日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年7月11日菊亭晴季・勧修寺晴豊・中山親綱宛豊臣秀吉書状

 

 

 

急度令啓候、今日申刻、北条氏政・同陸奥守*1刎首差上候、然者出羽・奥州果迄置目*2等為申付、来廿日比*3至会津相移候、此由可有披露*4候、恐〻謹言、

   七月十一日*5 秀吉(花押)

       菊亭右大臣殿*6

       勧修寺大納言殿*7

       中山大納言殿*8

 

(四、3305号)

(書き下し文)

 

きっと啓せしめ候、今日申の刻、北条氏政・同じく陸奥守首を刎ね差し上げ候、しからば出羽・奥州の果てまで置目など申し付くため、来たる廿日頃会津にいたり相移り候、この由披露あるべく候、恐〻謹言、

 

(大意)

 

必ず申しあげます。本日申の刻、北条氏政・同氏照の首を刎ね京都に持参いたしました。つきましては出羽・陸奥の果てまで支配下に置くべく、来たる20日会津に陣を移しましたので、この旨ご報告申し上げます。恐〻謹言、

 

 

 

 

この文書と同文の仮名書きの3306号では「ひてよし(朱印)」とやや薄礼になっているが、それでも名前を記しているだけ厚礼である。

 

まず公家の家格を見ておこう。

 

Fig.1 堂上家一覧

 

清華家の菊亭(今出川)晴季*9は従一位右大臣、羽林家の中山親綱は正二位権大納言、名家の勧修寺晴豊は従三位権大納言まで上り詰めている。彼ら三名と秀吉の密接な関係が公家社会の階梯を上っていく手段だったのだろう。それが本文書によく現れている。ちなみに女優の久我美子は清華家にあたる久我家(こがけ)出身である。

 

この文書の特徴はまず「秀吉」と署名した上で花押を据えていることである。また充所の敬称も「殿」を最大限に崩した「とのへ」*10ではなく「殿」と書かれている。

 

Fig.2 充所の貴賤によるくずし方の度合い

 

 

同様にこの文書の文体は下線部のように「相移り」、「披露あるべく」という控えめなトーンに押さえられ、ふだんの尊大な「殿下」や「御動座」といった自敬表現が見られない。つまりこの文書はかなりの厚礼で貫かれている点で大名宛の文書と異なる。

 

ところで奈良興福寺の塔頭多聞院の英俊は7月26日の条に京都へ凱旋してきた秀吉軍について次のように記している。

 

 

 

一、小田原のさま、むざむざと*11落居し、氏直は家康へ駆け入り、まず別儀なく*12、①父の氏正*13・弟奥州の守*14は生害、すなわち盆以前に*15首二つ京へ上げ*16おわんぬ、偽者のように申し、今度猿楽衆*17上って必定必定云々*18、②関白殿ただ人にあらず*19、むざむざと*20天道*21にて落居と聞こえおわんぬ(中略)郡山の正二位大納言殿*22昨夕在京しおわんぬ、さて日本国六十余州嶋嶋まで一円ご存分に帰りおわんぬ*23、不思議不思議のことなり、③高麗・南蛮よりも御礼*24使い罷り越し、京・堺に逗留しおわんぬ、了らか*25に妙なる*26希代希代*27、

 

(『多聞院日記 四』248頁)

 

 

逐語訳的な解釈はここでは割愛するとして、①北条氏政と氏照の首が盆前に京都に「上げられた」こと、②秀吉が凡人ではないこと、そして興味深いのは③の朝鮮や南蛮からも御祝いの挨拶のために使者が送られたことである。すでに朝鮮と日本の間には対馬の宗氏を介して緊張が高まっていたにも関わらずである。

 

 

*1:八王子城主北条氏照

*2:法令や掟

*3:「頃」と同じ

*4:報告すること、上申すること

*5:天正18年、グレゴリオ暦1590年8月10日、ユリウス暦同年7月31日

*6:今出川晴季。清華家の出身で従一位右大臣にまで上り詰める。秀吉と懇意で関白任官の斡旋を務めるなどした。のち秀次事件に連座して失脚

*7:晴豊。名家の出身で従一位准大臣にまで上り詰める

*8:親綱。羽林家の出身で正二位権大納言

*9:秀吉に関白任官を持ちかけて、調停との調整役を務めた

*10:翻刻する際「とのへ」とするがこれは仮名書きではなく「殿」を崩すと「とのへ」になり、薄礼であることを意味する。図2参照

*11:無念に思うさま

*12:命に別状はなかった

*13:ママ

*14:氏照

*15:旧暦7月13~15日くらいより前に

*16:都へ物を持ち運ぶことを「上げる」という

*17:芸能集団。移動が比較的自由だったこともあり戦国大名と強く結びつき諜報活動を行う者もいた

*18:情報提供者であったことを示している

*19:凡人ではない

*20:無分別に

*21:天の道理、自然の理

*22:秀長

*23:天下統一がなった

*24:贈答品に対する返礼品ではなく、「あいさつ」の意

*25:明らか

*26:人知を超えた

*27:世にも稀な

天正18年7月10日小早川隆景・吉川広家宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

 

急度被仰遣候、小田原*1之儀、北条*2被為*3刎首、平均*4被仰付、此表*5悉被隙明候条、淀*6女房衆*7被差上*8候、然者来十五日三牧橋*9迄可相着候、成其心得、兼日令用意*10、小荷駄*11卅疋・夫丸*12六百人申付、路次無滞相越候様、馳走肝要候、留〻*13如書付*14、大津迄可為十一留*15候、猶山中橘内*16可申候也、

     七月十日*17 (朱印)

 

        清須とまり*18

           羽柴筑前侍従とのへ*19

        岡崎とまり*20

           羽柴新庄侍従とのへ*21

         

(四、3300号)

(書き下し文)

 

 

急度仰せ遣わされ候、小田原の儀、北条首を刎ねさせられ、平均仰せ付けられ、この表ことごとく隙明られ候条、淀の女房衆差し上げられ候、しからば来たる十五日三枚橋まで相着くべく候、その心得をなし、兼日用意せしめ候、小荷駄30疋・夫丸600人申し付け、路次滞りなく相越し候よう、馳走肝要に候、縷々書付のごとく、大津まで十一留たるべく候、なお山中橘内申すべく候也、

 

(大意)

 

堅く申し付ける。小田原の件は北条氏政の首を刎ね、秀吉の支配下に入り、こちらは手隙となった。淀の女房衆を上京させるので来たる15日に三枚橋まで到着するだろうから、そのように心得なさい。かねてから用意させていた小荷駄30疋、夫丸600人を百姓らに命じ、途中滞りがないように女房衆が上京できるように奔走することが重要である。縷々書き付けたように大津までは11泊かかるであろう。なお詳しくは山中橘内が申す。

 

 

淀は古くから交通の要衝であり、また魚市場として古くから知られる。下図で分かるように瀬戸内海の舟運を難波津から淀川水系を利用して淀、そして京都。さらには大津から日本海を通して環日本海世界と繋がるヒト・モノ・カネの一大集散地(ハブ)だった。

 

天正17年秀吉はここに浅井茶々の居城を築いた。「淀殿」といった呼ばれ方をするのもこの頃からである。

 

 

Fig.1 淀津周辺図

 

                      『宇治市史 1 (古代の歴史と景観)』439頁、図87より作成

 

Fig.2 伏見築城当時の巨椋池周辺図

 

                                『久御山町史 第1巻』423頁、図36より作成

 

さて小田原城に下向させた淀殿一行を無事上京させるため、小荷駄30疋と夫丸600人を徴発するよう、清須と岡崎に控えていた小早川隆景、吉川広家に命じている。つまり徴発される夫丸の対象地域は清須と岡崎周辺だったと推測される。

 

通常小荷駄一疋に二人が口取りをするが、600名の夫丸は交代要員も含めてのことかはっきりしない。しかし、600人に小荷駄30疋は鑓や荷物を持っていることから1.5メートルくらいの間隔で行軍してたことだろう。そう仮定すると1列行軍では900メートル、2列行軍でも500メートルの距離となる。ふだんそうした訓練を受けていない百姓たちが0.5キロから1キロ近い隊列をなし、整然と行進できるかと問えば否ということになろう。号令一下、一糸乱れぬ集団行動は繰り返し訓練を行わねば不可能である。入学卒業式や運動会での入場行進の練習を繰り返し行わされたことを思い起こしてほしい。また遠足などでも列を乱す行為はむしろふつうである。果たして秀吉が厳命したように「路次滞りなく相越し候よう」が実現できたのかははなはだ疑わしい。

 

 

*1:相模国

*2:氏政

*3:使役の助動詞「さす」

*4:征服、支配下に置くことを「平均」と呼ぶ。「平らに均す」ことから

*5:関東

*6:山城国久世郡とも紀伊郡とも、図1参照

*7:前年に淀城が完成したことから淀殿を「淀女房衆」、「淀のお方」などと呼び始めたのだろう

*8:上方へ送り出す

*9:駿河国駿東郡三枚橋城

*10:候脱カ

*11:いわゆる輜重兵。「輜重」は中国語由来で、牛あるいは馬1疋につき2人が口を取った

*12:非戦闘員として徴発された陣夫

*13:縷々=こまごまと

*14:この「書付」がどの文書を指すのか未詳

*15:11泊

*16:長俊

*17:天正18年、グレゴリオ暦1590年8月9日、ユリウス暦同年7月30日

*18:尾張国春日井郡、「とまり」は「泊」で宿場。留守居

*19:小早川隆景

*20:三河国額田郡

*21:吉川広家

天正18年7月6日上杉景勝ほか宛豊臣秀吉朱印状

 

しばらく余計な話題ばかり採り上げてきたが、今回からまた秀吉発給文書に戻る。7月5日小田原北条氏が降伏した翌日*1、忍城に布陣していた上杉景勝、前田利家、岩付城に布陣していた木村常陸介、山崎片家四名宛に下記の書状を送った*2。

 

 

 

 

急度被仰遣候、小田原*3事、氏政*4初而、其外年寄*5四五人可切腹候間、籠城之諸卒*6命之儀、被成御助候様にと種〻相歎候条相免、右之者共切腹被仰付候、則本丸へ此方之人数入置候、然者其表人数*7此方*8へ不入候間、忍*9面へ早〻相越、堤丈夫二可申付候*10、十四五日比*11ニハ岩付*12へ可被成御出候間、忍面堤躰*13可被成御見物候条、普請等無由断、能〻可申付候、猶増田右衛門尉*14可申候也、

 

    七月六日*15 (朱印)

 

        羽柴越後宰相中将とのへ*16

        羽柴越中侍従とのへ*17

        木村常陸介とのへ*18

        山崎志摩守とのへ*19

(四、3297号)

 

(書き下し文)

 

急度仰せ遣わされ候、小田原のこと、氏政をはじめて、そのほか年寄四五人切腹すべく候あいだ、籠城の諸卒命の儀、お助けなされ候ようにと種〻相歎き候条相免し、右の者ども切腹仰せ付けられ候、すなわち本丸へこの方の人数入れ置き候、しからばその表人数この方へ入らざる候あいだ、忍おもてへ早〻相越し、堤丈夫に申し付くべく候、十四五日ころには岩付へ御出でなさるべく候あいだ、忍おもて堤躰御見物なさるべく候条、普請など由断なく、よくよく申し付くべく候、なお増田右衛門尉申すべく候なり、

 

(大意)

 

必ず申し伝える。小田原城は氏政をはじめ、そのほか年寄の四五人に切腹を命じ、籠城していた兵士たちの命はお助けくださいといろいろ懇願してきたので兵たちは助命し、右の重臣たちには切腹を命じた。すぐさま本丸へこちらの軍勢を入れ置き城の請取は済ませた。したがって忍や岩付の軍勢を小田原へ派遣する必要はなく、忍城方面へ早く出陣し、水攻めのための堤を丈夫にするよう命じなさい。十四五日には岩付へ出馬するつもりなので、忍城の堤の様子を見物する予定であるから、普請など油断することなく命じなさい。なお増田長盛が詳しく申す。

 

 

 

 

Fig. 小田原城、忍城、岩付城の位置

 

                  横浜市歴史博物館『秀吉襲来』54頁、1999年より作成

 

秀吉は岩付城を見分してから水攻めの最中である忍城に向かうようだ。特に堤防の造り方に注意するよう命じている。

 

 

ところで多聞院英俊は5月16日の条において小田原攻めの様子を以下のように記している。

 

 

 

一、小太郎*20東国陣ヲ見廻テ帰了、昨夕帰ト云〻、一段*21城堅固、万〻ノ猛勢取巻、城ノ内五里四方ニ人数六万在之申ト、永〻敷見ヘ了ト、人馬多ク死タル、道ノクサキ*22事無限云〻、

 

(『多聞院日記 四』236頁)

 

(書き下し文)

 

一、小太郎東国陣を見廻りて帰りおわんぬ、昨夕帰ると云〻、一段城堅固、万〻の猛勢取り巻き、城の内五里四方に人数六万これあると申すと、ながながしく見えおわんぬと、人馬多く死にたる、道の臭きこと限りなしと云〻、

 

 

(大意)

 

一、小太郎、関東の戦争を見物に出かけ戻ってきた。昨日の夕方に戻ってきたそうだ。小田原城の守りはひときわ堅固で、無数の豊臣軍が包囲し、小田原城内5里四方に6万の軍勢が長期にわたって陣を構えていたように見えたと申していた。人馬が多く死んでいて、道の臭いことといったら限りがないほどだったとも。

 

 

 

小太郎という人物がわざわざ関東まで出かけ小田原攻めの様子を見物してきたらしく「人馬多く死にたる、道の臭きこと限りなしと云〻」と表現するほど死臭に満ちていたらしい。戦場の様子といえば上杉謙信と武田信玄の一騎打ちのような、あるいは今川義元の首取りのような話ばかりが取り沙汰される中、貴重な記述と言える。こうした戦場の跡を洗浄するのはどのような人々だったのか気になるところである。

 

 

 

 

*1:「家忠日記」同日条、ただし「多聞院日記」7月10日条には秀長宛に4日に落城したの朱印状が前日9日夜に届いたと記している

*2:それぞれの城の位置は下図を参照されたい

*3:相模国小田原城

*4:北条氏政

*5:重臣のこと。現在でも相撲の世界では「年寄株」と呼ぶように経験・知識の豊かな人を「年寄」と呼ぶ

*6:下級の兵士

*7:上杉景勝らの軍勢

*8:小田原城

*9:武蔵国埼玉郡忍城

*10:水攻めの最中なので堤を頑丈につくる

*11:「頃」の異体字

*12:同国同郡岩付城

*13:堤の出来具合

*14:長盛

*15:天正18年、グレゴリオ暦1590年8月5日、ユリウス暦同年7月26日

*16:上杉景勝、越後国春日山城主90万石

*17:前田利家

*18:諱は不明、越前国府中城主12万石

*19:片家、従五位下摂津国三田城主2万3000石

*20:未詳

*21:甚だしく、ひときわ

*22:臭き=死臭

天正6年3月秀吉が播磨国の寺社に発給した禁制について

 

 

秀吉軍が破壊の限りを尽くした書写山円教寺周辺に秀吉は禁制を発した。それは以下の各寺社であった。

 

Fig.1 書写山円教寺と禁制発給寺社

                                    『日本歴史地名辞典 兵庫県』より作成

なお『日本歴史地名辞典』の「円教寺」の項に次のように記されている。

 

 

 

 

大永三年(一五二三)山名政豊軍が書写山での浦上軍との戦闘で敗退している(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)。このように諸堂の再建が困難であったうえに、戦闘によって当寺は荒廃・衰退していった。天正六年(一五七八)三月六日、三木城の別所氏討伐のため播磨に侵攻した羽柴秀吉が書写山に布陣、このため衆徒らは方々に逃去り、坊舎・仏閣は開基以来という損壊を被った。このとき秀吉から五〇〇石を寄進されたが、破損修復のためにはあまりにもわずかであったという(「播州書写山円教寺古今略記」円教寺蔵など)。

 

 

 

 

                                          https://serai.jp/hobby/1270717

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「結構な被害」どころでないことは前回明らかにしたとおりで、地名辞典の記述より矮小化されている。

 

それはともかく3月6日に円教寺に「乱入した」ときには男女貴賤を問わず欠落したとある。

 

 

 

去る天正六年戊寅三月六日乱入なり、老若上下方〻に馳せ散り、坊舎仏閣一時に破損す、開基已来六百余年のあいだに及ぶの、かほどの乱謀これなし、住侶陸沈牢籠して、さらに方角を失う

 

 

 

 

「開基以来600有余年ものあいだにこれほどの乱妨狼藉はなかった」と記すくらいの被害だったことは改めて押さえておくべきだろう。

 

 

秀吉はこれ以前禁制を5通しか発してこなかった。しかも禁制は「八月日」のように通常日付は入れない。しかし秀吉がわざわざ日付を書いたことには意味があろう。

 

Table.1 秀吉による天正6年までの禁制発給

 

 

さて本文中に見える「当手軍勢」とは何か。これは「当方の軍勢」の意味で味方の軍勢を指す。戦国期には「敵地」と「味方の地」という区別が存在し、「味方の地」の寺社や郷村は数貫文の制札銭を負担してこのような禁制を下付される。書写山円教寺周辺の寺社に禁制が発せられたのは3月20日から29日で、秀吉軍が同寺に乱入して破壊の限りを尽くした6日から約2週間後のことである。周辺寺社は円教寺での秀吉軍の振る舞いを見て禁制を要求したのだろう。

 

これらの史料も戦時暴力の凄まじさを物語っていると言える。

 

 

天正6年書写山円教寺における豊臣軍の所業

 

 

前回まで秀吉が上月落城後、非戦闘員である子どもを串刺し、女性を磔にして備前、美作、播磨の国境に並べ置いたことを明らかにした。ついでと言ってはなんだが駐留した書写山円教寺で秀吉軍がいかなる振る舞いをしたかを述べておく。これは国際人道法という「あるべき国際秩序」に鑑みたとき、秀吉軍の振る舞いは極めて参考にすべき現代的な問題と考えるからである

 

また中世後期の軍隊が統率のとれない掠奪や強盗をはたらく集団だったこともすでに定説となって久しいが、ここで再確認しておくこともまた意味があるだろう。こちらも戦時暴力という極めて今日的な問題に繋がる。

 

 

1.大坂夏の陣屏風図に見える戦時暴力

 

ここでは「戦時暴力」を戦闘以外に向けられる暴力全体の呼称とする。民間人への攻撃や掠奪、強姦、人身売買目的での強制連行その他を含む。もちろん軍隊内における鉄拳制裁や自決命令、戦場でのトラウマから家族に暴力を振るってしまうケースまでその範囲は幅広い。ここでは有名な、福岡黒田家に伝わる「大坂夏の陣図屏風」から戦時暴力を示す事例をいくつか確認しておきたい。

 

兵士に連行される半裸の女性たち

 

同様に女性を連行する兵士や襲いかかる兵士

 

身ぐるみ剥がれて上半身裸で逃げ惑う女性たち


生け捕った非戦闘員を船で運ぶ者たち。子どもの泣き顔も見える

 

女性を襲う兵士たち

 

追い剥ぎや奴隷狩り

 

レイプしようとする兵と命乞いをする者



左隻全体

                            岡本良一『図説大阪の陣』18~19頁、1978年、創元社


戦国期を描いた日本の映像作品に非戦闘員が戦闘に巻き込まれるシーンはまずない。なかには落ち延びるために女装すると見逃されるというありえない演出も見かけるが、2020年代も半ばを超えた今日さすがに不勉強の誹りを免れまい。沖縄戦を除いて、戦闘に巻き込まれる非戦闘員や民間人の存在をなぜ不可視化するのか、日本の戦後を考える上で興味深い問題だが、ブログ主にその用意も能力もないのでここでは措く。一方独ソ戦などを描いた映画では村人など様々な非戦闘員を主人公としたものも多く極めて対照的である。

 

2.播磨国飾磨郡書写山円教寺旧記に見る秀吉軍の破壊行為

 

円教寺の位置は下図の通りである。

 

                                             GoogleMapより作成

 

さて「播州書写山円教寺古今略記」は草創以来慶長年間にかけての出来事を記録したもので、「とくに天正以後の記述は、筆者の直接見聞きした事実をもとにしており」*1本ブログの目的に最適である。

 

 

 

        一、当寺一乱之事

 

前太閤秀吉公其時者号羽柴筑前守、織田弾正忠信長為西国征伐付勢、秀吉被遣時当国*2御進発なり、徒衆*3千石の兵粮米を献じ、色〻馳走申す故に、強ちに当山破却の御気色*4も雖無之、三木*5別所*6敵対依て、自陣所とし給、全非衆徒の科、仍去天正六年戊寅三月六日*7乱入也、老若上下方〻に馳散、坊舎仏閣一時に破損す、開基已来及六百余年間、加程の乱謀无之、住侶*8陸沈*9牢籠*10、更失方角*11、叡峯*12摸*13格*14顕密聖教*15、累年修練の霊験*16の仏像、落地交塊*17、男女往還、魚肉*18満山、末世*19の今と乍云、絶言語次第也、乍去強非武威の御咎*20、高野*21も一度退転*22し、叡山*23も近年再興なり、盛衰従時、存亡不定なる故、当山も時節到来所致也、昔寺領*24雖莫大、纔*25被付五百石、同年八月衆徒還住(以下略)

 

『兵庫県史 史料編 中世4』181~182頁、カタカナはひらがなに改めた

 

 

(書き下し文)

 

        一、当寺一乱之事

 


さきの太閤秀吉公、その時は羽柴筑前守と号し、織田弾正忠信長西国征伐のため勢いを付け、秀吉を遣さるる時当国御進発なり、徒衆千石の兵粮米を献じ、色〻馳走申すゆえに、あながちに当山破却の御気色もこれなしといえども、三木別所敵対に依って、自ずから陣所とし給う、まったく衆徒の科にあらず、よって去る天正六年戊寅三月六日乱入なり、老若上下方〻に馳せ散り、坊舎仏閣一時に破損す、開基已来六百余年のあいだに及ぶの、かほどの乱謀これなし、住侶陸沈牢籠して、さらに方角を失う、叡峯格を模す顕密の聖教、累年修練の霊験の仏像、地に落ち塊に交じる、男女往還、魚肉山に満つ、末世の今と云いながら、言語に絶ゆる次第なり、さりながらあながち武威の御咎めにあらず、高野も一度退転し、叡山も近年再興なり、盛衰時にしたがい、存亡不定なるゆえに、当山も時節到来致すところなり、昔は寺領莫大なりといえども、わずかに五百石を付けらるる、同年八月衆徒還住す(以下略)

 

 

(大意)

  

     一、当寺における戦乱について

 

先の太閤秀吉、当時は羽柴筑前守と名乗っていたときのこと。織田信長の西国征伐の軍勢として秀吉を派遣し、播磨国を出発する際に、門徒が千石の兵粮米を献上し、いろいろ世話を焼いたため、強引に当山を破却するご様子はなかったけれども、三木城の別所氏が敵対したことで、自然と当山を陣所とすることになった。衆徒に非があった訳ではまったくなかったが、去る天正6年つちのえとら年3月6日に乱入してきた。老若、身分の高下にかかわらず方々へ逃げ去り、坊舎や仏閣を一瞬にして破壊してしまった。開基以来600有余年の間、これほどの乱妨狼藉を受けたことはない。住侶は俗人のあいだに潜んだり、困窮したりして為す術もない。叡峯の方法に倣い、顕密の聖教を永年磨き上げた霊験あらたかな仏像も地に落ち、土くれにまみれ、男女が行き来すると惨殺されて遺骸が山をなしている。末世とはいうものの言語に絶するさまである。しかしながらこれは信長様がお咎めになったことが原因ではない。高野山も一度は落ちぶれ、比叡山も近年再興された。盛衰は時によりけりで、存亡は不確かなことゆえ、当山もその時が訪れたのだろう。むかしは莫大な荘園を抱えていたものだが、その後わずかに500石を給わったのみで、同年8月には衆徒が還住した。

 

 

 

書写山円教寺と三木城

 

                                             GoogleMapより作成

ここから読み取れるのは次の3点である。

 

1.兵粮米1000石を献上したこと。すなわち兵粮の現地調達が基本だったことである。

 

2.天正6年3月6日に乱入してきた秀吉軍が、開基から600有余年の歴史でも類を見ないほどの破壊と暴力の限りを尽くした点である。

 

3.衆徒が戻るまでのわずか5ヶ月間の出来事だという点である。

 

戦時暴力の凄まじさがうかがえるというものである。

 

 

3.円教寺の柱に刻まれた「羽柴小一良内高井丁助」の歴史的位置

 

ところで話題に上っている円教寺の柱に刻まれた名前は何を示しているのだろうか。

 

 

                              いずれも https://www.steranet.jp/articles/117677 より引用


上述のとおり、秀吉軍による円教寺の破壊行為に鑑みれば、観光地に置かれているようなノートに「自分はここに来たぞ」といった意味で書き込んだ類いのものでないことは明らかである。もっとも蓋然性が高い解釈はこの柱が「自分のトロフィー、すなわち戦利品」であることを示す署名であるとすることだろう。高井丁助の身分的高低は不明なものの、おそらく陪臣以下の雑兵クラスと思われる。少なくとも秀長の直臣ではなかろう。彼はこれを持ち去り、売却することはできなかったが、名もなき雑兵にとって柱を材木として売却することは何にも代えがたい稼ぎだったはずである。

 

2026/07/14 加筆

 

中世後期の文書に「誰々の被官と号し押妨す」という文言がしばしば見える。自分より上位の権力や権威に頼って、その被官であると称して行為を正当化することが常態化していたのだろう。もちろん「その被官」であった保証はない。この柱に刻まれた「羽柴小一良内高井丁助」という文言こそ「誰々の被官人と号し押妨」する行為のひとつの現れだったのではなかろうか。

 

 

 

*1:『兵庫県史 史料編 中世4』692頁

*2:播磨

*3:としゅう。門徒

*4:みけしき。ご様子

*5:美嚢郡、下図参照

*6:長治

*7:ユリウス暦1578年4月12日

*8:じゅうりょ、その寺に住む僧侶

*9:りくちん。俗人の間に紛れること

*10:ろうろう。困窮すること

*11:為す術

*12:比叡山延暦寺

*13:ばくす。真似る

*14:同じようなやり方

*15:顕教と密教

*16:仏・菩薩などの霊妙な験=しるし

*17:土くれ

*18:魚肉のように惨殺される

*19:世界の終末、ハルマゲドン

*20:信長が咎めるところ

*21:紀伊国伊都郡高野山金剛峯寺、真言宗の総本山

*22:衰微すること

*23:比叡山延暦寺

*24:円教寺の荘園

*25:わずか