日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年9月2日太田資正・梶原政景宛豊臣秀吉朱印状

 

書状披見候、其許之様子申越趣聞召候、然北条事、何様ニも可任上意*1之旨、種〻懇望仕候之間、御赦免候、則為礼儀、今度差上北条美濃守*2罷上候、其付八州*3之事、頓*4被差下御上使*5、面〻分領堺目等可被仰付候、猶上洛之刻、可被仰聞候、委細石田治部少輔*6可申候也、

   九月二日*7 (朱印)

      三楽斎*8

      梶原源太*9

         とのへ

 

(三、2603号)

 

(書き下し文)

 

書状披見候、そこもとの様子申し越す趣き聞し召し候、しかれども北条のこと、何様にも上意の旨に任すべく、種々懇望仕り候のあいだ、御赦免候、すなわち礼儀として、このたび差し上ぐる北条美濃守罷り上り候、それについて八州のこと、やがて御上使差し下され、面々分領堺目など仰せ付けらるべく候、なお上洛のきざみ、仰せ聞けらるべく候、委細石田治部少輔申すべく候なり、

 

(大意)

 

手紙拝読した。そちらの状況について書き送ってきた趣旨については承知した。北条氏については万事「上意」に委ねるべく様々に「懇望」してきたので「赦免」することとする。すなわち臣下の礼として北条氏規が上洛し、関八州についてすぐに使者を遣わし、それぞれの分国の境目を命じるはずである。なお上洛の折よくよく言い含めるものである。詳しくは石田三成が申す。

 

 

天正16年関東および奥州では軍事的緊張が高まっていた。特に北条氏領国内では「天下の御弓箭」、すなわち「天下」*10存亡の危機にあるとして領民を動員している。一触即発の状況にあったのだ。

 

本文書は佐竹北義斯・同東義久宛(2602号)、多賀谷重経・水谷勝俊宛(2604号)に同日同文の文書が発給されており、下線部「面々分領堺目など仰せ付けらるべく候」とあるように東国の国郡境目相論、すなわち北条氏と反北条側諸氏との調停を意図したものである。

 

これらをまとめたのが下表と下図である。

 

Table. 2603号文書関係人物一覧

Fig. 2603号関係地名

                   『日本歴史地名大系 茨城県』より作成

 

 

本文書に見られる「上意」、「懇望」、「赦免」は対等の関係にある者同士が交わす和平とはほど遠く、北条氏が秀吉に臣従するかたちで、すなわち垂直的関係において取り結んだ関係であることを示している。なお北条氏側が秀吉側の意図するように和議を結ぼうとしたかはわからない。

 

「家忠日記」同年閏5月10日条に「相州(北条氏)と上方(秀吉)御無事調い候由に候」と見える。このとき「御取持」=仲介したのは徳川家康である。反北条氏の立場を鮮明にしていた佐竹氏麾下の者たちにも同様に和議を促したのが本文書である。

 

さてこの和議について奈良興福寺塔頭の多聞院英俊は次のように記している*11

 

 

京都へは東国より相州氏直*12の伯父美濃の守*13上洛し、東国ことごとく和談相調いおわんぬと云〻、奇特*14不思儀*15のことなり、天下一等*16満足充ち満ち、天道いかが、

 

(大意)

 

京都へ東国から北条氏直の伯父である氏規が上洛し、東国の「和談」が成立したという。霊験あらたかなことで世間は喜びに満ちあふれており、神仏のご加護は言葉に尽くせない。。

 

 

京都や奈良の人々が秀吉と北条氏の間で「和談」が成立したことで胸をなで下ろした様子がうかがえる。それだけこの緊張が大きなもので、かつ人々の日常を脅かしかねないものだったわけである。翌々年両者は干戈を交えることになるが、単に豊臣政権と東国大名のみに関わる問題ではなかったのだ。

 

むろんこの時期傭兵として稼ぎに出る者も多くいたので、和議によってその機会を失われた百姓も多くいたことだろう。

 


ちなみに9月13日付で施薬院全宗が伊達政宗に宛てて次のように書き送っている。

 

 

(前略)京都いよいよ静謐に属し、九州諸大名在洛候、東国の儀も無事罷り成り、北條美濃守このたび上洛せられ、御礼申し上げられ候、しかれば貴殿の儀、そこもと御隙も空きそうらわば、ふと*17御上洛、待ち奉り候、(後略)

   

 

九州諸大名は在京し、東国とも「無事」が成立した。ついては貴殿も「ふと」、すなわち「偶然をよそおい」上洛されてはいかがでしょう、とさりげなく秀吉に臣従するよう仄めかしている。着々と「東方拡大」を進めていたのである。

*1:秀吉の意思

*2:氏規

*3:関東八ヶ国

*4:やがて。すぐに

*5:「御」が付けられているので秀吉が派遣する使者

*6:三成

*7:天正16年、グレゴリオ暦1588年10月21日、ユリウス暦同年同月11日

*8:太田資正

*9:政景

*10:後北条氏領国のこと

*11:8月18日条

*12:北条

*13:北条氏規

*14:奇蹟、霊験

*15:予想外の

*16:

*17:はからずも

天正16年8月12日小早川隆景宛および名和顕孝宛豊臣秀吉朱印状

 

<史料1>

 

長野三郎左衛門尉*1・原田五郎*2・草野中務大輔*3両三人事、至肥後国被差遣、替地被仰付候、然為右入替、於筑前国内八百町城十郎太郎*4、五百町伯耆左兵衛尉*5、合千参百町事相渡之、則可令随逐*6候也、

 

  天正十六

 

   八月十二日*7 (朱印)

     

      羽柴筑前侍従とのへ*8

 

(三、2591号)
 
(書き下し文)
 
長野三郎左衛門尉・原田五郎・草野中務大輔両三人のこと、肥後国に至り差し遣わされ、替地仰せ付けられ候、しかれども右入れ替えとして、筑前国内八百町城十郎太郎、五百町伯耆左兵衛尉、合せて千三百町のことこれを相渡し、すなわち随逐せしむべく候なり、
 
(大意)
 
長野鎮辰・原田信種・草野鎮永三名については、肥後国に替地を仰せ付けられたところである。その一方右の代替として、筑前国内のうち800町を城久基に、500町を名和顕孝に、都合1300町与え、そなたに付き従うようにしなさい。
 

 

肥後から筑前に国替えされた城久基と名和顕孝の寄親を、同じく筑前を分国とする大名である小早川隆景の軍事指揮下に入るよう命じた朱印状である。

 

<史料2>

 

於筑前国為替地五百町事、被宛行之訖、全令領知、則羽柴筑前侍従*9ニ可随逐候也、

 

    天正十六

 

     八月十二日 (朱印)

 

         伯耆左兵衛尉*10

              とのへ

(三、2595号)
 
(書き下し文)
 
筑前国において替地として五百町のこと、これを宛て行われおわんぬ、まったく領知せしめ、すなわち羽柴筑前侍従に随逐すべく候なり、
 
(大意)
 
筑前国に替地として500町充てがうものである。みな領知し、小早川隆景に付き従うように。
 

 

史料2は史料1で隆景に命じた内容を名和顕孝にも伝えたことを示す文書である。知行地の替地として500町が筑前国に充て行われている。注意したいのは主従関係はあくまで秀吉との間に結ばれ、戦時にのみ隆景の指揮下に入るという点である。

 

また鎮永ら三名に対して「在隈本*11致し加藤主計頭に合宿せしめ、忠節を抽くべく」と命じた文書も顕孝宛と同様に発せられており、熊本に集住することを求められ、在地性を剥奪された。ただ、それらに対応する清正宛の文書は残されていないため、この国替えに清正も携わっていたのか、それとも隆景のみによって行われたのかは不明である。

 

以上文書2591~2595号の関係をまとめると下図のようになる。

 

Fig. 天正16年8月12日領知充行状群の関係図


土地の単位が「石高」でなく面積の「町」で表されていることにも注意したい。秀吉による検地が行われておらず、旧来の、南九州の慣行に依らざるを得なかったためであろう。

 

*1:鎮辰、大友氏の家臣

*2:信種、筑前国志摩郡の国衆

*3:鎮永、筑後最大の国衆

*4:久基、肥後国飽田・託麻両郡の国衆

*5:名和顕孝、肥後国宇土郡国衆。城・名和両氏とも秀吉の九州攻めにおいて臣従している

*6:ズイチク、付き従うこと

*7:グレゴリオ暦1588年10月2日、ユリウス暦同年同月9月22日

*8:小早川隆景

*9:小早川隆景

*10:名和顕孝

*11:熊本

天正16年8月10日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状

 

 

肥後諸城番手*1之儀、十月中所務等*2取納候迄、在番可被申付候、打続造作*3儀候也、

    八月十日*4 (朱印)

      羽柴筑前侍従とのへ*5

 

(三、2589号)
 
(書き下し文)
 
肥後諸城番手の儀、十月中所務など取り納め候まで、在番申し付けらるべく候、打ち続く造作の儀に候なり、
 
(大意)
 
肥後にある様々な城に詰めている兵士のことは、10月いっぱい年貢諸役などを無事収納するまで、在番するように。引き続き厄介なことだがしっかり勤めるように。
 

 

同日、上記文書が加藤清正、高橋直次*6、筑紫広門*7、龍造寺政家にも発せられている。熊本城主の清正はもちろん、筑前や筑後、肥前の大名らにも「所務など取り納め候まで」治安維持につとめよと命じている。それだけ肥後国衆一揆の豊臣政権に与えた衝撃が大きかったわけである。

 

Fig. 肥後諸城在番を命じられた諸大名

                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

ここで重要なのは「十月中所務など取り納め候まで」とあるように年貢諸役の納入をつつがなく行うために軍を駐留させたことである。言い換えれば豊臣政権による「惣無事」とは軍事力の圧倒的独占による年貢収取が本質だということである。ここに豊臣政権の兵営国家(高木昭作)としての性格の一面があらわれている。

 

*1:城に在番する警護の兵士。国衆一揆後の肥後国PKO部隊

*2:年貢・公事役など

*3:厄介事

*4:天正16年、グレゴリオ暦1588年9月30日、ユリウス暦同年同月9月20日

*5:小早川隆景

*6:立花宗茂実弟、筑後国三池郡江浦城主

*7:筑後国上妻郡山下城主

天正16年7月16日宗義智宛豊臣秀吉判物

 

 

高麗儀、柳川*1*2遣、色〻入精段尤候、至来年可渡海由、被聞召届候、然者□*3已下可為造作*4候間、□□*5弐千石被遣之候、猶施薬院*6・小西和泉*7申候也、

    七月十六日*8 (花押)

        宗対馬守とのへ*9

 

(三、2576号。下線部は引用者)
 
(書き下し文)
 
高麗の儀、柳川差し遣わし、色〻精を入る段もっともに候、来年にいたり渡海すべきよし、聞こし召し届けられ候、しからば賄已下造作たるべく候あいだ、八木弐千石これを遣わされ候、なお施薬院・小西和泉申され候なり、
 
(大意)
 
高麗の件について、柳川調信を朝鮮へ派遣し、種々交渉したことは忠節の至りです。来年には渡海することは確実だと関白様は聞き及んでいます。それについていろいろ費用が嵩むことでしょうから、米を2000石遣わします。なお詳細は施薬院全宗・小西隆佐が口頭で申し上げます。
 
 

 

本文書は下線部に敬意を表す「被」(らる)が用いられており、また朱印でなく花押が据えられていてやや厚礼に属する文書である。秀吉に臣従したとはいえ他大名より高位にあったようだ。

 

本文書に見られる小西隆佐の嫡男行長は2月29日、義智の後見人宗義調に宛てて「高麗よりの御左右ござなく候か、承りたく存じ候、殿下様*10高麗の儀切にお尋ねなされ候」と書き送っていて、小西ー宗ラインから朝鮮に交渉していたものと見られる。

 

またこのころの秀吉は「切にお尋ねなされ候」との文言が示すように比較的低姿勢だった。

 

なぜこの時期に「唐入」という発想が表出してきたのかについては、佐伯真一『「武国」日本』(平凡社新書、2018年)を参照されたい。

*1:調信、宗義智の重臣。のちの日朝関係修復に携わる

*2:

*3:賄。取り計らうこと、取り仕切ること

*4:厄介なこと

*5:八木=米

*6:全宗

*7:隆佐

*8:天正16年、グレゴリオ暦1588年9月6日、ユリウス暦同年8月27日

*9:義智。二十代対馬島主。秀吉の朝鮮派兵に対して小西行長、博多商人とともに反対したが、戦役では行長軍に属す

*10:秀吉

天正16年7月10日鍋島直茂宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

肥前国草野*1*2事、毛利壱岐守*3相談令検地、即為御蔵入*4両人令執沙汰*5可致運上候、深堀*6跡之儀も右同前致検地、可令執沙汰候、深堀方へ替地*7之義者、以御蔵入内相渡之、龍造寺*8へ引越可有之旨、深堀可申付候、猶毛利壱岐守へ被仰聞候也、

 

  七月十日*9 御朱印

 

     鍋島加賀守とのへ*10

 

(三、2575号)

 

(書き下し文)

 

肥前国草野跡のこと、毛利壱岐守相談じ検地せしめ、すなわち御蔵入として両人執り沙汰せしめ運上致すべく候、深堀跡の儀も右同前検地致し、執り沙汰せしむべく候、深堀方へ替え地の義は、御蔵入のうちをもってこれを相渡し、龍造寺へ引越これあるべき旨、深堀申し付くべく候、なお毛利壱岐守へ仰せ聞けられ候なり、

 

(大意)

 

肥前の草野鎮永の跡職については、毛利吉成とよく相談の上検地を行い、太閤蔵入地として吉成・直茂両名が代官として支配し、年貢を大坂まで運ぶように。深堀純賢を肥後へ移封した跡職についても同様に検地し、支配すること。純賢への替地は蔵入地から与え、龍造寺政家の寄子とする旨純賢に命じるように。なお吉成にも申し含めてある。

 

肥後国衆一揆の戦後処理の一環として在地土豪の移封が行われ、その際に検地を行うよう命じた文書の写である。

 

Fig. 肥前国関係図

                   『日本歴史地名大系 長崎県』より作成

上記文書から、毛利吉成、鍋島直茂といった「国主」や「給人」、つまり豊臣大名が太閤蔵入地の代官を兼務していたことがわかる。

*1:鎮永、筑後国山本郡草野を本拠とする国衆。肥後国衆一揆への荷担を疑われ天正16年成敗された

*2:跡職、草野氏の残した知行地

*3:吉成

*4:「御」があるので秀吉の蔵入地

*5:トリザタ、取り扱って処理すること、支配すること

*6:純賢、肥前国彼杵郡俵石城主。天正15年9月20日戸田勝隆宛書状によれば、前年に秀吉から朱印を賜り、すなわち知行充行を行われたようで、肥後国衆一揆の際に肥前国高来郡伊佐早城主西郷信尚により地元に足止めされたことを詫びている

*7:転封先の知行地

*8:政家

*9:天正16年、グレゴリオ暦1588年8月31日、ユリウス暦同年同月21日

*10:直茂