日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年2月11日北郷時久・北郷忠虎宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

言上之趣被聞食候、至肥後境目*1在陣之由候、辛労令察候、彼国静謐之上者、令帰陣尤候、猶石田治部少輔可申候也、

   二月十一日*2 (朱印影)

       北郷一雲軒*3

       北郷讃岐守とのへ*4

(三、2435号)
 
(書き下し文)
 
言上の趣き聞こし食され候、肥後境目に至り在陣の由に候、辛労察せしめ候、彼の国静謐の上は、帰陣せしめもっともに候、なお石田治部少輔申すべく候なり、
 
(大意)
 
上申した件について確かに聞き届けました。肥後薩摩国境に在陣したとのこと、その辛労は察するにあまりあります。肥後を平定しましましたので帰陣される由、まことにごもっともなことです。なお詳細は石田三成が口頭で申します。
 
 

 

Fig. 薩摩国大口および日向国庄内周辺図

f:id:x4090x:20220116151958p:plain

        『日本歴史地名大系』熊本県、宮崎県、鹿児島県より作成

 

「庄内」とは上図の通り、日向国諸県郡から大隅国囎唹(曽於:ソオ)郡にかけての広大な地域で、北郷氏はここの領主であった。天正15年5月26日島津義弘宛秀吉朱印状によれば、北郷氏が当知行する土地は1000町に上ったという*5

 

「言上の趣き」が具体的に何を指すのか明示されていないが、前回読んだ同日付島津義弘宛判物写から、日向国の知行地に関する北郷氏らの言い分を「確かに聞き届けた」という意味なのだろう。北郷氏も日向の知行地に関する内紛に巻き込まれただろうことは想像に難くない。

 

前回も述べたが、北郷氏や島津氏は豊臣政権に当知行状態の「安堵」を保証され、また秀吉にとっても裁定を下すことで「紛争の調停者」であることを具体的に示せる点で双方の利益は一致していた。

 

ところでこれに先立つ天正7年12月23日、北郷時久は島津義久に「当知行安堵」されている。このときの安堵状を見ておこう。

 

 

このたび、神裁*6をもってながなが無ニの忠勤たるべきの旨趣、もっとも肝心、それについて当知行証文のこと、改めずといえども*7、御懇望*8の条、数箇所の城・所領異儀なく宛行せしむるの条、くだんのごとし、

    天正七年拾二月廿三日    義久

          北郷左衛門入道殿*9

 

(『大日本古文書 島津家文書之三』1427号、237頁)

 

 

当知行証文を「改めずといえども」とあるように当知行には現実にその土地を支配しているという実績に加え、その正当性を証明する証文(公験=クゲン)が必要だった。ゆえに今回は例外的に「改めない」と断っているのである。時代劇などで「当知行」を「切り取り次第」つまり実力=武力で奪い取った土地としているようだが、現実はそれほど単純ではない。

 

この島津義久ー北郷時久の主従関係は、本文書により秀吉ー北郷へのそれへ変貌を遂げたことになる。

 

 

*1:薩摩国伊佐郡大口。下図参照

*2:天正16年

*3:ホンゴウ/時久。日向国諸県郡庄内領主、都之城城主。下図参照

*4:忠虎。時久の息

*5:2204号

*6:神の裁き

*7:「改める」は「宗門人別改帳」の「改」と同様、調べる、検査する、吟味するの意

*8:請願

*9:時久

天正16年2月11日島津義弘宛豊臣秀吉判物写

 

差上使者言上之趣被聞召届候、至肥後境目在陣之由候、雖然彼国静謐之上者*1、可有帰陣候、日州*2知行分出入之由申越候、罷上候節、是又可被仰付候、猶石田治部少輔*3可申候也、

   二月十一日*4 御自判

         島津兵庫頭*5

            とのへ

(三、2433号)

 

(書き下し文)

 

使者を差し上げ言上の趣聞こし召し届けられ候、肥後境目に至り在陣の由に候、然りといえども彼の国静謐の上は、帰陣あるべく候、日州知行分出入の由申し越し候、罷り上り候節、これまた仰せ付けらるべく候、なお石田治部少輔申すべく候なり、

 

(大意)

 

使者を遣わし申し上げてきた趣旨について確かに聞き届けました。薩摩肥後国境に陣を構えたとのこと、しかしながら肥後はすでに鎮圧しましたので帰陣するように。日向の知行分についてトラブルがあるとのこと。上京したさいにでも裁定を下すことでしょう。なお詳しくは石田三成が口頭にて申します。

 

 

本文書は石田三成が使者として島津義久のもとへ赴きもたらされたものである。豊臣政権中枢と諸大名間の命令伝達をスムーズに行い、また大名権力を服属させ、後見する役割を担った者を取次という。カタカナ語で「リエゾン」といった方がわかりやすいかもしれない。

 

天正15年6月秀吉は九州国分を下表のように行った。

 

Table.1 天正15年九州国分

f:id:x4090x:20220111141602p:plain

日向国は島津久保*6、伊東祐兵、秋月種長に与えられていたが、「日州知行分出入」とあるように知行地をめぐる内紛が起きたようである。天正16年8月5日あらためて日向国の国分が行われた。その結果が下表のとおりである。

 

Table.2 天正16年8月日向国知行割

f:id:x4090x:20220112185017p:plain



知行割の単位は面積で、1ヶ郷の最大面積300~700町に対して最小面積が数町程度とかなりばらつきがあり、大雑把であることから「既存の帳簿」*7をもとにした、あるいは島津氏の申告のとおりに行われた可能性が高い。問題とされているのは実際の面積や石高などではなく「当知行」状態の「安堵」という、上級権力による土地領有権の保証である。

 

これを地図上にプロットしてみた。

Fig. 天正16年日向国知行割分布

f:id:x4090x:20220112164828p:plain

                   『日本歴史地名大系 宮崎県』より作成

この知行割でも入組状態は解消していない。それ以前はさらに錯綜を極めていたものと思われ、そうした事情が「日州知行分出入」という島津領国内の不安定な状況を作り出していた可能性が高い。

 

*1:肥後国人一揆を鎮圧した以上

*2:日向国

*3:三成

*4:天正16年

*5:義弘

*6:義弘の息

*7:「建久図田帳」など

天正16年1月19日小早川隆景宛豊臣秀吉判物

 

  去十二月廿一日之書状、於京都到来披見候、

 

一、肥後之様子、安国寺*1一書之通被聞召候、属平均、諸城へ人数丈夫ニ指籠之由尤候、誠寒天之刻長〻在陣、別痛入候、

 

一、有動*2事、先書*3ニ委細被仰遣候通候間、可成其意候*4、則為御上使、四国衆・浅野弾正少弼*5・加藤主計正*6・小西摂津守*7、其外弐万余、明日廿日ニ被差遣候、於様子*8ハ被仰含候間、遂相談可被申付候事、

 

一、阿蘇*9之儀も一揆棟梁人*10可在之候間*11、有御糺明、可被加御誅罰と思召候処、以大友*12御侘言*13可申之由、沙汰之限候*14、是又様躰御上使ニ被仰付候事、

 

一、豊前之悪徒等*15悉令誅罰、首到来候、定其方へも可相聞候、

 

一、九州儀者度〻如被仰遣候、何方迄も於悪逆之輩者、不残此度可被加御成敗と思召候条、弥無緩可被申付候事専一候也、

 

   正月十九日*16 (花押)

        小早川左衛門佐とのへ*17

(三、2422号)
 
(書き下し文)
 

  去る十二月廿一日の書状、京都において到来し披見し候、

 

一、肥後の様子、安国寺一書の通り聞し召され候、平均に属し、諸城へ人数丈夫に指し籠むるの由もっともに候、まことに寒天の刻み長〻在陣、べっして痛み入り候、

 

一、有動のこと、先書に委細仰せ遣わされ候通りに候あいだ、その意をなすべく候、すなわち御上使として、四国衆・浅野弾正少弼・加藤主計正・小西摂津守、そのほか弐万余、明日廿日に差し遣わされ候、様子においては仰せ含められ候あいだ、相談を遂げ申し付けらるべく候こと、

 

一、阿蘇の儀も一揆棟梁人これあるべく候あいだ、御糺明あり、御誅罰を加えらるべくと思し召し候ところ、大友御侘言をもって申すべきの由、沙汰の限りに候、これまた様躰御上使に仰せ付けられ候こと、

 

一、豊前の悪徒などことごとく誅罰せしめ、首到来候、さだめてその方へも相聞うべく候、

 

一、九州の儀は度〻仰せ遣わされ候ごとく、何方までも悪逆の輩においては、残らずこの度御成敗を加うらるべくと思し召し候条、いよいよ緩みなく申し付けらるべく候こと専一に候なり、

 
(大意)
 
先月21日付の書状京都にて拝見しました。
 
一、肥後の状況について、恵瓊の書状にしたためたとおりうかがいました。諸国を平らげ、諸城に軍勢を備えたとのこと、実に結構なことです。実に寒さ厳しき折長期にわたる在陣ご苦労なことです。
 
一、有動兼元のこと、先日の書状に詳しくしたためたとおりですのでその通りに処置してください。すなわち上使として四国衆・浅野長吉・加藤清正・小西行長ほか2万名余の軍勢を明日派遣します。詳しいことは申し含めていますので相談して事に当たってください。
 
一、阿蘇惟光も一揆の首謀者であるので、吟味のうえ斬罪に処すべきところ、大友義統からの申し入れがあったので再吟味することにします。詳しくはこれまた上使に申し含めております。
 
一、豊前の逆徒どもは悉く討ち果たし、首が到着しました。そちらのお耳にも入っていることでしょう。
 
一、九州仕置については何度も命じているとおり、抵抗する者はどこまででも追い詰めて成敗してやりますので、いよいよ油断・怠りなく統治することに専念してください。
 

 

Fig. 肥後国人一揆関係図

f:id:x4090x:20220103202917p:plain

                      Google Mapより作成



肥後国人一揆の「張本人」つまり首謀者に対する処罰に関する文書であるが、肝心な部分については上使に「申し含めた」としてなぜか言明を避けている。

 

本文書に関連して2407号についても触れたが、ここで「百姓」という身分呼称について一言述べておく。

 

「身分」というとどうしても制度上定められたトップダウン方式のものを想像しがちである。しかし通信や交通手段の未熟な社会において、広範囲に監視の目を光らせた「ビッグ・ブラザー」*18が存在し得たとは到底思えない。外見からもその場で一目で推測しうる社会的実態を反映したものと考えるべきだろう。つまり、経済的・政治的・文化的・社会的・宗教的…な階層をある程度視覚化し、共有しうる社会的な指標を反映し秩序づけられ、ボトムアップ的に形成されたものとみる立場である。社会とは何かを共有することで成り立つが、そのひとつが身分秩序であり、社会的合意により形成された慣習である。逆に言えばその「合意」を見いだすことで社会の構成原理を知りうることが可能となる。

 

ある者をある身分と認定するのはその者が属している集団である、というのが20世紀第四四半期以降の共通理解である。百姓と定めるのは村であり、町人と定めるのは町であるといった具合である。ただし村に住んでいる、町に住んでいるからといってその住人すべてが百姓や町人であるわけではない。原則的に

        百姓/町人であるなら村/町に住んでいる  真

     村/町に住んでいるなら百姓/町人である  偽

となる。とくに町に住む者のうち「地主」、「家持」などの町人や町人に准ずる者は人口のわずか数パーセントを占めるに過ぎず、大部分は日雇い業や年季奉公で糊口をしのいでいた。

 

「百姓」は本来「姓を持つ多くの者」の意で「おおみたから」とも呼ばれ広く一般人民を指していたので、その実態は時代により異なる。

 

秀吉が「百姓」と呼び、家臣たちにも在地の者たちにも「百姓」という呼び名で通じる、社会的実態を持つ者が「すでにいた」ということが重要なのであって、その逆ではない。ただし「百姓」という身分の者がある単一の階層を形成するものだったかは検討を要する。

 

有動兼元らの首を持参した者が百姓だった場合の処遇が問題となっていた。彼らは兼元らとともに秀吉に抵抗した武装勢力である可能性がある一方、労働力として貴重である。一罰百戒的な立場からは厳罰に処すべきかもしれないが、仕置という点から見れば一刻も早く耕作に専念させるよう「寛大な」措置を採った方が功利的である。肥後国人一揆の戦後処理はきわめてむずかしものになったであろう。

 

*1:恵瓊

*2:兼元。肥後国人隈部親永の子親泰の重臣

*3:天正15年12月27日付隆景宛判物、2407号

*4:有動のことは、今度一揆張本人の儀に候あいだ、ことごとく誅罰を加えらるべく候条、一人も漏らさざるよう申し付くべく候…上使相越し次第相談を遂げ、有動首を刎ねるべく候、ただし百姓として有動一類首をきり出で候については、百姓の儀は助け置かるべく候か、なお御上使に仰せ含めらるべく候こと」。「ただし」以降は、地元の百姓が有動一族の首を持参した場合、持参した百姓たちを助けるかどうかについては上使に言い含めてありますの意

*5:長吉

*6:清正

*7:行長

*8:詳細

*9:惟光。阿蘇神社大宮司

*10:「張本人」と同様首謀者の意

*11:同2407号文書において「阿蘇のこと、神主若輩に候あいだ、下〻猥りにこれあるべきと思し食され、これまた上使と相談糺明を遂げ、一揆張本人成敗候は、をのづから異儀あるべからず候」と一揆の「張本人」=首謀者であり、当然斬罪に処すべきものとされていた

*12:義統

*13:申し入れ

*14:「沙汰の限り」、「沙汰の限りにあらず」には「是非を論じる範囲を超えている/論じるまでもなく」と「是非を論じる範囲内である」の相反する二通りの意味がある。ここでは後者の「成敗するかどうかの是非を論じる」の意

*15:城井鎮房

*16:天正16年

*17:隆景

*18:ジョージ・オーウェル『1984年』

天正16年発給秀吉文書の概観

今回から天正16年発給文書に入る。発給文書227通の内訳は以下の通りである。

Table. 天正16年秀吉発給文書数

     合    計                    227通  
   公家宛知行充行                      29通              12.8%
   武家宛知行充行                      33通              14.5%
   寺社宛知行充行                        7通                3.1%
     知行充行小計                      69通              30.4%
        自力救済の否定                      29通              12.8%

 

知行充行状が全体の3割強を占める一方、天正16年を特徴付けるのが海賊禁止令と刀狩令といった自力救済の否定を目的とする法令である。

 

発給日別で見てみよう。

 

Fig. 天正16年秀吉文書日別発給数

 

f:id:x4090x:20211227191142p:plain

7月8日海賊禁止令と刀狩令が双方とも充所の記載のない形式で発せられた。充所に記載が見られないのは一斉発給したためであろう。旧大名家に多く残されているところから見て大名宛であって郷村宛でない。それぞれの本文中にも「自今以後、給人・領主由断致し、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所・知行以下末代召し上げらるべきこと」、「そのところの田畠不作せしめ、知行費えになり候あいだ、その国主・給人・代官として、右武具ことごとく取り集め進上致すべきこと」と領主または代官の義務として記されているところからもうかがえる。

 

百姓は秀吉にとって「飼い馴らすべき対象」であって、遵法精神を期待すべき存在ではなかったのである。

元和5年(1619)2月21日奉行所宛山城国葛野郡原村惣中訴状

 

      乍恐申上候

 

一、丹波国出雲村与山城国原村与山の出入*1二付、□□(御見)使被仰付被成御覧候間、有体可被仰上候間紙面に不申上候事、

 

一、山城国与丹波与堺目、①先々より無紛義ニ御座候、然処ニ②出雲村之領内之由、新義ニ申懸候事前代未聞ニ御座候事

 

一、去正月十九日ニ出雲村理右衛門・中村*2伝右衛門大しやう*3ニ□、うへ木*4をほり*5竹木をきり*6取申候事*7

 

一、小口村忠右衛門、同作兵衛大しやう仕、いなり*8山社を打やぶり*9山下*10へ打くたし*11申候事、

 

一、小口村与一、原村の家々乱入、戸たてく*12打やふり申事、

 

一、当月十二日ニ重而又大せい*13をもよほし*14、北屋村*15の与三郎と名乗、原村のはり堂まて打やふり候事、

 

一、作まへ*16の儀ニ御座候間、今程*17被仰付候ハねハ、耕作仕付*18候事成不申候事

 

右之通御見使御覧候間、被成御尋*19被仰付候ハヽ忝可奉存候、以上、

 

   二月廿一日           原村

                     

                     惣中(花押)

 御奉行様

 

(『新修亀岡市史資料編第二巻』412~413頁)

 

(書き下し文)

 

      乍恐申上候

 

一、丹波国出雲村と山城国原村と山の出入につき、(御見)使仰せ付けられ御覧なられ候あいだ、ありてい仰せ上げらるべく候あいだ紙面に申し上げず候こと、

 

一、山城国と丹波と堺目、①先々より紛れなき義に御座候、しかるところに②出雲村の領内の由、新義に申し懸け候こと前代未聞に御座候こと

 

一、去る正月十九日に出雲村理右衛門・中村伝右衛門大将に□、樹木を掘り竹木を伐り取り申し候こと、

 

一、小口村忠右衛門、同作兵衛大将仕り、稲荷山社を打ち破り山下へ打ち下し申し候こと、

 

一、小口村与一、原村の家々に乱入し、戸・建具打ち破り申すこと、

 

一、当月十二日にかさねてまた大勢を催し、北屋村の与三郎と名乗り、原村のはり堂まで打ち破り候こと、

 

一、作前の儀に御座候あいだ、今程仰せ付けられそうらわねば、耕作仕付候こと成り申さず候こと

 

右の通り御見使御覧候あいだ、御尋なられ仰せ付けられそうらわば忝く存じ奉るべく候、以上、

 

(大意)

 

   恐れながら申し上げます

 

一、丹波国出雲村と山城国原村の山論について、御検使を派遣され現地の様子をご覧になりましたので、あるがままを申し上げましたので本書面に申し上げていないことを以下述べます。

 

一、山城と丹波の国境線について、①従来から紛れのない明白なことでございました。ところが②出雲村の領域内であると新たに申し懸けられ、前代未聞のことでございます

 

一、去る1月19日には出雲村理右衛門と中村の伝右衛門を大将と仰ぎ、樹木を掘り竹木を伐り取っていきました。

 

一、小口村忠右衛門と作兵衛を大将に、稲荷山社を破壊し麓へ押し寄せてきました。

 

一、小口村与一は原村の家々に乱入し、戸や建具を破壊しました。

 

一、2月12日にはまた多数で押し寄せ、北舎村の与三郎と名乗る者が、原村のはり堂まで破壊の限りを尽くしました。

 

一、これから耕作の季節ですので、近日中に裁定を下していただきませんと田植に間に合いません

 

右のように御検使に御覧いただき、御糺明いただければ幸いでございます。

 

Fig.1 元禄国絵図丹波山城国境付近

f:id:x4090x:20211226171724p:plain

         国立公文書館所蔵元禄国絵図「丹波」、「山城」より作成

Fig.2 大正期上記付近地勢図

f:id:x4090x:20211226171950p:plain

「今昔マップ」より作成  https://ktgis.net/kjmapw/index.html

小口、出雲、北舎、中村の者たちが、これまで原村の「領域」とされてきた部分を「新儀に」自らのものと主張し、村内を破壊し尽くしたと原村は訴えている。

 

出雲などにとっては自分たちの「領内」であるので、原村が集落を構え、樹木や竹木等の資源を享受するのは「不当である」ということになる。紛争とはつねに正当性の衝突であって、自らを「不当である」ということはまずない

 

今回も前回と同様に「大将を仕り」とあるように指揮系統にもとづく統率の取れた行動だったことをうかがわせ興味深い。一方自力救済ではなく、領主の裁定を仰ぐ戦略を採用したのは原村の方だった。

 

原村は領主に裁定を急かすのだが、③にあるように田植に間に合わないことを強調している。田植ができなければ結局年貢を徴収することはできず、領主にも不利益となる。なかなか強かな戦略というべきであろう。

 

*1:デイリ。相論、紛争

*2:桑田郡出雲ノ中村、下図参照

*3:大将

*4:「植木」、「樹」、「樹木」。樹木一般のことで今日のように観賞用のため庭園に植える木ではない。なお植林した樹木のみを指すわけでもない

*5:掘り

*6:伐り

*7:「植木」は木材としても薪炭としても商品になる上、落葉は肥料になる重要な資源である。つまり資源の争奪戦で単なる嫌がらせではない

*8:稲荷

*9:「破る」は破壊するの意

*10:山の麓。集落のある場所

*11:「下す」は負かすの意

*12:建具

*13:大勢

*14:「催す」は人々を集める、召集する。「軍勢を催す」などという

*15:桑田郡北舎村、下図参照

*16:耕作

*17:近日中に

*18:「仕付」は「正しく苗を植える」の意で、転じて田植えや耕作一般を意味するようになった

*19:状況、道理などを明らかにしようとすること