日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年5月15日生駒親正・一正宛豊臣秀吉朱印状(2/止)

 

 

、如此被仰付上者*1、頓可被納御馬候、雖然其城用心等之儀、猶以入念堅可申付候、在所百姓以下ニ至るまて城内へ出入一切無用候、其地ニ被残置、在番*2被仰付儀者、為御用心、旁以無由断、諸事気遣専一候事、

 

、其近辺法度儀、堅可申付候、自然猥儀*3於有之者、可為曲事事、

 

一、最前被仰出候道・橋之儀*4、弥入念可申付候也、

 

    五月十五日*5(朱印)

        生駒雅楽頭とのへ*6

        生駒三吉とのへ*7

 

 

(三、2189号)
 (書き下し文)
 

、かくのごとく仰せ付けらるる上は、やがて御馬納めらるべく候、しかりといえどもその城用心などの儀、なおもって入念堅く申し付くべく候、在所百姓以下にいたるまで城内へ出入り一切無用に候、その地に残し置かれ、在番仰せ付けらるる儀は、御用心のため、かたがたもって由断なく、諸事気遣い専一に候こと、

 

、その近辺法度の儀、堅く申し付くべく候、自然猥りの儀これあるにおいては、曲事たるべきこと、

 

一、最前仰せ出だされ候道・橋の儀、いよいよ入念申し付くべく候なり、

 
(大意)
 
 一、以上のように命じた上でいずれ軍勢を引き上げるつもりである。しかし、そなたに預けた城の警固は入念に行うよう家臣に命じなさい。村々の百姓以下にいたるまで城内に出入りすることは禁止する。その地に残し番を命じたのは用心のためである。決して油断することなく万事専念すること。
 
一、城周辺の地域の法度を必ず触れ出しなさい。万一治安の維持ができないときは曲事である。
 
一、先日命じた道や橋の普請に駆り出す陣夫役、必ず命じなさい。 
 

 

ほぼ同文の文書が加須屋真雄*8、遠藤胤基・慶隆宛*9にも出されている。胤基・慶隆宛には在番や法度について述べた二ヶ条①・②が省略されていることから、現地での在番はなかったようだ。一方、加須屋真雄・片桐且元宛6月2日朱印状写に熊本から博多へ向かう道中での渡河について以下のように述べている。

 

 

筑後川のこと、水深くそうらわんと思し召さるる*10ことに候、なんとなるとも御船橋*11を相懸くるべく候、さ候と舟橋懸け候事ならず候あいだ、川の瀬を踏ませ*12人夫・子ともすなわち*13引き渡し*14候よう、分別仕り置くべく候、

 

(大意)

 

筑後川はさぞや深いことだろうから、なんとしても舟橋を架けるようにしなさい。そうであるから、人夫や子たちにも早速架橋させるなど工夫しておきなさい。

(2225号)

 

 

どの城かはわからないが、真雄・且元両名は筑後川周辺の城の在番を務めていたものと考えられる。下線部にあるように成人男性のみならず子どもたちまで徴発しようというのは珍しい。陣夫役の徴発を具体的・合理的かつ大規模に行ったのは文禄5年3月1日の石田三成である*15が「用に立たず」として「後家」、「やもめ」*16、「寺庵」などを賦課対象から控除しているのとは対照的である。庄屋が免除されているのは「庄屋給」として相殺したのだろう。対外戦争中という特殊な状況であるが参考として掲げておいた。伊香郡2ヶ村は2/3から3/4が「用に立たず」というなんとも殺伐とした状況で、対外戦争による疲弊がうかがえる。

 

Table. 文禄5年3月1日近江郷村宛石田三成掟書「詰め夫」負担状況一覧 

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Fig. 筑後川河口周辺図 

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

 親正・一正父子がどの城の在番を任されたかわからないが、城と「その近辺」=割当地域の治安維持を命じられたことは確かである。秀吉は城を軍事施設兼行政官庁へ衣替えしようとしていたとも思われる。

 

また百姓などの出入りを禁じているのはこれまで自由に立ち入っていたことを物語っており、戦時にシェルターとして機能していたことを示している。出入りを禁ずることで武力蜂起の芽を摘む意図があったことはもちろんだが、軍事施設でありかつ行政官庁でもある城への百姓たちの立ち入りを禁じたのは、職能的=身分的分離を明確にしたのであろう。天正19年、奉公人が新儀に百姓・町人になることを禁じているが、そのプロトタイプと見られる。

  

*1:九州仕置について述べてきた箇条

*2:明き城の警備に当たること

*3:秩序が乱れること

*4:「先日触のあった」がどの文書を指すかは未詳。道や橋など交通路の整備する普請のこと。すなわち陣夫役を徴発すること

*5:天正15年

*6:親正。当初信長に、のち秀吉に仕える。讃岐の国主

*7:一正、親正の息。讃岐高松城主

*8:2191号

*9:2190号。胤基は美濃木越城主、慶隆は美濃郡上八幡城主

*10:「二重敬語」の指摘あり

*11:船をならべて架橋すること、またはその橋。浮桟橋も舟橋

*12:瀬踏み、渡る前に川の深さを測ること

*13:早速に

*14:架橋すること

*15:『新修彦根市史 第五巻』「中世二・石田三成関係史料」41~49号、806~812頁

*16:漢字では「寡」、「寡婦」、「孀」、「鰥」、「鰥夫」と書き、男女を問わない。この世に寄る辺ないものを「鰥寡孤独」という

天正15年5月15日生駒親正・一正宛豊臣秀吉朱印状(1)

 

 

急度染筆候、

 

一、九州平均ニ被仰付、薩摩内島津居城五里六里*1之間ニ被立御馬、島津可被刎首処、剃頭、捨一命走入候之間、不被及是非被成御免、去八日被召出候事、

 

一、島津一類被召連、可被成御上洛候、其上義久同家老共人質不残致進上候事、

 

一、然上爰許被成御逗留*2、国〻置目等被仰付、御隙明次第、筑前国至博多被移御座、彼地自大唐・南蛮国之船着候間、丈夫ニ城*3普請可被仰付候、然者高麗国へ被差遣人数*4、可被成御成敗*5事、

 

一、壱岐・対馬両国者共悉令出仕事、

 

(以下次回、三、2189号)
 
(書き下し文)
 

きっと染筆候、

 

一、九州平均に仰せ付けられ、薩摩のうち島津居城五里六里のあいだに御馬立てられ、島津首を刎ねらるべきところ、頭を剃り、一命を捨て走り入り候のあいだ、是非に及ばれず御免なされ、去る八日召し出だされ候こと、

 

一、島津一類召し連れられ、御上洛なさるべく候、そのうえ義久・同家老とも人質残らず進上致し候こと、

 

一、しかるうえここもと御逗留なされ、国〻置目など仰せ付けられ、御隙明け次第、筑前国博多に至り御座移られ、かの地大唐・南蛮国よりの船着き候あいだ、丈夫に城普請仰せ付けらるべ候、しからば高麗国へ差し遣かわさる人数御成敗なさるべきこと、

 

一、壱岐・対馬両国の者ども、ことごとく出仕せしむること、

 

 
(大意)
 
手紙にて申し入れます。
 
一、九州一円を平定し、薩摩の島津居城の鹿児島まで5~6里のところに本陣を置き、島津の首を刎ねるべきところ、剃髪し、一命を捨て降伏してきたので一も二もなく赦免しました。去る八日にこちらへ連行しました。
 
一、島津一族を引き連れ上洛するつもりです。義久やその家臣全員から人質を取ります。
 
一、そのうえでこちらは九州にとどまり、国々の置目などを申し渡します。手隙次第筑前博多に向かいます。博多は大唐や南蛮諸国からの船が着く場所ですので、街づくりをしっかり行うつもりです。高麗への軍勢を準備するつもりです。
 
一、壱岐と対馬の者たちを全員出頭させるつもりです。
 

 

毎回のことだが、本文中の敬意表現はすべて秀吉に対するもので、書き下すとATOKがしばしば「二重敬語です」と指摘してくるくらい尊大な文章である。

 

Fig. 九州と壱岐・対馬

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Table. 九州と壱岐・対馬

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                        『国史大辞典』より作成

上表に掲げたように、太宰府管内の西海道は九州と壱岐・対馬の計11ヶ国からなる。「九州」には「中国全土」、「日本全土」の意味もあり、かならずしも西海道を指すとは限らない。

 

上掲史料では「九州」はすでに秀吉に属しているが、壱岐や対馬の者たちはこれから出仕させるつもりであるとあり、秀吉がいうところの「九州」に壱岐・対馬は含まれていない。ただ、「九州」=西海道の意味としても用いるようである。「イングランド」に由来する「イギリス(英吉利)」*6を、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」の意味で用いる本邦において違和感はないだろう*7

 

ちなみに南海電鉄は南海道を走っており文字通り「南海」電鉄だが、西鉄は西海道を走っているものの「西海」鉄道ではなく「西日本鉄道」の略称であるので注意を要する。

 

 さて秀吉は博多は中国や南蛮諸国からの船が寄港するので、しっかりとした街づくりをするつもりであると述べている。6月19日のいわゆるバテレン追放令においても「自今以後仏法の妨げをなさざる輩は、商人のことは申すに及ばず、いずれにてもキリシタン国より往還苦しからず*8貿易に携わる者はもちろん、そうでないものでも仏道の妨げにならなければ来日することは自由であると述べており、貿易はもちろん博多の国際色を払拭するようなことはなかった。

 

また朝鮮への軍勢派遣の準備に着手するとも述べている。6月15日宗義智・義調宛判物*9によれば、派兵しようとしたところ義調があれこれいって先延ばしにしており、朝鮮国王が「日域*10にいたり」参洛すれば赦免するがそうでなければただちに渡海すると秀吉に叱責されている。したがって朝鮮派兵はこの時点ですでに決定事項だったようである。

 

 おまけ

1984年のソビエト連邦製作のドラマ「未来からの来訪者」第4話で

  London is a capital of Great Britain.

とヒロインが完璧な英語を披露するシーンがある(7分37秒あたり)。ロシア語と日本語の字幕があるが、英語を話すシーンでは英語のみである。エンドロールにも日本語字幕があるのがまたうれしい。

www.youtube.com

スコットランドのエディンバラ、ウェールズのカーディフ、イングランドのロンドンとグレートブリテン島には首都が3つあり*11、ロンドンはグレートブリテン=連合王国の首都でもあることから「a capital」と言ってるのだろう。その点でも意味深なセリフである。ワールドカップでは4ヶ国に分かれて予選に臨むので、イギリスから複数国参加できる。ヒロインアリーサ・セレズニョヴァはロシア語以外に8言語を話すが、日本語も含まれている。

*1:1里=4㎞だとすれば伊集院付近

*2:秀吉が逗留すること。「御」は秀吉自身への敬意表現

*3:城には「みやこ」や「まち」などの意味があるので、ここでは街と解釈した。c.f.「都城」(「みやこのじょう」ではなく「トジョウ」のこと)

*4:軍勢

*5:「御成敗式目」の注釈書「式目抄」には「善事をば【成】し、悪事をば【敗】るを成敗と云うなり、ただし成と敗は二つにしてひとつなり、善を成せば自ずから悪は敗るるなり、悪を敗れば自ずから善は成るなり」とあり、どちらかを行えば自動的に他方も達成されるのが「成敗」であるとする。政務を行うことや処置すること、計画することを意味するが、次第に処刑する意味に限定されていく。「仕置」も同様に「統治する」意味から「罰すること」に狭まる点で共通している

*6:ほかに「アングロ人の住む地」を意味する「アンゲリア」などがある。また17世紀初頭の徳川将軍家宛ジェームズ1世書翰では自身を日本語で「大ブリタンヤ国の王ゼメー帝王」(グレート・ブリテン国王ジェームズ帝王)と称している。『大日本史料』12-11、457頁。ブリテンは漢字で「不列顛」、古代ローマの呼称ブリタニアは「貌利太尼亜」などと書くが、幕末の外交文書では同じ文書中で「英吉利」も併用されている。井伊家文書中のイギリス全権公使オールコックの幕府宛書翰写にも「貌利太尼亜」とある。さらに、1894年締結の日英通商条約では「大不列顛愛蘭聯合王国兼印度国皇帝」と、1905年の「風俗画報」でも日英同盟「Anglo-Japanese Alliance」を論ずる際にも「大不列顛国」としている。なお1920年代までアイルランド全島が連合王国に属していたので「大不列顛・愛蘭連合王国」=「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」となり、現在の「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」よりNorthern(北・北部)がない分綴りは短い。「印度国」はイギリス領インド帝国で、パキスタンやバングラデッシュ、ビルマ(ミャンマー)などを含むかなり広い範囲を指す。「犬神家の一族」は犬神佐清と青沼静馬がビルマ戦線で出会ったところから物語が始まる

*7:ブリテンはフランス語では「ブルターニュ」といい「ブルトン人が住む地」の意。「グレートブリテン」は「グレートブリテン島」の意味で実質的にアイルランドを除いた三ヶ国。国の2レターコードはGBが用いられる一方連合王国のUKも使われる。イギリスドメインのURLはUK。イギリスポンドはGBP=£、EU加盟時代の自動車ナンバーの国表記も「GB」

*8:2244号

*9:2238号

*10:日が照らすところ、太陽が昇るところ、日本

*11:北アイルランドはベルファスト、アイルランドはダブリン

天正15年5月13日豊臣秀長宛豊臣秀吉朱印状写(6/止)

 

一、豊前国ノ儀、是モ不入城者ワリ、豊前ト豊後之間城一ツ、馬カタケ*1ト右境目城ト遠候ハヽ、其間ニ城一ツ、豊後之内ニ可置城、馬ヵ嶽・小倉*2四モ五モ可置候間、引足ニ*3右ノ普請アルヘク候、国之者ニモ忠不忠ヲ相糺、知行可遣候間、其分心得、諸事無油断申付、細〻少之儀モ、以一書御本陣ヘ、毎日成トモ思案不及事於有之者、可申上候、依其御返事覚悟*4可然事、

 

一、今度高城*5之儀者*6、御意*7ヲ不請儀、分別違ニ候得トモ、免候儀其方タメニハ外聞可為迷惑*8候間、其方諸事ニ存出シ*9可然候、高城之様成義ニ御意ヲ不請候ハヽ、重而者成敗可申付候、得其意尤候事、

 

一、右之条〻、猶両人*10可申也、

 

   天正十五年

     五月*11三日 朱印

         羽柴中納言殿*12

(三、2185号)
 
(書き下し文)
 

一、豊前国の儀、これも入らざる城は割り、豊前と豊後のあいだに城一つ、馬ヶ岳と右境目城と遠くそうらわば、そのあいだに城一つ、豊後のうちに置くべき城、馬ヶ岳・小倉に四つも五つも置くべく候あいだ、引足に右の普請あるべく候、国の者にも忠・不忠を相糺し、知行遣すべく候あいだ、その分心得、諸事油断なく申し付け、こまごま少しの儀も、一書をもって御本陣ヘ、毎日なるとも思案に及ばざることこれあるにおいては、申し上ぐべく候、その御返事により覚悟然るべきこと、

 

一、今度高城の儀は、御意を請けざる儀、分別違いにそうらえども、免し候儀そのほうためには外聞迷惑たるべく候あいだ、そのほう諸事に存じ出し然るべく候、高城のようなる儀に御意を請けずそうらわば、かさねては成敗申し付くべく候、その意を得もっともに候こと、

 

 一、右の条々、なお両人申すべきなり、

 

(大意)
 
一、豊前国についても不要な城は破却し、豊前と豊後のあいだにひとつだけ城を置きなさい。馬ヶ岳城と両国国境が遠すぎるなら豊後にひとつ、小倉・馬ヶ岳間に四つも五つも置くことにするので、撤退時に普請を行わせなさい。国人たちのなかにも忠誠を誓う者もいればそうでない者もいるでしょうから、精査して知行地を与えなさい。その点よく心得、油断なくしなさい。どのような些細なことでも文書でこちらへ、毎日であっても解決できないことはこちらへ報告しなさい。その返事で決めるように。
 
一、今回の高城の件のようにこちらの判断を仰がないことは思い違いも甚だしいが、許すことにしたのは外聞に響くだろうから、その点よく心得るように。今度、高城のようにこちらの判断を待たずに独断専行したら、成敗するので念頭に置くようにしなさい。
 
一、右の条々については詳しくは使者両名が申します。
 

Fig.1 馬ヶ岳城と豊前・豊後 

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①では「国之者」つまり国人や国衆と呼ばれる在地有力者には、豊臣政権にしたがう者もいれば、そうでない者もいるという秀吉の現状認識が示されている。秀吉はこうした中世的秩序を一掃するのではなく、現状を追認しつつ漸進的な路線を採用した。一掃するということは武力鎮圧をも辞さずということであり、九州平均が長期化するおそれもある。九州において秀吉は老若男女を問わず血祭りにあげてきたとみずから語っており、ドラスティックな路線を採用すれば秀吉側の損害も甚だしかったはずである。それはとりもなおさず百姓の逃散や田畠の荒廃を招き、政権を根底から揺るがすことになる。実際豊前中津の黒田孝高に対する宇都宮鎮房の蜂起や肥後の佐々成政に対する国人一揆など豊臣政権への反発が武力衝突に発展している。「惣無事」とは「叡慮」(天皇の意思)の名の下に行われるあくまで豊臣政権にとっての「平和」=「安定」に過ぎず、その実態は「平和」の強制であり、「Pax Romana」*13、「Pax Britannica」、「Pax Americana」となんら変わるところはない。

 

②は、日向高城の秀長の陣に伊集院忠棟が駆け込んできたので、島津義久・義弘両名の助命を秀吉に進言したことが彼の逆鱗に触れたことを示している。「分別違い」=心得違いの越権行為とも断じており、次回は成敗するとも述べている。「九州御動座記」5月3日条を見てみよう。

 

 

一、薩摩太平寺まで、同国高城(薩摩。日向の高城ではない。図2、3参照)より壱里、舟入

ただしここより嶋津居住鹿児嶋までは相十里あまりたる、すでにこれに御座よせらるべく候ところに、日向中納言殿へ嶋津降参の御言として、家老伊集院右衛門大夫走り入るについて、中納言殿より嶌津命のお望みについて、鹿児嶋への御動座止められ候、

 

(「大日本史料総合データベース」稿本より)

 

秀長が秀吉に島津氏の助命を「望んだ」とはあるものの「分別違い」と思われるような言動をしたとは記されていないので、何があったのかわからない。ただ、島津氏の処遇について秀吉と秀長のあいだに路線の対立があったとはいえそうである。

 

その点を踏まえて①を読むと、どんなに些細なことでも文書をもって照会せよとあり、秀長に豊前・豊後・日向三ヶ国の仕置を任せたものの、全幅の信頼を置いていたとは言えそうにない。「信用できない」ということではなく「力量不足」という意味であろうが。

 

Fig.2 日向国高城

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                   『日本歴史地名大系 宮崎県』より作成

Fig.3 薩摩国高城

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                   『日本歴史地名大系 鹿児島県』より作成

 

*1:馬岳城、豊前国仲津郡

*2:豊前国企救郡

*3:撤退時に

*4:悟りを開くこと

*5:日向国諸県郡。秀長が本陣を置いていた。薩摩川内の近くにも「高城」があるので要注意。下図2、3参照

*6:「九州御動座記」5月3日条に伊集院忠棟が秀長の陣に駆け込んできたので、島津氏の助命を秀長が秀吉に申し出たとある

*7:秀吉の意思

*8:困る

*9:配慮する

*10:使者2名。通常は具体的な人名が入る

*11:十脱

*12:豊臣秀長。繰り返しになるが「羽柴」は名字、「豊臣」は氏。秀吉は「平氏」(自称)→「藤原氏」(近衛前久の猶子となる)→「豊臣氏」と「氏」が変わったのであり、「羽柴秀吉」でありかつ同時に「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)であることは矛盾しない

*13:同時代のローマ人は頽廃的な文脈で用いることもあったらしい

天正15年5月13日豊臣秀長宛豊臣秀吉朱印状写(5)

 

 

、豊後国者、大友左兵衛*1ニ一職ニ出候間、置目等左兵衛為ニ可然様ニイタシ候テ可出事

 

、肥後・筑後・筑前三箇国者城ヲ拵、物主*2ソレヽヽ被仰付被入置、博多之近所ニ御座所*3可被仰付候条、其方*4者備前少将*5・宮部中務法印*6・蜂須賀阿波守*7・尾藤甚右衛門*8・黒田勘解由*9、右之者トモトシテ、日向・大隅・豊後城普請可申付候、并不入城者ワラセ可然事、

 

(書き下し文)

 

、豊後国は、大友左兵衛に一職に出だし候あいだ、置目など左兵衛ために然るべきように致し候て出すべきこと

 

、肥後・筑後・筑前三ヶ国は城を拵え、物主それぞれ仰せ付けられ入れ置かれ、博多の近所に御座所仰せ付けらるべく候条、そのほうは備前少将・宮部中務法印・蜂須賀阿波守・尾藤甚右衛門・黒田勘解由、右の者供として、日向・大隅・豊後城普請申し付くべく候、ならびに入らざる城は割らせ然るべきこと、

 

(大意)

 

、豊後は大友義統に一円与えるので、掟など義統のためになるように定めなさい

 

、肥後・筑後・筑前の三ヶ国は城を建て、城主を定め配置し、博多付近に御座所を設けるようにしたので、そなたは宇喜多秀家・宮部継潤・蜂須賀家政・尾藤知宣・黒田孝高を従者として、日向・大隅・豊後の城普請を命じるようにしなさい。また不要な城は破却するように

 

 Fig. 九州九ヶ国および対馬・壱岐

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①では豊後一円を大友義統に与え、そのための「置目」は秀長が定めるよう命じている。国は一円的に与えるが法令は豊臣政権が定めるという意味である。すなわち大名の土地に関する権利は無制限ではなく、大名は国を預かるに過ぎない存在ということである。秀吉はこれまでに家臣に土地を充てがう際に「年貢率は6割で」と記していたが、年貢率や法令を定めるのは本来与えられた家臣の権限である。豊臣政権はこれに介入しており、その集権的=パターナリスティック的構造を象徴している。これは分国法の否定をも意味し、法体系における「惣無事」政策といえる。

 

また通常「一職」とは様々に分化した権限を集中=一元化するという意味で使われることが多い*10。しかしここでは「置目」の制定権は剥奪されているので、空間的にまとまった=「一円的な」という意味に解した。

 

②では秀吉が筑前・筑後・肥後の仕置をするために博多の近くに宿所を建てたので、秀長は重立った者を連れて豊後・日向・大隅の仕置を行うようにと命じている。さらに不要な城は破却するように命じている。この城割は徳川政権において一層徹底される。

 

*1:義統

*2:部隊の長、ここでは城主

*3:秀吉の宿所

*4:豊臣秀長

*5:宇喜多秀家

*6:継潤

*7:家政

*8:知宣

*9:孝高

*10:e.g.一職支配

天正15年5月13日豊臣秀長宛豊臣秀吉朱印状写(4)

 

一、大友休庵*1召寄、右之国*2之儀可申渡候、休庵被居候城ハ、休庵次第可然候事、

 

一、於豊後国、大友左兵衛督*3去年越度トラレ候刻*4国之者*5覚悟ヲ替*6候処、志賀右衛門*7・佐伯*8両人無比類致働、大友家へ非義*9ヲ不働者ニテ為褒美城一宛トラセ、其際*10ニテ知行ヲ出候義、休庵ト可致談合候、知行大小も可有之歟、ソレハ休庵次第能之様、可然候事、

 

(書き下し文)

 

一、大友休庵召し寄せ、右の国の儀申し渡すべく候、休庵居られ候城は、休庵次第然るべく候こと、

 

一、豊後国において、大友左兵衛督去年越度取られ候きざみ、国の者覚悟を替え候ところ、志賀右衛門・佐伯両人比類なき働き致し、大友家へ非義を働かざる者にて褒美として城一つずつ取らせ、そのきわにて知行を出だし候義、休庵と談合いたすべく候、知行大小もこれあるべきか、それは休庵次第これよきよう、然るべく候こと、

 

 

(大意)

 

 一、大友宗麟を呼び寄せて、日向国のことを直接申し伝えなさい。宗麟に住まわせる城は自身に決めさせなさい。

 

一、豊後国において、大友義統がしくじった際、つまり「国の者」たちが心変わりをしたときに、志賀親次・佐伯惟定がめざましい働きをし、大友家へ「非義」を働かなかったので褒美として城をひとつずつ与える。その城のまわりに知行地を与える件は宗麟とよく相談しなさい。知行高の多寡もあるだろうから宗麟次第にさせなさい。

 

 

 

 Table. 四等官 「督」

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上表から「衛門」、「兵衛」といった名前が「左右衛門府」、「左右兵衛府」に由来することがわかる。したがって「○○衛門/○○兵衛」のあとに「督」、「佐」、「尉」が続くのも自然な流れである。初期の検地帳には「衛門尉/兵衛尉」の名を持つ百姓が多数見られる。ところが、である。メディアで新史料の発見が報じられる際、この「尉」が黙殺される例があとを絶たない。記憶に新しいところでは、明智光秀が登場する「最古の」史料発見において、「明智十兵衛尉」(ジュウベエノジョウ)とあるところを「明智十兵衛」と改竄して報じていた例が挙げられる。

 

「尉」は「兵衛府の判官」という意味である。

  

それはさておき、本文の検討に入る。この二ヶ条は大友宗麟と、大友家への忠誠を果たした志賀氏・佐伯氏に日向国にて城と知行地を与えるよう命じたものである。注目すべき点は二点である。

 

ひとつは「国の者」の独立性が高く、主君に「盲従する」近世的な主従関係とは異質であることである。この「盲従する家臣」像というのもフィクションなのだが、時代劇などでは依然主流である。

 

今ひとつは、志賀・佐伯両氏に与える知行地については宗麟次第としている点で、やはり大名の独立性を秀吉が尊重していることがうかがえる。積極的に独立性を認めたのか、それとも本音では権限の集中化を図ろうとしたものの、諸般の事情から妥協的にそうしたのかそこはわからない。ただ秀吉が九州での仕置を妥協的に進めようとしたことは、佐々成政の「不始末」の件でもうかがえる。

*1:宗麟

*2:日向国

*3:サヒョウエノカミ、義統

*4:天正14年11月13日黒田孝高・安国寺恵瓊・小早川隆景宛豊臣秀吉判物(2012号)に、義統が仙石秀久・長宗我部元親とともに筑後境目へ出兵した際、多数の謀反人が豊後府内へ押し寄せた旨記されている

*5:地元/在地の者。国人・国衆

*6:心変わり、変節

*7:親次カ。豊後岡城主

*8:惟定。豊後国海部郡佐伯周辺の国人

*9:義理に背くこと。ここでは大友家に対する忠誠を破ったこと。「不儀」は人の道を踏み外すことで、近世以降は婚外交渉を指すことが多い

*10:周辺