙登龍鷹揚之誉,成塩梅*19則闕*20之臣、関*21万機政*22、然処ニ氏直背天道之正理、対  帝都*23奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴*24不如拙誠*25、所詮普天下*26逆   勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄*27令進発、可刎氏直首事、不可廻踵*28者也、

 

     天正十七年十一月廿四日*29 (朱印)

 

                                 北条左京大夫とのへ*30

 

 

(書き下し文)

 

                  (承前)

 

一、当年極月上旬、氏政出仕致すべき旨の御請一札進上候、これにより津田隼人正・冨田左近将監差し遣わされ、沼田渡し下され候こと、

 

一、沼田要害請け取り候上は、右の一札に相任せ、すなわち罷り上るべきと思し召され候ところ、真田相拘え候名胡桃の城を取り、表裏仕り候上は、使者にご対面の儀なさるべきにあらず候、彼の使い生害に及べしといえども、命を助け返し遣わし候こと、

 

一、秀吉若輩の時、みなしごとなりて信長公幕下に属し、身を山野に捨て、骨を海岸に砕き、干戈を枕として夜半に寝、つとに起きて軍忠を尽くし、戦功を励ます、しかりて中ごろより君恩を蒙り、人に名を知らる、これにより西国征伐の儀仰せ付けられ、大敵に対し雌雄を争うきざみ、明智日向守光秀無道のゆえをもって、信長公を討ち奉り、この注進を聞き届け、いよいよ彼の表へ押し詰め存分に任せ、時日を移さず上洛せしめ、逆徒光秀の頸を伐り、恩恵に報い会稽を雪ぐ、その後柴田修理亮勝家、信長公の厚恩を忘れ、国家を乱し叛逆の条、これまた退治しおわんぬ、このほか諸国の叛者これを討ち、降者はこれを近づけ、麾下に属せざる者なし、なかんづく秀吉一言の表裏これあるべからず、このゆえをもって天命に相叶う者かな、予すでに登龍鷹揚の誉れを挙げ,塩梅則闕の臣となり、万機政を関る、しかるところに氏直天道の正理に背き、帝都に対し奸謀を企つ、なんぞ天罰を蒙らざるかな、古諺に云わく、巧詐は拙誠に如かず、所詮普天下の勅命に逆らう輩、早く誅伐を加えざるべからず、来歳必ず節旄を携えて進発せしめ、氏直の首を刎ねるべきこと、踵を巡らすべからざるものなり、

 

(大意)

 

                         (承前)

 

一、本年12月上旬に氏政が上洛すべきと請け負った書面が差し出されたので、津田信勝・冨田一白を派遣し、沼田城を北条氏に与えたこと。

 

一、沼田城を請け取った以上、右の書面通りすぐさま上洛すると秀吉様がお考えになっていたところ、真田昌幸が抱えている名胡桃城を攻め取るなど協定を破ったわけなので、北条の使者に謁見することなどもはやできない。使者は処刑すべきところだったが、助命し小田原へ帰らせたこと。

 

一、秀吉がまだ若輩者だったとき、孤児となって信長公の臣下となり、身を山野に捨て、骨を海岸に砕いて、干戈を枕として夜遅くに寝、早朝に起きて軍忠を尽くし、戦功を励ましていた。その後君恩を蒙り、人に名を知られるようになったので毛利攻めを命じられ、「ゴリアテ」と雌雄を争っていたさなかに、明智光秀は無道であるため信長公を弑逆し、この報せを受け、短時日に上洛し、逆徒光秀の頸を伐りとったのである。信長公の御恩に報いまた汚名を雪ぐこともできた。その後柴田勝家は信長公の恩を忘れて、宸襟を悩ませ叛逆したので、これもまた滅ぼした。このほかの諸国の「反逆者」は攻め滅ぼし、降伏した者は臣下の列に加え、この関白の臣下とならなかった者はいない。とりわけ秀吉は一言たりとも嘘偽りを述べたことはないゆえに天命に適うものとして選ばれたのである。予はすでに登龍鷹揚の誉れを挙げて,天皇を補佐して政務を助ける臣となり、すべての政務を関っている。しかし氏直は天道に背き、朝廷に対して奸計を企ている。どうして天罰を蒙らずにいられようか。古い諺に「巧詐は拙誠に如かず」とある。所詮は天下の勅命に逆らう輩であるので、早々に誅伐を加えないわけにはいかない。明年必ず節旄を携えて出陣し、氏直の首を刎ねることを翻意するなどありえないのだ。

 

 

 

 

本文書の最後の一つ書は、北条氏が約諾を違えた事実を一つひとつ挙げた前半4箇条に比べて、別人が書いたようにしか思えないほど悪い意味で際立っている。実際口述筆記なのだが、この部分のみ学僧などに案を練らせたのであろう。中国故事や古典を多数引用し、如何に自分が信長に尽くしてきたか、その努力の甲斐があって「天命」に適い「塩梅則闕の臣」にまで登り詰めたのだと高らかに宣言している。しかもこれまで秀吉が嘘偽りを発したことは一度もないという、見え透いたウソまでついている。事実、下線部はほとんど事実とはほど遠い。当時「人をたらす」には「人を欺く詐欺師」という意味しかなかった*31。その意味において秀吉は人を誑(たぶら)かす「人誑(たら)し」と呼ぶにふさわしい

 

ところで請け取った諸大名はこれを見てどう思っただろう。個人的には最後通牒であることは間違いないにしても、誇大妄想がかった煽動文、いわゆるアジビラにしか読めない

 

「家忠日記」を著した松平家忠の曽孫にあたる忠冬が「家忠日記」に増補、追加する目的で編んだ「家忠日記増補追加」天正16年8月15日条には、北条氏規が秀吉に謁見し、秀吉が家康と氏直の国境を巡る協定について「吾れ是を委く知らす重て氏直か臣を指し上せ猶其子細を達すへく」と北条氏規に述べている。こういった交渉の場で関白たる秀吉が「家康と北条の国境線について詳しく知らない」と述べたというのは、本文中秀吉を呼び捨てに、家康を「大神君」とするなど徳川による支配の正当性を「粉飾した」点は気になるものの、必ずしも現地の状況を詳細に把握すべきと秀吉は考えなかったのだと思われる。氏規は小田原に帰り氏政・氏直にこの旨を伝えた。また氏直は「重ねて氏直の家臣を上洛させ、その詳細を知らせるように」との秀吉の命にしたがい、板部岡江雪を大坂に遣わし、「翌天正17年12月初旬に氏直が秀吉に謁見するため上洛すれば、沼田城を与える」との言質を取っている。

 

この「家忠日記増補追加」の記事は本文書と平仄が合うので、おおむね妥当とみられる。

 

また奈良興福寺の塔頭多聞院英俊による「多聞院日記」天正16年8月18日条に「京都へは東国より相州氏直の伯父美濃の守*32上洛、東国悉く和談相調いおわんぬ、奇特*33不思儀*34のことなり、天下一等*35満足充満す」と秀吉と北条氏の和議が成立したことをきわめてめでたいことと記している。

 

なかでも「天下一等満足充満す」という記述は、秀吉と北条による武力衝突が大規模な戦争に発展し、多くの人々が巻き込まれる不安から解放された、当時の雰囲気をよく伝えている。無論当時の人々の中には傭兵として稼げる戦争を歓迎する者も多くいたはずである。その一方それとは対照的に掠奪や奴隷狩りの恐怖に怯える者も多い。どちらが多数派だったかは判断しようもないが、少なくとも英俊は「和談」(和平)を望んでいたことがこの記述からわかる。ただし「天下一等」とはいっても所詮英俊の耳目に入る範囲内にとどまる。また彼が望んだのは「和談」であって、必ずしも人口に膾炙するような「天下統一」でなかった点に注意を要する。

 

下線部に戻ろう。「麾下に属せざる者なし」とはこれまたとんでもない虚言である。しかしこの「麾下に属せざる者なし」という文言にこそ「天下統一」の本質が現れているのであり、ヒエラルヒッシュな側面を抜きにして「惣無事」を語ることは出来まい。

*1:北条

*2:6月5日富田一白・一鴎軒宗虎宛北条氏直書状

*3:信勝。織田信長の一族で天正9年から秀吉の家臣となる

*4:一白

*5:上野国利根郡沼田城

*6:昌幸

*7:上野国利根郡名胡桃城

*8:みなしご。孤児のこと

*9:バッカ。もとは近衛大将の唐名だったが、転じて将軍の居処、その臣下となった者をいう。ここでは臣下の意

*10:干(たて)と矛(ほこ)で武器や戦争を意味する

*11:夜半

*12:ツトニ。朝早くから、古くから。ここでは朝早くから

*13:励ます。自らの気持ちを奮い立たせる

*14:ナカゴロ。その途中の時期

*15:毛利攻め

*16:「会稽の恥」=敗戦の恥辱。中国故事による。以下同様

*17:天皇

*18:ハンジャ、反逆者

*19:今日では「アンバイ」と読むが当時は「エンバイ」。調味するいみもあるが、ここでは「臣下が君主をうまく助けて政務を処理する」意

*20:ソッケツ。適任者がいないときは欠員とすること。とくに太政大臣を指す

*21:アズカル

*22:バンキマツリゴト,政務全般

*23:「企」脱

*24:

*25:「巧詐は拙誠にしかず」、「たくみに人を偽るのは、拙くても誠意があるのに及ばない」の意

*26:フテンノシタ、普く覆う天の下

*27:セツボウ。天子から征伐の証しとして賜る旗

*28:きびすをめぐらす。後戻りする

*29:グレゴリオ暦1589年12月31日、ユリウス暦同年同月21日

*30:氏直

*31:『邦訳日葡辞書』など

*32:氏規

*33:「神仏などの不思議な力」の意

*34:「思いはかることもことばで言い表わすこともできない」の意。「奇特」も「不思儀」も神仏の加護による「奇蹟」を意味している

*35:

天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状(最後通牒)1

 

天正17年11月24日、秀吉はついに北条氏直へ最後通牒を発した。しかも当人のみならず諸大名へも「北条左京大夫とのへ」との充所と朱印を捺した正本を送りつけている。原則として古文書は受け取った者の家に残されるものであるが、正本が各大名家に残されるというのはきわめて珍しい。また天正5年に正三位権大納言となるも同13年に勅勘を蒙り、京都を去って堺に逼塞していた山科言継の日記「言継日記」12月16日条にも「殿下(秀吉)より北条に対して条々仰せのわけ、かくのごとし、去る月廿四日なりと云〻」と伝聞の形で全文が書き写されている。3週間後であるが、長文にもかかわらず本文はもちろん様式まで正確に書き写されていて、写もしくは原本を見て書き写したことは間違いない。かなり広範囲に出回っており、偶然流出したのではなく、秀吉が意図的に広めたとみるべきだろう。つまり、これは北条氏直への最後通牒であると同時に自らを「公儀」と位置づける政治的な檄文でもある。

 

全文は五ヶ条からなる、かなりの長文であるため分割することにした。今回はこれまで入れてきた「(闕字)」の注釈を入れず、原文通り一字分空白のママとした。

 

 

     条〻

 

一、北条*1事、近年蔑 公儀*2不能上洛、殊於関東任雅意*3狼藉条不及是非、然間去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿*4依為縁者種〻懇望候間、以条数*5被仰出候へハ、御請申付被成御赦免、則美濃守*6罷上御礼申上候事、

 

一、先年家康被相定条数*7、家康表裏之様申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付之間、家〻郎従*8差越候へと被仰出候処ニ、江雪*9差上畢、家康北条国切*10之約諾*11儀如何と御尋候処、其意趣者甲斐・信濃之中城〻ハ家康手柄*12次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国ハ則家康被申付候、上野沼田*13儀者北条不及自力*14、却家康相違之様二申成、寄事於左右*15、北条出仕迷惑*16之旨申上候歟と被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田城ニ相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中二在之城をハ真田可相拘之由被仰定、右之北条ニ被下候三分二之替地*17者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条可出仕との一札出候者、則被差遣御上使*18、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下*19候事、

(次回へ続く)

(四、2768号)
 

(書き下し文)

 

     条〻

 

一、北条のこと、近年公儀を蔑み上洛あたわず、ことに関東において雅意に任せ狼藉の条是非におよばず、しかるあいだ去年御誅罰を加らるべきところに、駿河大納言家康卿縁者たるにより種〻懇望し候あいだ、条数をもって仰せ出だされそうらえば、御請申し付けてご赦免なされ、すなわち美濃守罷り上り御礼申し上げ候こと、

 

一、先年家康相定めらるる条数、家康表裏のように申し上げ候あいだ、美濃守ご対面なさるる上は、境目などの儀聞し召し届けられ、ありように仰せ付けらるるべきのあいだ、家〻郎従差し越しそうらえと仰せ出され候ところに、江雪差し上げおわんぬ、家康と北条国切の約諾の儀いかがとお尋ね候ところ、その意趣は甲斐・信濃のうちの城〻は家康手柄次第に申し付けらるべく、上野のうちは北条申し付けらるべきの由相定め、甲信両国はすなわち家康申し付けられ候、上野沼田の儀は北条自力に及ばず、かえって家康相違のように申しなし、事を左右に寄せ、北条出仕迷惑の旨申し上げ候かと思し食され、その儀においては沼田下さるべく候、さりながら上野のうち、真田持ち来たり候知行三分二沼田城に相付け、北条に下さるべく候、三分一は真田に仰せ付けられ候条、そのうちにこれある城をば真田相拘うべきの由仰せ定められ、右の北条に下され候三分二の替地は、家康より真田に相渡すべき旨お究めなされ、北条出仕すべしとの一札出だしそうらえば、すなわちご上使を差し遣され、沼田相渡さるべしと仰せ出され、江雪返り下られ候こと、

 

(大意)

 

一、北条は、最近公儀を軽んじて上洛せず、特に関東においては恣意的に支配しており無秩序の状態であること夥しい。したがって昨年処罰しようと考えていたが、徳川家康卿の縁者ということでいろいろ願い出たので、条書を下して下知したところ、家康が請け負うことでお許しになったので、すみやかに北条氏規が上洛して御礼申し上げたこと。

 

一、先年家康が定めた条書について、家康が表裏者のようにそなたは申しており、氏規と対面される以上、国郡境目などの件をお聞き届けになり、あるがままにするよう命じるべきなので、家中の家臣などを差し向けるように仰せられたが、重臣の板部岡江雪を派遣してきた。江雪に家康と北条との国境設定合意の進捗状況はどのようになっているのかと尋ねたところ、江雪が言うには甲斐・信濃の各城は家康が攻め取り次第のものとし、上野は北条の支配下とすべきと定め、すなわち甲信両国は家康の支配下とされていますと回答した。上野沼田城については北条の独力では維持できず、かえって家康が虚偽の申し出をしているように申し、あれこれと理由を付けて、北条が上洛できないと申すのかと殿下がお思いになり、沼田城については北条に下さるように、上野のうち、真田がこれまで知行してきた三分の二の領地も沼田城に附属させて、北条に与える。三分の一は真田の知行とするので、真田の知行となる領地内にある城は真田が支配すべきと定め、今申した北条に与える三分の二の替地は、家康から真田に渡すように決め、その上で北条が必ず上洛すると書面で申し出れば、すぐさまこちらから使者を派遣し、沼田城を与える旨仰せられ、無事江雪も関東へ帰国できただろうこと。

 

 

冗長で重複した部分もあり、意味を正確に取りにくい部分も多いがおおむね以上のような趣旨であろう。

 

『邦訳日葡辞書』は「公私」を「主君と私」の意味とする。これは「公」は「私」の上意にある者を意味していたからである。本来「私的な」関係である主従関係を日本語で「公私」と表現するのは、「おほやけ」がもともと「大宅」(おおやけ=大きな宅)を意味していたことと無縁ではない。「大宅」の対義語は「小宅」(こやけ)である。「公儀」という言葉もそうした歴史的事情を抜きにして語ることは出来ない。ちなみに信長は自身を「天下」と位置づけ、将軍足利義昭を「公儀」とし、「天下」を「公儀」の上位に位置づけた。

 

下線部①の、小田原北条氏が「公儀を蔑ろにし」ているというのは秀吉に臣従しないことであって、すなわち「私的な」主従関係に入るか否かを問題にしているのである。北条氏側が特段「公的に」問題を起こしているわけではない。中世末期の戦国大名等はそれぞれを「公儀」とか「国家」などと自称し始める。これは「外交権」が「日本国王」であった室町将軍家から大内氏や大友氏、島津氏などの各大名へ分割委譲され始めたことと軌を一にしている。中世末期が日本史上もっとも分権的な社会だったといわれる所以であるが、信長や秀吉はそうした諸権力を集権的に再編成する「天下統一」事業に乗り出した。今日の日本社会の単一的で中央集権的な構造の起点をこの時期に求めることも可能である。ただし、秀吉は「日本」の領域の「東端」*20を「津軽・合浦・外ヶ浜」であると何度も繰り返している。だからこそ奥羽地方を制圧したあとの関心が大陸へ向かったわけである。また琉球王国も幕末期まで「外国」と認識されていた。こうした当時の「領域的認識」も押さえておきたい。

 

Fig.1 中世日本の領域感覚

                                                                                                     Google Mapより作成

 

下線部②は北条氏の使者である板部岡江雪とのやりとりである。「家康と北条の国切の約諾」が如何なる状況下を尋ね、裁定者である秀吉自身がその可否を判断するわけである。ここに秀吉が「公儀」を自称する根拠がある。

Fig.2 上野国沼田城周辺図

                                                                                   Google Mapより作成

 

*1:氏直

*2:豊臣政権のこと。「公儀」の一般的な意味は『邦訳日葡辞書』に「宮廷、または宮廷における礼法上の事柄や用務」とある。『日本国語大辞典』は「日葡辞書」のこの項を引用して「礼法上の」を「政治的な」とするが、前訳書は原文の「politicos」は「道」などと同様の「policia」(儀礼)に関することだろうとしている。後述

*3:我意とも。「雅意に任せる」で「自分の考えや意思のままに行動する、処理する」の意。現在各地に「がいに」=「大変に、強い、素晴らしい、手荒な」という言い方が残っているが、当時は「がいな者」を「主君や父母に礼儀正しくない、自分勝手な者」の意味だった

*4:徳川家康。摂政、関白、大臣を「公」、大中納言、参議、または三位以上の貴族を「卿」といい、あわせて「公卿」と呼んだ。水戸光圀は中納言なので「水戸光圀公」と呼ぶのは誤り

*5:同日付徳川家康宛朱印状。天正17年11月24日徳川家康宛豊臣秀吉朱印状写 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

*6:北条氏規。相模国三崎城城主、伊豆国韮山城城将、上野国館林城城将

*7:未詳、徳川林制史研究所編『徳川家康文書総目録』では見つけられなかった

*8:北条氏の家臣の各家々の家臣。要するに軽輩

*9:板部岡江雪斎/嗣成。北条氏の評定衆・右筆を務め、北条氏滅亡後は秀吉の御伽衆となり名字を岡野に改め、秀吉死後の上杉景勝攻めでは家康に属した

*10:国分、つまり国々を分割し区分すること。国境相論の裁定結果

*11:豊臣惣無事論を提唱した藤木久志氏はこの「国切の約諾」を大名間の領土協定として重要視している

*12:武功、軍功

*13:利根郡沼田城

*14:「自力救済」の「自力」は法に則った手続きや公権力によらず自らが実力行使に及ぶ行為を指す学術概念だが、ここでは単に「独力で」の意。秀吉の「惣無事」とは自力救済原理の否定であるだけに蛇足ながら注意を喚起した

*15:「左右」は「そう」と読み、「あれこれ」の意。「事を左右に寄せ」で「あれやこれや文句を言って」

*16:「迷惑」は今日的には相手に対して「迷惑をかける」意味で使われることが多いが、当時は自分たちが「困惑する」、「どうしてよいか途方に暮れる」といった意味で使われることが多いので注意を要する

*17:「替地」は秀吉が武士の在地性を否定し、「鉢植え」化を計るこれまた重要な政策基調である

*18:くどいくらいの敬意表現を用いているので秀吉から派遣された使者

*19:「返り下る/帰り下る」で都から地方へ帰国するの意

*20:「北端」は当時佐渡島とされていた

「市場で取り引きされる1人あたりの単価と取引総量の積」は人々の生活水準のメルクマールたり得るか調べてみた

かなり挑発的なタイトルになってしまったが、このところ流行の数量経済史に覚える違和感の一端をド素人ながら考えてみた。

 

主食など生活必需品の需要曲線は価格弾力性が低く、傾きが急な右下がりの曲線となる。なぜなら人間は価格が下がるまで霞を食べながら「私待つわ、いつまでも待つわ」などとあみんのような悠長なことを言ってはいられないからだ。一方で価格の下落を待てる一般商品の需要曲線の傾きはゆるやかである。他方の供給量は1年ごとに作況が決まるので定数となり垂直な直線で表される。これを図示すると図1、2のようになる。

 

Fig.1 主食など生活必需品の需給均衡点(1石あたりの米の価格を例にした場合)

 

 

人口は一定とする。なぜなら飢餓で人口が減り始めるのは凶作時に価格と供給量が均衡したあとに始まるからである。

 

さて図1では平年の作柄において「単価と取引総量の積」(「総生産」と仮に呼ぶ)は80,000両となる。一方で凶作時は156,000両となり、「総生産」は凶作時に1.95倍に跳ね上がる。もちろん1人あたりの「総生産」も同様である。しかし供給量=生産量は減少しているため人口 N > 0 で供給量=生産量を割ると

 

    4,000石 / N > 3,000石 / N 

 

となり「1人あたりの生産量」は3 / 4に減少しており、個々人が摂取量を変えないとすれば1 / 4は飢餓に苦しむか、全員が摂取量を3 / 4に減らして我慢するかの間をさまようことになるだろう。いずれにしても1人あたりの「総生産」が増加しても、個々人の生活はむしろ貧困に陥る場合があるということである。主食などの必需品は価格ではなくむしろ供給量=生産量に依存する。

 

ついでこれを一般的に検討してみる。

 

Fig.2 主食など生活必需品の需給均衡点

 

 

 

(Proof)

 

平年時の価格と供給量をP1とQ1,凶作時をP2、Q2と、

「単価と取引総量の積」を平年ではS1、凶作時はS2とすれば、それぞれ

   S1 = P1 * Q1                                                 ・・・①

           S2 = Q2 * Q2                                                   ・・・②

となる。また需要曲線は独立変数を供給量Qとし、従属変数の価格をPと措けば

   P = αQ + β ( α < 0 ,  β > 0)                               

で表せる*1

 

二つの均衡点は需要曲線P上の点なので

  E1 = ( Q1 , P1 ) = ( Q1,  αQ1 + β )

       E2 = ( Q2 , P2 ) = ( Q2,  αQ2 + β )

となる。

さて

 S1 = P1 * Q1 = ( αQ1 + β ) * Q1 =  α * Q1^2 + β * Q1 

 S2 = P2 * Q2 = ( αQ2 + β ) * Q2 = α * Q2^2 + β * Q2

ところで

 S2 - S1 = α * Q2^2 + β * Q2 - (α * Q1^2 + β * Q1 )

              = α * ( Q2^2 -  Q1^2  ) +  β * ( Q2 -Q1 )

              = α * ( Q2 -  Q1 )( Q2 + Q1 ) +  β * ( Q2 -Q1 )

              =  ( Q2 -  Q1 ) * {  α * ( Q1 + Q2 )  +  β }     ・・・③ 

        ③ 式において

       Q2 - Q1  < 0   ・・・④

       ところで

     α * ( Q2 + Q1 )  +  β は需給量が( Q1 + Q2 )の時の価格P( Q1+Q2 )であるから非負であり*2

     α * ( Q2 + Q1 )  +  β ≥ 0   (等号はタダで放出する場合にのみ成り立つ)   ・・・⑤

 

よって④と⑤より

      ( Q2 -  Q1 ) * {  α * ( Q2 + Q1 )  +  β } ≦ 0

           ∴  S1 - S2  ≤ 0   S1 ≤ S2

これも1人あたりで表せば 

                S1 / N S2 / N  ( N > 0 )

となり凶作時の方が「1人あたりの単価と取引総量の積」が増加することが明らかとなった。それは「国民1人あたりの経済取引の総量」は個々一人ひとりの「なんらかの生活水準を示すメルクマール」たり得ないことをも意味する

 

無論「1人あたりの経済取引総量」の増減にかかわらず、個々人一人ひとりの「生活水準」は様々であって実態的な「何か」を示すメルクマールとはならず、単なる1指標に過ぎない

 

国勢調査の用紙にはたとえば定住せずに生活する人々は「〇月〇日24時の居処をもって住所とすること」などといった注意点が詳細に書かれている。統計調査に馴染まない人々がいることを政府も知っているのだ。 

  

「経済を回せ」というのは財やサービスの単価と取引総量の積で表される数値を維持させよという意味であって、社会を維持したり、人命を守れと主張しているわけではない。「T4(テーフィア)作戦」を彷彿とさせる「強制的な安楽死」政策を唱える者も現れた。今回のパンデミックはその点を一層顕在化させた。

 

こうした1人あたりの国民総生産(GNP)や国内総生産(GDP)の上昇の恩恵を受けるのはせいぜいヤッピーくらいで、市井の者には無縁である。1980年代末ごろから、いわゆるトレンディードラマなるものが流行した。主人公は都会の一等地にあり、駅から歩いて数分の、しゃれたインテリアに囲まれた3LDKくらいの贅沢なマンションに住んでいる。家賃はおそらく給与の数倍から十数倍にはなるだろう。実家から毎月百万円単位の仕送りがなければ実現できないなど、非現実的な演出がそこかしこに見られた。所詮はブラウン管の中のフィクションだったはずで、当時のティーンエージャーもそこは弁えていたことを覚えている。しかしその後なぜか「史実」となってしまった。

 

以上恨み節も込めて演繹的に証明してみた。素人が初歩的な知識をもとに考えたので間違いも多いはずである。その点はご批判を仰ぎたい。

 

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人々が「一様な生活水準にある」というのはイデオロギッシュな幻想である。「格差」ではなく、身分階級階層など社会科学は様々な分析概念を生み出してきたが、それらは質的な差異を指標にしているのであり、「格差」という用語はすべてを量的で一様な問題に還元してしまう危険性がある。それとは対照的に階級や身分は生産手段の所有/無所有や人格的支配隷属関係を含む概念であり、階層は債務関係の起点となる。そうした社会構造を無視した量的差異のみに注目することは問題の所在を曖昧にするだけである。

 

たとえば1980年代後半のように羽振りのいい*3時期があったからといって、全国津々浦々の人々がそういった生活をしていたわけではない。歴史は人間の数だけあるのであって、統計数値にそうした実態は現れてこない。「ひとりの死は悲劇だが、百万人の死は統計上の数値でしかない」という格言は「一人ひとりにはそれぞれ歴史があるが、統計数値になると人々の顔や歴史は見えてこない」という意味だとブログ主は解釈している。「神は細部に宿る」という言葉を今一度噛み締めたい。

 

以上の話は市場で取り引きされる生活必需品に限っており、自家栽培などで収穫されるものは含まない。市場は「参入するのも退出するのも自由な」場であり、「気に入らなければ出ていけばいい」のである。退出した者のことなど去る者日々に疎しで、野垂れ死にしようが一向に構わない。実際、餓死者の遺体で川が堰き止められ、洪水が起きたという事例すらある。また市場に参入するためには資格がある。それは財産を持っていることである。

 

*1:価格を独立変数、需給量を従属変数とする経済学からは非常識の誹りを免れないあろうが、「総生産」は価格と需給曲線の囲む図形の面積で表されるからここでは問題ない

*2:「 α * ( Q2 + Q1 )  +  β < 0」とは金を提供してまで物を受け取らせる行為を意味し、売買でなく「贈与」になってしまう

*3:「バブリー」という表現は「羽振りがいい」が訛った言葉なのではないかとひそかに思っている。「バブル」は日本語で「泡沫」という意味で決してポジティブな意味ではないからだ