日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年7月6日上杉景勝ほか宛豊臣秀吉朱印状

 

しばらく余計な話題ばかり採り上げてきたが、今回からまた秀吉発給文書に戻る。7月5日小田原北条氏が降伏した翌日*1、忍城に布陣していた上杉景勝、前田利家、岩付城に布陣していた木村常陸介、山崎片家四名宛に下記の書状を送った*2

 

 

 

 

急度被仰遣候、小田原*3事、氏政*4、其外年寄*5四五人可切腹候間、籠城之諸卒*6命之儀、被成御助候様にと種〻相歎候条相免、右之者共切腹被仰付候、則本丸へ此方之人数入置候、然者其表人数*7此方*8へ不入候間、忍*9面へ早〻相越、堤丈夫二可申付候*10、十四五日比*11ニハ岩付*12へ可被成御出候間、忍面堤躰*13可被成御見物候条、普請等無由断、能〻可申付候、猶増田右衛門尉*14可申候也、

 

    七月六日*15 (朱印)

 

        羽柴越後宰相中将とのへ*16

        羽柴越中侍従とのへ*17

        木村常陸介とのへ*18

        山崎志摩守とのへ*19

(四、3297号)

 

(書き下し文)

 

急度仰せ遣わされ候、小田原のこと、氏政をはじめて、そのほか年寄四五人切腹すべく候あいだ、籠城の諸卒命の儀、お助けなされ候ようにと種〻相歎き候条相免し、右の者ども切腹仰せ付けられ候、すなわち本丸へこの方の人数入れ置き候、しからばその表人数この方へ入らざる候あいだ、忍おもてへ早〻相越し、堤丈夫に申し付くべく候、十四五日ころには岩付へ御出でなさるべく候あいだ、忍おもて堤躰御見物なさるべく候条、普請など由断なく、よくよく申し付くべく候、なお増田右衛門尉申すべく候なり、

 

(大意)

 

必ず申し伝える。小田原城は氏政をはじめ、そのほか年寄の四五人に切腹を命じ、籠城していた兵士たちの命はお助けくださいといろいろ懇願してきたので兵たちは助命し、右の重臣たちには切腹を命じた。すぐさま本丸へこちらの軍勢を入れ置き城の請取は済ませた。したがって忍や岩付の軍勢を小田原へ派遣する必要はなく、忍城方面へ早く出陣し、水攻めのための堤を丈夫にするよう命じなさい。十四五日には岩付へ出馬するつもりなので、忍城の堤の様子を見物する予定であるから、普請など油断することなく命じなさい。なお増田長盛が詳しく申す。

 

 

 

 

Fig. 小田原城、忍城、岩付城の位置

 

                  横浜市歴史博物館『秀吉襲来』54頁、1999年より作成

 

秀吉は岩付城を見分してから水攻めの最中である忍城に向かうようだ。特に堤防の造り方に注意するよう命じている。

 

 

ところで多聞院英俊は5月16日の条において小田原攻めの様子を以下のように記している。

 

 

 

一、小太郎*20東国陣ヲ見廻テ帰了、昨夕帰ト云〻、一段*21城堅固、万〻ノ猛勢取巻、城ノ内五里四方ニ人数六万在之申ト、永〻敷見ヘ了ト、人馬多ク死タル、道ノクサキ*22事無限云〻

 

(『多聞院日記 四』236頁)

 

(書き下し文)

 

一、小太郎東国陣を見廻りて帰りおわんぬ、昨夕帰ると云〻、一段城堅固、万〻の猛勢取り巻き、城の内五里四方に人数六万これあると申すと、ながながしく見えおわんぬと、人馬多く死にたる、道の臭きこと限りなしと云〻

 

 

(大意)

 

一、小太郎、関東の戦争を見物に出かけ戻ってきた。昨日の夕方に戻ってきたそうだ。小田原城の守りはひときわ堅固で、無数の豊臣軍が包囲し、小田原城内5里四方に6万の軍勢が長期にわたって陣を構えていたように見えたと申していた。人馬が多く死んでいて、道の臭いことといったら限りがないほどだったとも

 

 

 

小太郎という人物がわざわざ関東まで出かけ小田原攻めの様子を見物してきたらしく「人馬多く死にたる、道の臭きこと限りなしと云〻」と表現するほど死臭に満ちていたらしい。戦場の様子といえば上杉謙信と武田信玄の一騎打ちのような、あるいは今川義元の首取りのような話ばかりが取り沙汰される中、貴重な記述と言える。こうした戦場の跡を洗浄するのはどのような人々だったのか気になるところである。

 

 

 

 

*1:「家忠日記」同日条、ただし「多聞院日記」7月10日条には秀長宛に4日に落城したの朱印状が前日9日夜に届いたと記している

*2:それぞれの城の位置は下図を参照されたい

*3:相模国小田原城

*4:北条氏政

*5:重臣のこと。現在でも相撲の世界では「年寄株」と呼ぶように経験・知識の豊かな人を「年寄」と呼ぶ

*6:下級の兵士

*7:上杉景勝らの軍勢

*8:小田原城

*9:武蔵国埼玉郡忍城

*10:水攻めの最中なので堤を頑丈につくる

*11:「頃」の異体字

*12:同国同郡岩付城

*13:堤の出来具合

*14:長盛

*15:天正18年、グレゴリオ暦1590年8月5日、ユリウス暦同年7月26日

*16:上杉景勝、越後国春日山城主90万石

*17:前田利家

*18:諱は不明、越前国府中城主12万石

*19:片家、従五位下摂津国三田城主2万3000石

*20:未詳

*21:甚だしく、ひときわ

*22:臭き=死臭

天正6年3月秀吉が播磨国の寺社に発給した禁制について

 

 

秀吉軍が破壊の限りを尽くした書写山円教寺周辺に秀吉は禁制を発した。それは以下の各寺社であった。

 

Fig.1 書写山円教寺と禁制発給寺社

                                    『日本歴史地名辞典 兵庫県』より作成

なお『日本歴史地名辞典』の「円教寺」の項に次のように記されている。

 

 

 

 

大永三年(一五二三)山名政豊軍が書写山での浦上軍との戦闘で敗退している(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)。このように諸堂の再建が困難であったうえに、戦闘によって当寺は荒廃・衰退していった。天正六年(一五七八)三月六日、三木城の別所氏討伐のため播磨に侵攻した羽柴秀吉が書写山に布陣、このため衆徒らは方々に逃去り、坊舎・仏閣は開基以来という損壊を被った。このとき秀吉から五〇〇石を寄進されたが、破損修復のためにはあまりにもわずかであったという(「播州書写山円教寺古今略記」円教寺蔵など)。

 

 

 

 

                                          https://serai.jp/hobby/1270717

                                         https://serai.jp/hobby/1270717

「結構な被害」どころでないことは前回明らかにしたとおりで、地名辞典の記述より矮小化されている。

 

それはともかく3月6日に円教寺に「乱入した」ときには男女貴賤を問わず欠落したとある。

 

 

 

去る天正六年戊寅三月六日乱入なり、老若上下方〻に馳せ散り、坊舎仏閣一時に破損す、開基已来六百余年のあいだに及ぶの、かほどの乱謀これなし、住侶陸沈牢籠して、さらに方角を失う

 

 

 

 

「開基以来600有余年ものあいだにこれほどの乱妨狼藉はなかった」と記すくらいの被害だったことは改めて押さえておくべきだろう。

 

 

秀吉はこれ以前禁制を5通しか発してこなかった。しかも禁制は「八月日」のように通常日付は入れない。しかし秀吉がわざわざ日付を書いたことには意味があろう。

 

Table.1 秀吉による天正6年までの禁制発給

 

 

さて本文中に見える「当手軍勢」とは何か。これは「当方の軍勢」の意味で味方の軍勢を指す。戦国期には「敵地」と「味方の地」という区別が存在し、「味方の地」の寺社や郷村は数貫文の制札銭を負担してこのような禁制を下付される。書写山円教寺周辺の寺社に禁制が発せられたのは3月20日から29日で、秀吉軍が同寺に乱入して破壊の限りを尽くした6日から約2週間後のことである。周辺寺社は円教寺での秀吉軍の振る舞いを見て禁制を要求したのだろう。

 

これらの史料も戦時暴力の凄まじさを物語っていると言える。

 

 

天正6年書写山円教寺における豊臣軍の所業

 

 

前回まで秀吉が上月落城後、非戦闘員である子どもを串刺し、女性を磔にして備前、美作、播磨の国境に並べ置いたことを明らかにした。ついでと言ってはなんだが駐留した書写山円教寺で秀吉軍がいかなる振る舞いをしたかを述べておく。これは国際人道法という「あるべき国際秩序」に鑑みたとき、秀吉軍の振る舞いは極めて参考にすべき現代的な問題と考えるからである

 

また中世後期の軍隊が統率のとれない掠奪や強盗をはたらく集団だったこともすでに定説となって久しいが、ここで再確認しておくこともまた意味があるだろう。こちらも戦時暴力という極めて今日的な問題に繋がる。

 

 

1.大坂夏の陣屏風図に見える戦時暴力

 

ここでは「戦時暴力」を戦闘以外に向けられる暴力全体の呼称とする。民間人への攻撃や掠奪、強姦、人身売買目的での強制連行その他を含む。もちろん軍隊内における鉄拳制裁や自決命令、戦場でのトラウマから家族に暴力を振るってしまうケースまでその範囲は幅広い。ここでは有名な、福岡黒田家に伝わる「大坂夏の陣図屏風」から戦時暴力を示す事例をいくつか確認しておきたい。

 

兵士に連行される半裸の女性たち

 

同様に女性を連行する兵士や襲いかかる兵士

 

身ぐるみ剥がれて上半身裸で逃げ惑う女性たち


生け捕った非戦闘員を船で運ぶ者たち。子どもの泣き顔も見える

 

女性を襲う兵士たち

 

追い剥ぎや奴隷狩り

 

レイプしようとする兵と命乞いをする者



左隻全体

                            岡本良一『図説大阪の陣』18~19頁、1978年、創元社


戦国期を描いた日本の映像作品に非戦闘員が戦闘に巻き込まれるシーンはまずない。なかには落ち延びるために女装すると見逃されるというありえない演出も見かけるが、2020年代も半ばを超えた今日さすがに不勉強の誹りを免れまい。沖縄戦を除いて、戦闘に巻き込まれる非戦闘員や民間人の存在をなぜ不可視化するのか、日本の戦後を考える上で興味深い問題だが、ブログ主にその用意も能力もないのでここでは措く。一方独ソ戦などを描いた映画では村人など様々な非戦闘員を主人公としたものも多く極めて対照的である。

 

2.播磨国飾磨郡書写山円教寺旧記に見る秀吉軍の破壊行為

 

円教寺の位置は下図の通りである。

 

                                             GoogleMapより作成

 

さて「播州書写山円教寺古今略記」は草創以来慶長年間にかけての出来事を記録したもので、「とくに天正以後の記述は、筆者の直接見聞きした事実をもとにしており」*1本ブログの目的に最適である。

 

 

 

        一、当寺一乱之事

 

前太閤秀吉公其時者号羽柴筑前守、織田弾正忠信長為西国征伐付勢、秀吉被遣時当国*2御進発なり、徒衆*3千石の兵粮米を献じ、色〻馳走申す故に、強ちに当山破却の御気色*4も雖無之、三木*5別所*6敵対依て、自陣所とし給、全非衆徒の科、仍去天正六年戊寅三月六日*7乱入也、老若上下方〻に馳散、坊舎仏閣一時に破損す、開基已来及六百余年間、加程の乱謀无之、住侶*8陸沈*9牢籠*10、更失方角*11、叡峯*12*13*14顕密聖教*15累年修練の霊験*16の仏像、落地交塊*17、男女往還、魚肉*18満山、末世*19の今と乍云、絶言語次第也、乍去強非武威の御咎*20、高野*21も一度退転*22し、叡山*23も近年再興なり、盛衰従時、存亡不定なる故、当山も時節到来所致也、昔寺領*24雖莫大、纔*25被付五百石、同年八月衆徒還住(以下略)

 

『兵庫県史 史料編 中世4』181~182頁、カタカナはひらがなに改めた

 

 

(書き下し文)

 

        一、当寺一乱之事

 


さきの太閤秀吉公、その時は羽柴筑前守と号し、織田弾正忠信長西国征伐のため勢いを付け、秀吉を遣さるる時当国御進発なり、徒衆千石の兵粮米を献じ、色〻馳走申すゆえに、あながちに当山破却の御気色もこれなしといえども、三木別所敵対に依って、自ずから陣所とし給う、まったく衆徒の科にあらず、よって去る天正六年戊寅三月六日乱入なり、老若上下方〻に馳せ散り、坊舎仏閣一時に破損す、開基已来六百余年のあいだに及ぶの、かほどの乱謀これなし、住侶陸沈牢籠して、さらに方角を失う、叡峯格を模す顕密の聖教、累年修練の霊験の仏像、地に落ち塊に交じる、男女往還、魚肉山に満つ、末世の今と云いながら、言語に絶ゆる次第なり、さりながらあながち武威の御咎めにあらず、高野も一度退転し、叡山も近年再興なり、盛衰時にしたがい、存亡不定なるゆえに、当山も時節到来致すところなり、昔は寺領莫大なりといえども、わずかに五百石を付けらるる、同年八月衆徒還住す(以下略)

 

 

(大意)

  

     一、当寺における戦乱について

 

先の太閤秀吉、当時は羽柴筑前守と名乗っていたときのこと。織田信長の西国征伐の軍勢として秀吉を派遣し、播磨国を出発する際に、門徒が千石の兵粮米を献上し、いろいろ世話を焼いたため、強引に当山を破却するご様子はなかったけれども、三木城の別所氏が敵対したことで、自然と当山を陣所とすることになった。衆徒に非があった訳ではまったくなかったが、去る天正6年つちのえとら年3月6日に乱入してきた。老若、身分の高下にかかわらず方々へ逃げ去り、坊舎や仏閣を一瞬にして破壊してしまった。開基以来600有余年の間、これほどの乱妨狼藉を受けたことはない。住侶は俗人のあいだに潜んだり、困窮したりして為す術もない。叡峯の方法に倣い、顕密の聖教を永年磨き上げた霊験あらたかな仏像も地に落ち、土くれにまみれ、男女が行き来すると惨殺されて遺骸が山をなしている。末世とはいうものの言語に絶するさまである。しかしながらこれは信長様がお咎めになったことが原因ではない。高野山も一度は落ちぶれ、比叡山も近年再興された。盛衰は時によりけりで、存亡は不確かなことゆえ、当山もその時が訪れたのだろう。むかしは莫大な荘園を抱えていたものだが、その後わずかに500石を給わったのみで、同年8月には衆徒が還住した

 

 

 

書写山円教寺と三木城

 

                                             GoogleMapより作成

ここから読み取れるのは次の3点である。

 

1.兵粮米1000石を献上したこと。すなわち兵粮の現地調達が基本だったことである。

 

2.天正6年3月6日に乱入してきた秀吉軍が、開基から600有余年の歴史でも類を見ないほどの破壊と暴力の限りを尽くした点である。

 

3.衆徒が戻るまでのわずか5ヶ月間の出来事だという点である。

 

戦時暴力の凄まじさがうかがえるというものである。

 

 

3.円教寺の柱に刻まれた「羽柴小一良内高井丁助」の歴史的位置

 

ところで話題に上っている円教寺の柱に刻まれた名前は何を示しているのだろうか。

 

 

                              いずれも https://www.steranet.jp/articles/117677 より引用


上述のとおり、秀吉軍による円教寺の破壊行為に鑑みれば、観光地に置かれているようなノートに「自分はここに来たぞ」といった意味で書き込んだ類いのものでないことは明らかである。もっとも蓋然性が高い解釈はこの柱が「自分のトロフィー、すなわち戦利品」であることを示す署名であるとすることだろう。高井丁助の身分的高低は不明なものの、おそらく陪臣以下の雑兵クラスと思われる。少なくとも秀長の直臣ではなかろう。彼はこれを持ち去り、売却することはできなかったが、名もなき雑兵にとって柱を材木として売却することは何にも代えがたい稼ぎだったはずである。

 

2026/07/14 加筆

 

中世後期の文書に「誰々の被官と号し押妨す」という文言がしばしば見える。自分より上位の権力や権威に頼って、その被官であると称して行為を正当化することが常態化していたのだろう。もちろん「その被官」であった保証はない。この柱に刻まれた「羽柴小一良高井丁助」という文言こそ「誰々の被官人と号し押妨」する行為のひとつの現れだったのではなかろうか。

 

 

 

*1:『兵庫県史 史料編 中世4』692

*2:播磨

*3:としゅう。門徒

*4:みけしき。ご様子

*5:美嚢郡、下図参照

*6:長治

*7:ユリウス暦1578年4月12日

*8:じゅうりょ、その寺に住む僧侶

*9:りくちん。俗人の間に紛れること

*10:ろうろう。困窮すること

*11:為す術

*12:比叡山延暦寺

*13:ばくす。真似る

*14:同じようなやり方

*15:顕教と密教

*16:仏・菩薩などの霊妙な験=しるし

*17:土くれ

*18:魚肉のように惨殺される

*19:世界の終末、ハルマゲドン

*20:信長が咎めるところ

*21:紀伊国伊都郡高野山金剛峯寺、真言宗の総本山

*22:衰微すること

*23:比叡山延暦寺

*24:円教寺の荘園

*25:わずか

天正5年12月5日下村玄蕃助宛羽柴秀吉書状の上月城戦況報告について(後)

 

 

(承前)

 

6.文書の解釈

 

ようやく下拵えを済ませて文書の解釈に入る準備ができた。「全体像を理解する」ことを初回に強調したが、ここでは上月城の部分のみ採り挙げ、他の一つ書きについてはその要約のみ示す。それでも全体像を把握しうることは以下述べる過程で明らかになるはずである。ところで『豊臣秀吉文書集八補遺・年未詳』に5888号*1としてやはり12月5日付小川五右衛門尉宛のほぼ同文の文書が掲載されている。大阪城天守閣所蔵文書で、伝存状況が不明なところがありかつ小川五右衛門尉が何者か明らかでない憾みは残るものの、比較しつつ議論を進めていきたい。

 

天正5年、長浜の商人下村玄蕃助は播磨の秀吉のもとへ陣中見舞いの使者を送った。その返礼が本文書である。この時の使者が誰か、冒頭の書き出しにヒントがある。通常手紙の冒頭部には追伸にあたる「猶〻書き」が記されるのがふつうだが、この文書の冒頭部分は書き出しらしい。「猶〻書き」はその名の通り「猶〻/尚〻」ではじまるのでそう呼ぶが、われわれにとって重要な情報が書かれていることがある。その意味では本文以上に注意して読む必要がある。

 

 

7.書き出し

 

 

 

 

遠路為御見舞預御使者、御懇意之至令祝着候、仍今度播州人質已下、但州一国之様子、委曲左京殿へ申入候条、定可為其聞候、*2

 

 

遠路為見舞預示*3候、誠以御懇之至令祝着候、殊更*4紙袋并馬衣*5給候、如承候数寄ニ入たる御音信*6感し入申候、

 

一、此表之儀、度〻村長州*7迄申入候、定可有其聞之候、播州人質事、但馬表之儀、申旧*8候、*9

 

 

(書き下し)

 

 

遠路お見舞として御使者に預り、御懇意の至り祝着せしめ候、よってこのたび播州人質已下、但州一国の様子、委曲左京殿へ申し入れ候条、定めてその聞こえたるべく候、

 

 

 

遠路見舞として預り示し候、誠にもって御懇の至り祝着せしめ候、ことさら紙袋ならびに馬衣給い候、承るごとくに候数寄に入れたる御音信感じ入り申し候、

 

一、この表の儀、たびたび村長州まで申し入れ候、さだめてその聞こえあるべく候、播州人質のこと、但馬表の儀、申し旧し候、

 

 

(大意)

 

はるばる播州までの陣中見舞いとして御使者をお送り下さり、そのご懇意のほど実に嬉しく思います。よってこのたびの播磨の人質以下、但馬一国の様子、詳しくは左京殿に申しておりますのでお聞き及びのことと思います。

 

 

 

はるばる播州までの陣中見舞い、誠に嬉しく思います。とりわけ紙袋と馬衣をお贈り下さり、承っているとおり風流な贈り物に感じ入っております。

 

一、こちらの状況については村井貞勝にたびたび報告しているとおりです。播磨の人質の件および但馬一国の様子はお耳にすでに入っていることでしょうから、改めて申すまでもありません。

 

 

 

後者は前者の書き出し部分が最初の一つ書きに混入しているのであわせて書き出しとした。どちらも「播州の人質」と「但馬一国の様子」と戦況報告であることを明示している。また後者では信長家臣の村井貞勝にたびたび報告しているので、すでにお聞き及びのことだろうとも述べており、本書状に書かれた内容と信長への正式な報告に相違がないことも明らかである。この点は「信長公記」の「但馬・播磨、羽柴に申し付けらるるの事」の記すところと異ならない。

 

dl.ndl.go.jp

 

 

8.一つ書き

 

一つ書きの箇条数は下村玄蕃助宛が8ヶ条、小川五右衛門尉宛が6ヶ条である。以下それぞれの要点を述べる。

 

下村宛

 

①但馬を平定し手隙となったので11月27日に美作の境目に兵を動かした。すると播磨佐用郡内に敵城が3つあり、そのうちの福原城から兵が出たので竹中重治・小寺孝高を派兵し一戦に及び、頸を多数討ちとった。

 

②福原城へ1里ほど先の上月城を28日に包囲したところ、敵を背後から取り囲むために秀吉が陣取った上之山へ宇喜多直家が押し寄せたので、城の手当てをした上で合戦に及び備前国境まで3里ほどのところまで追撃し、頸数619、そのほか多数の雑兵を切り捨てた。

 

③後述する。

 

④最前の合戦と上月城攻めで討ち果たした頸は塚を二つつくらせて埋めた。

 

⑤当郡の別所中務と申す者の城は、降伏を申し出てきたので人質3人をとり、城は来年2月まで預け置くこととした。

 

⑥美作の新免宗実が人質を連れて城から出て来たので、そのまま居住させ秀吉側の味方とした。

 

⑦上月城は備前・播磨の国境にある重要な拠点なので、山中幸盛を入れ、「足弱」(女性子ども老人)は三木城に避難させた。

 

⑧以上のようにこちらは手隙になったので5日に播州龍野迄まで進軍した。そのうち近江に帰陣するだろうからその際にお話ししようと思う。詳しくは御使者に申し伝えた。

 

小川宛

 

①(先述の通り)

 

②但馬を平定し手隙となったので11月27日に美作の境目に兵を動かした。すると播磨佐用郡内に敵城が3つあり、そのうちの福原城から兵が出たので竹中重治・小寺孝高を派兵し一戦に及び、頸を多数討ちとった。

 

③福原城へ1里ほど先の上月城を28日に包囲したところ、敵を背後から取り囲むために秀吉が陣取った上之山へ宇喜多直家が押し寄せたので、城の手当てをした上で合戦に及び備前国境まで3里ほどのところまで追撃し、頸数619、そのほか多数の雑兵を切り捨てた。

 

④後述する。

 

⑤最前の合戦と上月城攻めで討ち果たした頸は塚を二つつくらせて埋め、このあたりは平定した。そして播磨に討って出たことをいずれお目にかかったときにお話申し上げます

 

このたびそなたは僧形で「御領中」*10に遣わされたこと、実に素晴らしいアイディアです。いずれお目にかかった際は積もる話をしましょう

 

 

多少の相違はあるもののおおむね2通とも戦況報告であることは間違いない。下村宛の③、小川宛の④のみ「後世の誇張」であるとか「捏造」であるとする理由は特に見当たらない。戦況報告のごく一部に過ぎないのだ。したがってこの事件を疑う理由はない。

 

「全体像を見る」とはこうしたことである。そこだけ採り上げてあれこれ議論しても不毛なだけである。

 

 

9.子どもは串刺し、女は磔

 

さていよいよ注目の的である一つ書きを検討していく。2通とも文言にそれほどの相違は見られないため、下村玄蕃助宛のみを採り上げる。

 

 

 

一、合戦場より引返し、七条城*11弥取詰*12水之手取候付、色〻侘言候へ共不能承引、かへりしゝかき*13三重ゆいまわし、諸口よりしより*14申付、去三日*15乗入、悉刎首、其上已来敵方ミこり*16と存知*17、女子共二百余人、備作播州三ヶ国之堺目ニ、子ともをハくしニさし*18、女をハはた物*19にかけならへ置候事、

 

 

(書き下し文)

 

 

一、合戦場より引き返し、七条城いよいよ取り詰め、水の手取り候につき、いろいろ侘言そうらえども承引あたわず、返り鹿垣三重結い回し、諸口より仕寄申し付け、去る三日乗り入れ、ことごとく首を刎ね、その上已来敵方見懲りと存じ知らせ、女子ども二百余人、備作播州三ヶ国の堺目に、子どもをば串に刺し、女をばはた物に懸け並べ置き候こと、

 

(大意)

 

 

一、合戦場より引き返し上月城を包囲し、水の手を切ったので、降伏の申し出をたびたびしてきたが認めなかった。そして返り鹿垣で三重に城を包囲し、城の各入口に仕寄を命じ、三日に城に攻め込み、ことごとく首を刎ねた。また今後の見せしめとして思い知らせるため、城中に残る女子ども二百余人を、備前・美作・播磨の三ヶ国国境で子どもは串刺しに、女は磔刑に処し、並べ置いた。

 

 

 

 

上月城の位置は下図の通りである。

               『兵庫県史 第3巻』 附図7「室町・戦国期の主要城郭の分布」より作成



もはや多言を要すまい。秀吉は上月城が降伏を申し出ているのにそれを認めず、皆殺しにし、敵方に「思い知らせるための見せしめ」として非戦闘員である子どもを串刺し、女性を磔刑に処し、それを三ヶ国の国境沿いに並べたのだ。

 

 

*1:7~8頁

*2:152号

*3:報告を受けること

*4:とりわけの意

*5:うまぎぬ、馬の胴から腹を覆う布帛

*6:ごいんしん、便りまたは贈り物

*7:村井貞勝

*8:もうしふるす、聞き飽きた

*9:5888号

*10:信長の支配下にある地。ここでは秀吉の陣中

*11:上月城

*12:追い詰める

*13:返しのついた鹿垣

*14:仕寄。竹を束ねてつくった盾

*15:12月3日

*16:見懲り。見せしめ

*17:存じ知らせる。思い知らせる

*18:串に刺し

*19:

天正5年12月5日下村玄蕃助宛羽柴秀吉書状の上月城戦況報告について(中)

 

 

(承前)

 

 

4.問いの立て方、議論の進め方

 

日本語圏では「なぜ~は素晴らしいのか」という問いを立てることがよく行われるが、この言明は二つの問題を孕んでいる。ひとつは「なぜか」という問いは因果関係を明らかにすることを暗黙の裡に想定しており、相関関係などを持ち出して「事足れり」とするわけにはいかないからである。時間的な前後関係だけで因果関係にあると判断するのは論外だが、社会現象の因果関係を誰の目にも明らかにすることは至難の業である。そうした弱点を念頭に置きつつ微に入り細を穿って漸進的に何かを掘り当てる、そうした作業の積み重ねの上に歴史学は成り立っている、それを忘れてはならない。

 

最近では相関関係にないことすらあたかもそういった関係にあると錯覚させる(錯覚している?)悪質な事例も見かける。いかにも近しい関係にあるかのように装うそれは相姦関係とでも呼ぶに相応しい。

 

二つ目は「素晴らしい」というのは価値判断であって、ひとそれぞれ判断基準が異なるので説得力に欠ける点である。「なぜイギリス料理は不味いのか」という問いは愚問中の愚問で「旨い/不味い」など文字通り「好み/嗜好」の問題に過ぎず、それに対する説得力のある答は見つかるまい。またきわめて失礼でそういったネタは「ポーランドボール」の範囲内に留めたい。

 

 

また議論において規範的な「~すべし」といった結論に辿り着くこともできない。事実命題(sein)から規範命題(sollen)を導き出せないからである。そこから教訓を得ようとすること自体を否定しないが、歴史学の守備範囲を大きく超える話で、市民一人ひとりが向き合うべき問題である。

 

行論中後世の語彙をあてて説明することも非歴史的である。たとえば「インセンティヴ」とやらを唐突に持ち出しても、それらを意味する概念が当時存在したのか否かを明らかにしなければならず、それらを示す言葉や行動原理などを示す同時代史料を引用する必要もある。さらにその「インセンティヴ」がいかなる過程でいかなる結果をもたらしたのかを説得力あるかたちで説明せねばならない。マックス・ウェーバーは『プロテスタントティズムの倫理と資本主義の精神』においていみじくも述べている。

 

 

 

報酬の多いことよりも、労働の少ないことの方が*1を動かす刺激だった(中略)まさしくこれは「伝統主義」と呼ばれるべき生活態度の一例だ。人は「生まれながらに」できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなくて、むしろ簡素に生活する、つまり、習慣としてきた生活を続け、それに必要なものを手に入れることだけを願うにすぎない。近代資本主義が、人間労働の集約度を高めることによってその「生産性」を引き上げるという仕事を始めたとき、至る所でこのうえもなく頑強に妨害しつづけたのは、資本主義以前の経済労働のこうした基調(ライトモチーフ)だった

 

岩波文庫版64~65頁、下線・強調などは引用者

 

 

 

この「彼を動かす刺激」が今日の「インセンティヴ」であることは明白だが、意味するところは180度異なる。近現代的な概念を安易に歴史に持ち込むと足をすくわれる結果となる。意味不明なカタカナ語を魔法の杖のごとく振り回すことは厳に慎みたい。

 

「インセンティヴ」の歴史と性格
マイケル・サンデルは『それをお金で買いますか』(ハヤカワ文庫、126~130頁。2014年)においてアダム・スミスらの古典経済学に「インセンティヴ」が登場しないこと、また経済学用語としても1980~90年代は目立つこともなかったを指摘する。OEDでも経済学の文脈で使用されたのが1943年を初出としていると。すなわち経済学者がビッグブラザーのような支配者として人民を導く「強制力」であり、内面化させた権力そのものにほかならない。アダム・スミスのいう「見えざる手」とはその性格を大きく異にすると指摘しているおり、ブログ主も大いに共感する。

 

 

5.前回の補足

 

下村文書には件の文書のほかに興味深いものが残されている。そのうちのひとつを引用する。

 

 

 

兵粮米二百石、うち百四十石長浜町中、六十石は八幡庄内中より関ヶ原*2まで相届く*3べく候、一石について駄賃として四升五合ずつ遣わすものなり、

 

  五月十五日*4  秀吉(朱印)

 

   長浜町中

   八幡庄中

 

『大日本史料』11編7巻308頁、書き下し文・下線は引用者

 

 

 

長浜町や八幡庄宛に兵粮米を輸送せよとの文書が発せられており、それが「下村文書」として伝わっていたことは前回述べた下村玄蕃助が兵粮米の調達に関わっていた武器商人、死の商人だったことを明確に示している。

 

以下は「秀吉 長浜町」を「大日本史料総合セータベース」で検索した結果である。下村文書と下郷共済会文書が混在しているが、前者が後者の文書群として吸収される前の姿を留めていたのだろう。

wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp

 

 



(次回へ続く)

*1:農業労働者、引用者注

*2:美濃

*3:届ける

*4:天正12年、1584