しばらく余計な話題ばかり採り上げてきたが、今回からまた秀吉発給文書に戻る。7月5日小田原北条氏が降伏した翌日*1、忍城に布陣していた上杉景勝、前田利家、岩付城に布陣していた木村常陸介、山崎片家四名宛に下記の書状を送った*2。
急度被仰遣候、小田原*3事、氏政*4初而、其外年寄*5四五人可切腹候間、籠城之諸卒*6命之儀、被成御助候様にと種〻相歎候条相免、右之者共切腹被仰付候、則本丸へ此方之人数入置候、然者其表人数*7此方*8へ不入候間、忍*9面へ早〻相越、堤丈夫二可申付候*10、十四五日比*11ニハ岩付*12へ可被成御出候間、忍面堤躰*13可被成御見物候条、普請等無由断、能〻可申付候、猶増田右衛門尉*14可申候也、
七月六日*15 (朱印)
羽柴越後宰相中将とのへ*16
羽柴越中侍従とのへ*17
木村常陸介とのへ*18
山崎志摩守とのへ*19
(四、3297号)
(書き下し文)
急度仰せ遣わされ候、小田原のこと、氏政をはじめて、そのほか年寄四五人切腹すべく候あいだ、籠城の諸卒命の儀、お助けなされ候ようにと種〻相歎き候条相免し、右の者ども切腹仰せ付けられ候、すなわち本丸へこの方の人数入れ置き候、しからばその表人数この方へ入らざる候あいだ、忍おもてへ早〻相越し、堤丈夫に申し付くべく候、十四五日ころには岩付へ御出でなさるべく候あいだ、忍おもて堤躰御見物なさるべく候条、普請など由断なく、よくよく申し付くべく候、なお増田右衛門尉申すべく候なり、
(大意)
必ず申し伝える。小田原城は氏政をはじめ、そのほか年寄の四五人に切腹を命じ、籠城していた兵士たちの命はお助けくださいといろいろ懇願してきたので兵たちは助命し、右の重臣たちには切腹を命じた。すぐさま本丸へこちらの軍勢を入れ置き城の請取は済ませた。したがって忍や岩付の軍勢を小田原へ派遣する必要はなく、忍城方面へ早く出陣し、水攻めのための堤を丈夫にするよう命じなさい。十四五日には岩付へ出馬するつもりなので、忍城の堤の様子を見物する予定であるから、普請など油断することなく命じなさい。なお増田長盛が詳しく申す。
Fig. 小田原城、忍城、岩付城の位置

秀吉は岩付城を見分してから水攻めの最中である忍城に向かうようだ。特に堤防の造り方に注意するよう命じている。
ところで多聞院英俊は5月16日の条において小田原攻めの様子を以下のように記している。
一、小太郎*20東国陣ヲ見廻テ帰了、昨夕帰ト云〻、一段*21城堅固、万〻ノ猛勢取巻、城ノ内五里四方ニ人数六万在之申ト、永〻敷見ヘ了ト、人馬多ク死タル、道ノクサキ*22事無限云〻、
(『多聞院日記 四』236頁)
(書き下し文)
一、小太郎東国陣を見廻りて帰りおわんぬ、昨夕帰ると云〻、一段城堅固、万〻の猛勢取り巻き、城の内五里四方に人数六万これあると申すと、ながながしく見えおわんぬと、人馬多く死にたる、道の臭きこと限りなしと云〻、
(大意)
一、小太郎、関東の戦争を見物に出かけ戻ってきた。昨日の夕方に戻ってきたそうだ。小田原城の守りはひときわ堅固で、無数の豊臣軍が包囲し、小田原城内5里四方に6万の軍勢が長期にわたって陣を構えていたように見えたと申していた。人馬が多く死んでいて、道の臭いことといったら限りがないほどだったとも。
小太郎という人物がわざわざ関東まで出かけ小田原攻めの様子を見物してきたらしく「人馬多く死にたる、道の臭きこと限りなしと云〻」と表現するほど死臭に満ちていたらしい。戦場の様子といえば上杉謙信と武田信玄の一騎打ちのような、あるいは今川義元の首取りのような話ばかりが取り沙汰される中、貴重な記述と言える。こうした戦場の跡を洗浄するのはどのような人々だったのか気になるところである。
*1:「家忠日記」同日条、ただし「多聞院日記」7月10日条には秀長宛に4日に落城したの朱印状が前日9日夜に届いたと記している
*2:それぞれの城の位置は下図を参照されたい
*3:相模国小田原城
*4:北条氏政
*5:重臣のこと。現在でも相撲の世界では「年寄株」と呼ぶように経験・知識の豊かな人を「年寄」と呼ぶ
*6:下級の兵士
*7:上杉景勝らの軍勢
*8:小田原城
*9:武蔵国埼玉郡忍城
*10:水攻めの最中なので堤を頑丈につくる
*11:「頃」の異体字
*12:同国同郡岩付城
*13:堤の出来具合
*14:長盛
*15:天正18年、グレゴリオ暦1590年8月5日、ユリウス暦同年7月26日
*16:上杉景勝、越後国春日山城主90万石
*17:前田利家
*18:諱は不明、越前国府中城主12万石
*19:片家、従五位下摂津国三田城主2万3000石
*20:未詳
*21:甚だしく、ひときわ
*22:臭き=死臭

















