今度至于片浦*1黒船*2着岸之由言上候、然者糸*3之儀商売仕度旨申之由候条、先銀子弐万枚、御奉行*4差添被遣候、有様ニ相場を相立可売上候、若糸余候ハヽ諸商人かハせ*5可申候、買手無之ニ付ては、有次第可被為召上候、此以後年中ニ五度十度相渡候共、悉可被為召上候間、毎年令渡海何之浦〻にても、付よき所*6へ可相着候由、可被申聞候、縦雖為寄船*7、於日本之地者、聊其妨*8不可有之候、糸之儀被召上儀者、更〻非商売之事候、和朝*9へ船為可被作着、如此之趣慥可申聞候、此方より御奉行被差下候まてハ、先糸之売買可相待候、猶石田治部少輔*10可申候也、八月廿七日*11 (朱印)羽柴薩摩侍従とのへ*12(四、2699号)(書き下し文)今度片浦に至り黒船着岸の由言上候、しからば糸の儀商売仕りたき旨これを申す由に候条、先ず銀子弐万枚、御奉行差し添え遣わされ候、有様に相場を相立て売り上ぐべく候、もし糸余りそうらわば諸商人買わせ申すべく候、買手これなきについては、有り次第召し上げさせらるべく候、これ以後年中に五度十度相渡り候とも、ことごとく召し上げさせらるべく候あいだ、毎年渡海せしめ何の浦〻にても、付きよき所へ相着くべく候由、申し聞けらるべく候、たとい寄船たるといえども、日本の地においては、聊かもその妨げこれあるべからず候、糸の儀召し上げらるる儀は、さらさら商売のことにあらず候、和朝へ船着かせらるべきため、かくのごときの趣きたしかに申し聞くべく候、この方より御奉行差し下され候までは、先糸の売買相待つべく候、なお石田治部少輔申すべく候なり、(大意)今回、片浦に黒船が着岸したと報告があった。そこで生糸の取引を行いたいとのことなので、銀2万枚を奉行に持参させ派遣する。世間並みの相場で奉行に売りなさい。その上で糸が余れば、諸商人に買わせなさい。買い手がいない場合はすべてこちらに召し上げるものとする。今後年に5回、10回と来航してもすべて(公儀として)召し上げるので、どこの浦においても着岸しやすいところへ来航すべき旨仰せ出された。たとえ漂着船であっても日本の地においては少しも取引の邪魔をしてはならない。生糸を召し上げるのは儲けを独占しようとしてではなく、本邦へ交易船が無事に航行できるようにするため、公儀としてきびしく命じたわけである。こちらより奉行を派遣するまでは、生糸の売買を行わないようにしなさい。なお石田三成が詳細を述べる。
Fig.2 16世紀の環シナ海世界
秀吉は各大名が自律的に行っていた海外貿易に対して介入を行った。生糸は重要な輸入品(輸出品は銀)だがそれを独占的に扱うことで財政を潤そうとしたようだ。下線部で「さらさら商売のことにあらず、和朝へ船着かせらるべきため」と豊臣政権による「私益」の追求でなく、海外貿易を盛んに行わせるためである旨述べられているが、かえって言い訳がましい。
秀吉はいわゆる「バテレン追放令」でも貿易を目的とした黒船来航を望んでいた。
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石見銀山を掌握した秀吉にとって貿易はさらなる蓄財手段であった。