日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年11月21日真田昌幸宛豊臣秀吉朱印状

小西行長や加藤清正に肥後天草の武装蜂起に対して指示を出した同日、東国の真田氏にも国境相論に関する文書を発している。秀吉による「天下統一」事業がそれほど簡単に進まなかったことを示していて興味深い。そのこと自体中世的秩序がいかに在地に深く根ざしていたかを物語っている。

 

 

 

其方相抱*1なくるみの城*2へ、今度北条*3境目者共令手遣*4、物主*5討果、彼用害*6北条方*7之旨候、此比*8氏政*9可致出仕由、最前依御請*10申、縦雖有表裏*11、其段不被相構先被差越御上使*12、沼田城*13被渡遣、其外知行方以下被相究候処、右動*14無是非次第候、此上北条於出仕申、彼なくるミへ取懸討果候者共、於不令成敗者、北条赦免之儀不可在之候、得其意、堺目諸城共、来春迄人数入置、堅固可申付候、自然*15其面人数入候者、小笠原*16・河中島*17江茂申遣候、注進候て召寄彼徒党等、可懸留置候城、対天下*18抜公事*19表裏仕、重〻不相届動於在之者、何之所成共、堺目者共一騎懸ニ被仰付、自身被出御馬、悪逆人等可被為刎首儀、案之中被思召候間、心易可存知候、右之堺目又ハ家中者共ニ此書中相見、可成*20競候、北条一札之旨於相違者、其方儀本知事不及申、新知等可被仰付候、委曲浅野弾正少弼*21・石田治部少輔*22可申候也、

 

   十一月廿一日*23 (朱印)

 

      真田安房守とのへ*24

(四、2758号)
 
 
(書き下し文)
 
その方相抱ゆる名胡桃の城へ、このたび北条境目者共手遣いせしめ、物主討ち果し、彼の用害北条方のるの旨に候、このころ氏政出仕致すべき由、最前御請申すにより、たとい表裏あるといえども、その段相構まわれず先差し越さるる御上使、沼田城渡し遣わされ、そのほか知行方以下相究わめられ候ところ、右はたらき是非なき次第に候、このうえ北条出仕申すにおいても、彼名胡桃へ取り懸かかり討ち果たし候者ども、成敗せしめざるにおいては、北条赦免の儀これあるべからず候、その意を得、堺目諸城とも、来春まで人数入れ置き、堅固に申し付くべく候、自然そのおもて人数入りそうらわば、小笠原・河中島へも申し遣わし候、注進候て召し寄せ彼の徒党など、懸け留め置くべく候城、天下に対し抜公事・表裏仕り、重々相届かざるはたらきこれあるにおいては、いずれの所なるとも、堺目の者ども一騎懸りに仰せ付けられ、自身御馬出され、悪逆人など首を刎ねさせらるるべき儀、案のうちに思し召され候あいだ、心易く存知べく候、右の堺目または家中の者どもにこの書中を相見せ、なるべく競わせ候、北条一札の旨相違においては、その方儀本知のことは申すに及ばず、新知など仰せ付けらるべく候、委曲浅野弾正少弼・石田治部少輔申すべく候なり、
 
(大意)
 
そなたが防衛している名胡桃城へ、今回北条が境目に盤踞する国人/国衆たちが攻め寄せ、重立った者を討ち果たし、名胡桃城を北条の支配下に入れたとのこと。近日中氏政が上洛して臣下の礼をとることを承知しているので、北条の裏切り行為にも手を出さずに先日派遣した使者につつがなく沼田城を渡し、また知行配分その他を決めたことはすぐれた功績である。このうえは北条が出仕した場合、名胡桃城へ攻め寄せ、真田方の「物主」を討ち取った者たちを成敗せずに北条を赦免することはない(北条を赦免する場合は必ず彼らを処分する)。その旨を承知し、境目の諸城に兵士を入れ、堅く防衛に努めること。万一軍勢が不足するなら、小笠原貞政へ河中島まで派兵するよう伝えてある。上申し兵力を集め、北条方の一味を足止めさせておくように。「天下」に対して背信・裏切りをなす場合は、境目の者たちに派兵させ、関白自らも出馬し「悪逆人」らの首を刎ねることは当然なので、安心すること。境目の者たちや家臣にこの文書を見せ、なるべく競わせるようにしなさい。もし北条が証文に背いたさいは(戦場での働きに応じて)本領安堵はもちろん、新知行地を仰せ付けられるだろう。詳しくは浅野長吉・石田三成が申す。
 
 

 

Fig.1 上野国名胡桃城・沼田城付近関係図

                              GoogleMapより作成

 

小田原北条氏は相模国の郡を下図、下表のように再編成している。


Fig.2 北条氏による相模国郡再編成

   

Table. 北条氏による相模国郡再編成

ルイス・フロイス『日本史』によると秀吉が関白の地位に就いてから、豊臣政権と北条氏の間に戦争が起きるのではと緊張が走ったり、「雪解け」ムードになったりと「東西冷戦」状態で数年が推移した。戦国期は南蛮(東南アジア)貿易などの「外交権」も含めてきわめて地方分権的な状況にあったが、相模国内の郡再編成もその分権化=独立化のひとつの表れと見ることもできる。したがってこうしたフロイスや当時の畿内の人々にとって小田原北条氏が豊臣政権の東方に聳え立つ「超大国」のように映ったと見ることもできよう。

 

半世紀前、石母田正は戦国分国法を中世ドイツの「ラントレヒト」*25に相当するものととらえ、戦国大名権力をひとつの公権力、国家と見ることができると指摘した*26。分国法とラントレヒトがただちに結びつくのか否かはさておき、この問題はヴェストファーレン体制を超歴史的に遡及しがちな今日、あらためて考えてみるべきかもしれない。

 

石母田が指摘するように、北条氏の発給文書にはしばしば「御国法」といった文言が見られ、日本年号ではなく「丁亥」(ひのとい)のように干支で年を記している。これは漢字圏(東アジアや東南アジアなど)に共通する「国際標準」の年紀法であり、これらのことから北条氏の「脱京都化」=「公権力化」の方向性を読みとることも可能である。

 

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さて本文書では、北条氏政が秀吉に出仕すると約したにもかかわらず、名胡桃城を攻め取るという行動に出たのに対し、それに応戦することなく沼田城の受け渡しや知行配分などの「実務」に専念したことを褒め称えている(①、②)。秀吉の許可なく*27応戦することは「私戦」と認定され、「豊臣の平和」秩序=「惣無事」を乱す行為となるからだ。

 

また③、④では堪えに堪えている真田氏に、いざというときは秀吉自ら軍勢を率い、本領安堵はもちろん、新恩給与も行う旨記している。

 

ところで③では豊臣政権の正当性を強調するため「天下」という言葉を用いることで、北条氏が「私戦」を構えようとしていると「公私の対立」を演出しているが、もちろんその実態は「豊臣政権下の秩序に対し」といったところである。

 

もう一つ重要なことは「堺目の者ども」という表現である。大名権力はこうした国人/国衆を編成することで成り立っていた。

*1:『日葡辞書』によれば「城を抱ゆる」で「城を維持し防衛する」の意がある

*2:上野国利根郡名胡桃城、図1参照

*3:小田原北条氏

*4:テヅカイ、実力行使に及ぶこと

*5:部隊の長など軍事的指導者。具体的には国人/国衆と呼ばれる者を指している

*6:名胡桃城

*7:のる、北条氏方の支配下に入る

*8:コノゴロ、近日中に

*9:北条、相模国西郡小田原城主。なお北条氏による相模国郡再編成については図2、下表を参照

*10:「承知する」の敬意を込めた表現。敬意の相手は秀吉

*11:ヒョウリ、背信行為

*12:「御」とあるので秀吉が派遣した使者

*13:上野国利根郡、図1参照

*14:ハタラキ、軍功

*15:万一の場合、もしもの場合

*16:貞政。信濃国筑摩郡松本城主

*17:信濃国更級/更科郡

*18:「天下」は単に空間的領域を示すのみならず、日本国内における政権の普遍的権威を強調するために用いられる政治的な用語である

*19:ヌキクジ、密約

*20:ナルベク

*21:長吉

*22:三成

*23:天正17年。グレゴリオ暦1589年12月28日、ユリウス暦同年同月18日

*24:昌幸、信濃国小県郡上田城主

*25:Landrecht=「ラントの法」。「ラント」は各領邦国家であり、中央政権にあたるものを「ライヒ」Reichと呼ぶ

*26:石母田「解説」、『中世政治社会思想 上』岩波書店、1972年

*27:本文中に万一の際は「注進候て」とある

天正17年11月21日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状

 

(包紙ウハ書)

「    加藤主計頭*1とのへ  」

 

書状被加御披見候、志岐城為成敗、小西*2相動二付、人数相添遣、自身*3又渡海之旨尤候、為後詰天草出候処ニ、其方於手前*4追崩*5、悉切捨之由手柄候、遠路首不及差上候、重*6志岐・天草物主*7共申付次第、彼首共ハ可持上候、猶以及行之儀、涯分*8惜手*9無越度様ニ、小西摂津守可相談候、侮候て卒尓*10之動不可仕候、猶浅野弾正少輔*11・増田右衛門尉*12可申候也、

 

   十一月廿一日*13 (朱印)

 

      加藤主計頭とのへ

 

(四、2757号)
 
(書き下し文)
 
書状御披見を加えられ候、志岐城成敗のため、小西相動くにつき、人数相添え遣わし、自身また渡海の旨もっともに候、しかりて後詰として天草出で候ところに、その方手前において追い崩し、ことごとく切り捨つるの由手柄に候、遠路首差し上ぐるに及ばず候、重ねて志岐・天草物主ども申し付け次第、かの首どもは持ち上ぐべく候、なおもっててだてに及ぶの儀、涯分惜しみて越度なきように、小西摂津守相談ずべく候、あなどり候て卒尓の動き仕るべからず候、なお浅野弾正少輔・増田右衛門尉申すべく候なり、
 
(大意)
 
そなたからの書状を披見した。志岐城を攻略するために行長が行動を起こすのにともない、行長に加勢の軍勢を派遣し、また自ら天草へ渡海したとのこと、誠にもっともなことである。そして敵を背後から攻撃するため天草に出撃したところ、そなたの自前の兵力で敵を蹴散らし、ことごとく切り捨てた由、実にもって手柄である。京都までは遠路であるので、首をこちらに送るには及ばない。志岐や天草の「物主」たちを支配下に置いたそのときに、彼らの首を持参するように。さらに軍事行動に及ぶ場合、精一杯力を振り絞り、出し惜しみして落ち度となるようなことをせぬよう、行長と互いに話し合うこと。相手を侮って軽はずみなことをしでかさないようにせよ。なお浅野長吉・増田長盛が詳細を伝える。
 

Fig. 天草地方周辺図

                      『日本歷史地名大系 熊本県』より作成    

志岐・天草両氏が武力蜂起したことに対して、まず行長が動き、それに清正が援軍を送り、さらに自身が天草へ渡り、自前の兵士のみで相手を制圧したことを手柄であると秀吉が認めた書状である。

 

討ち取った相手の首は完全に制圧するまで届けるには及ばず、また敵をあなどり軽はずみな行動は慎むように命じている。

 

*1:清正

*2:行長

*3:清正

*4:そなたの自前の兵力だけで

*5:敵を追い散らす

*6:今後、そのうち

*7:重立った者

*8:力の及ぶ限り

*9:オシミテ、物惜しみする

*10:ソツジ。軽はずみな、軽率な行動

*11:長吉

*12:長盛

*13:天正17年。グレゴリオ暦1589年12月28日、ユリウス暦同年同月18日

天正17年11月11日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状写

 

小西摂津守*1志岐・天草*2之奴原*3令成敗二付、為加勢差遣佐々平左衛門*4之由尤候、自分*5相越、不残申付両島*6を、首可差上旨被仰出候、人数*7*8候事候者、摂津守申次第、其方も同前可相勤*9候也、

 

      十一月十一日*10 朱印

 

           加藤主計頭殿へ*11

 

(四、2734号)
 
(書き下し文)
 

小西摂津守志岐・天草の奴原成敗せしむるにつき、加勢として佐々平左衛門差し遣さるの由もっともに候、自分相越し、残らず両島を申し付け、首差し上ぐべき旨仰せ出だされ候、人数入り候事にそうらわば、摂津守申し次第、其方も同前相動くべく候なり、

 

 
(大意)
 
小西行長が志岐・天草のやつらを攻めるにあたり、加勢として佐々平左衛門を派遣したとのこと、実にもっともなことである。そなたもそこへ赴き、両島を残るところなく制圧し、首を差し出すようにとの仰せである。軍勢が必要な場合、行長からの申し出があり次第、そなたも同様に軍事行動を起こすように。
 

 

まず充所の「殿へ」について。今日でもとより厚礼なを使い分ける(はずである)。またこのほかにも文字通り「様々」な書き方があり、相手と自分の立場を慮って使い分けていた。漢字の画数が多いほど、あるいはくずし方が少ないほど相手に対する礼は厚くなる。手紙のマナーについて述べた大正期の書にも、目上の人へは行草書を避け楷書で書くようにせよとある。身分制社会の重要な特徴である。

 

図1の丸で囲った文字も「殿」一字なのだが、「殿へ」と書かれているように見えることから、本文書を写した者*12も誤認した可能性が高い。

 

Fig.1 「様」、「殿」のくずし方と厚薄

                            『古事類苑 文学部』より

同様に「左衛門」と「左衛門尉」も間違いやすく、ほとんど合字である。近年機械にくずし字を読ませることがあたりまえになりつつある。いきおい「翻刻さえ完成してしまえば」と思いがちだが、変体仮名や異体字に代表されるように活字化しきれない要素も多い*13。悩ましいところである。

 


Fig.2 「尉」

                       『くずし字用例辞典』より

 

ルイス・フロイス『日本史』によれば種元は行長に対して徹底して不服従の態度をとった*14。またキリシタン領主が国替えされることは、キリシタンの領民にとって「残虐な迫害に匹敵する」*15とも述べていて、この地方の信仰共同体の結束の強さがうかがえる。


Fig.3 肥後国天草郡周辺図

                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

さて天草氏が不服従の態度をとった原因と思われる史料を見ておきたい。

 

 

(関連史料)

 

態と申し遣わし候、本砥の儀、天草殿*16へ代官として預け置くのあいだ、百姓中いずれもその意を得べく候なり

   三月十日*17               行長(花押)

    本砥百姓中

 

(島津亮二『小西行長』14号文書、234頁、八木書店。下線は引用者)
 

 

天草の「本砥百姓中」に宛てて種元を「代官として預け置く」のでその旨了知せよというものである。天草氏は開発領主であり、しかも信仰をともにするという点で百姓らと天草氏の関係は濃密であったろう。ところが行長の官吏としての「代官」*18という位置づけは「伝統」ある開発領主の否定であり、天草氏の身分が不安定であることを予告するものである。受け容れがたい要求である。

 

こうして天草・志岐両氏と行長との間で軍事衝突が起きた。肥後国を「共同統治」している清正にも加勢するよう命じたのが本文書である。

 

周知のように行長もキリシタンであり、洗礼名をアゴスチーニョ(アウグスティヌス)といった。本文書の登場人物をキリシタンか否か、秀吉への臣従度合いで示すと下表のようになる。

 

Table. 天草五人衆、小西行長、加藤清正の位置づけ

 

*1:行長

*2:志岐麟泉と天草種元。両名は天草五人衆でキリシタン。天草氏は開発領主で、志岐氏は鎌倉期にこの地の地頭に任じられ、また島津氏や有馬氏と結んで南蛮貿易を行った。図3参照

*3:ヤツバラ、相手を蔑む表現。あいつら

*4:政元。佐々成政の家臣だったが、成政改易後は肥後の領主となった加藤清正に仕えたらしい。文禄5年5月14日加藤清正条々の充所に「佐々平左衛門尉とのへ」と見える

*5:清正のこと、秀吉ならば「御自分」と表記するだろうし、つづく「相越し」も「相越され」か「御動座なされ」などとなるはずである

*6:志岐・天草両島

*7:軍勢

*8:必要とする

*9:動。「動」はもっぱら軍事行動を指した

*10:天正17年。グレゴリオ暦1589年12月18日、ユリウス暦同年12月8日

*11:清正、敬称「殿へ」については後述

*12:翻刻者ではない、念のため

*13:かつての和文タイプライターも現在のデジタル技術も同様の問題を抱えている

*14:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史5』中公文庫、74頁

*15:同上書、46~47頁

*16:天草種元

*17:天正17年

*18:「代官」とは文字通り「代理で職務を遂行する官職」で他律的である。ちなみに現在の天草地方で「でゃかん」(代官)は「作男」を意味するという。他地方では「下男」の意味で用いられていて、「代官」が主人に従属する者であることをよく示している

天正17年11月6日北郷時久宛豊臣秀吉朱印状写

就唐船*1相着、如目録*2到来、種〻取揃之段、別悦思食候、猶石田木工頭*3可申候也、

 

   十一月六日*4 (朱印影)

 

      本郷一雲軒*5

 

(書き下し文)

 

唐船相着くについて、目録のごとく到来し、種〻取り揃えの段、べっして悦び思し食し候、なお石田木工頭申すべく候也、

 

(大意)

 

唐船が到着し、目録にある貨物が届き、様々な商品を取り揃えているとのこと、秀吉様はことのほかお喜びである*6。なお詳細は石田正澄が口頭で述べる。

 

(四、2731号)

Fig.1 日向国庄内地方周辺図

                   『日本歴史地名大系 鹿児島県』より作成

Fig.2 16世紀、明への倭寇行動地域と行動回数

                      横軸は上から順に後金、明、日本年号  

Fig.3 16世紀後半、明への倭寇行動地域と行動回数

 

 

Fig.4 16世紀の環シナ海世界

                          GoogleMapより作成

 

本文書は秀吉が島津氏の家臣である北郷時久に充てたものである。島津氏の領国内に「唐人」が多数いたことは以前触れた。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

各地の戦国大名は中央政権とは独立して国際貿易を行っており、島津氏もその例に漏れず「南蛮」=東南アジア諸国*7とさかんに交易を行っていた。秀吉はそれを自身の支配下に置こうとしたのである。

 

明人で後期倭寇の首魁でもあった王直*8は平戸や五島列島を本拠に一大海上勢力を築き上げ、鉄砲伝来に果たした役割も大きかった。このように倭寇は「貿易」の下地をつくったのである。図2、3によれば、倭寇は大坂城が落城したあとの元和年間まで続いていたから、秀吉の海賊停止令はそれほどの実効力を持ち得なかったことがうかがえる。

 

まとめると、貿易の利益を独占したい秀吉の思惑と依然として独自性を保つ地域権力たる大名や海上勢力の相剋を本文書に見出すことができるのである。

 

*1:中国風の船=ジャンク船。中国のみならず外国船を指す場合もある。これに対してヨーロッパ式の船は「黒船」と呼ばれる

*2:2732号文書。砂糖、花瓶、香炉、青銅の壺、金箔など

*3:正澄

*4:天正17年カ、グレゴリオ暦1589年12月13日、ユリウス暦1589年同月3日

*5:北郷(ホンゴウ)時久。島津氏の一族で日向国庄内地方の領主、下図1参照

*6:自分自身を「秀吉様」とするのは不自然な気もするが、文書を書いた右筆が自身と秀吉の身分差を意識してそう記したと解しておく

*7:図4参照

*8:?-1559年

天正17年10月14日清水寺成就院宛豊臣秀吉朱印状

 

 

清水寺本堂銭箱*1五ヶ所之事、妻帯之僧共取之、育女子*2、今度被成御改、何被為召上、当寺造営之為、永代被寄附訖、本願*3令執沙汰、修造*4可仕者也、

   天正十七年

    十月十四日*5(朱印)

      清水寺

       成就院*6

 

(四、2729号)
 
(書き下し文)
 
清水寺本堂銭箱五ヶ所のこと、妻帯の僧どもこれを取り、女子を育て候について、このたびお改めなされ、いずれも召し上げさせられ、当寺造営のため、永代寄附せられおわんぬ、本願執り沙汰せしめ、修造仕るべくものなり、
 
(大意)
清水寺本堂の五ヶ所にある銭箱から、妻帯の僧どもがこれを懐に入れ、妻子を養っている子を育ていることについて、このたび秀吉様がお調べになり、いずれも没収し、当寺造営のために永代寄附されました。本願をしっかり勤め、修理・造営の費用にあてるように。

 

 

Fig.1 清水寺周辺図

                   『日本歴史地名大系 京都府』より作成

 

Fig.2 銭箱

                       「人倫訓蒙図彙」より

本文書からわかることは次の諸点である。

 

一つ目は清水寺には妻帯者がいたことである。秀吉はこのこと自体を咎めてはいないようである。

 

二つ目はこの僧侶が清水寺の財産を横領していたことである。秀吉はこれを没収し、成就院の本来の役割である「本願職」に専念することを求めている。

 

三つ目はこの事件を契機にもともと清水寺の財産である「銭箱」の中身を「寄附」したということである。秀吉自身の懐を痛めることなく「寄附」するというのはおかしいが、彼自身はこれを「寄附」と称していた。

*1:銭を入れる箱。頑丈な作りで錠前が施されている。下図2参照。ここでは清水寺ないしは本堂の公的財産の意味

*2:「子女」の書き誤りの可能性もある

*3:寺院、仏塔、仏像などを建てること

*4:建物などを修理、造営すること

*5:グレゴリオ暦1589年11月21日、ユリウス暦同年同月11日

*6:清水寺の組織「三職六坊」のうち「三職」のひとつ