日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年5月8日羽柴秀長宛羽柴秀吉朱印状写

 
 
 
態申遣候、仍先書*1ニ如申候、四国へ出馬之事、来月三日弥相極候、然者其方事、半分人数召連可罷立候、船等事、堺*2を限泉紀*3諸浦*4之事、舟数書立、扶持方*5遣、其方衆可相越候、堺へハ自此方*6申付候間、堺より南之船共へ計、扶持かた儀可念入候、熊野衆*7初堀内*8悉不残可相立候、陣用意儀、聊不可有油断候、随普請衆*9事、陣前につかへ*10候、早〻可相返候、為其染筆候也、謹言、
  此朱印自其方可遣候、又普請事いか程出来候哉可申聞候、以上、
     五月八日*11                                秀吉御朱印
          美濃守殿*12
『秀吉文書集二』1421号、162頁
 
(書き下し文)
 
わざわざ申し遣し候、よって先書に申し候ごとく、四国へ出馬のこと、来月三日いよいよ相極まり候、しからばその方のこと、半分人数召し連れ罷り立つべく候、船などのこと、堺を限り泉紀諸浦のこと、舟数書き立て、扶持方遣し、その方衆相越すべく候、堺へは此方より申し付け候あいだ、堺より南の船どもへばかり、扶持かた儀念を入るべく候、熊野衆はじめ堀内ことごとく残らず相立つべく候、陣用意の儀、いささかも油断あるべからず候、したがって普請衆のこと、陣前に支え候、早々相返すべく候、そのため染筆候なり、謹言、
  この朱印其方より遣すべく候、また普請のこといかほど出来候や申し聞くべく候、以上、
 
(大意)
 
 手紙をもって申し入れます。先日の書に認めましたように四国長宗我部攻めの日取りを来月三日に決めました。そなたは、軍勢の半分を連れて出陣してください。舟の徴発については堺を北限に和泉・紀伊両国諸浦にある舟数を書き出し、扶持方を浦々へ派遣し、そなたの軍勢を送ってください。堺にはこちらから命じますので、堺以南の舟の扶持方にのみ集中してください。熊野衆はじめ堀内氏善ら残らず出陣させ、準備万事怠りなきようにしてください。普請の者たちは陣屋の前に支えておりますので、早々に帰してください。そのため筆を執りました。謹言。
 
この朱印の趣旨そなたの家臣を遣わし、浦々へ告げ知らせてください。また普請はどのくらいまで済みましたでしょうか、お伺い申し上げます。
 
 
紀州制圧直後秀吉は秀長に和泉・紀伊両国を与えており、本文書に対し翌9日に以下の文書を秀長は「泉州紀州浦々中」へ発した。
 
 
 
[参考史料]
 
態申遣候、来月三日四国御馬*13を出され候、さかへ浦*14ゟこのはう*15の舟一そう*16も於隠ハ、後日成敗可仕候、舟かた*17扶持かた丈夫*18可申付候之間、来廿七日八日紀の湊*19まて諸舟こきよせ可申候也、 
   猶以此者*20為奉行遣候間、舟数しるし*21可申候、以上、
                        美濃守
  五月九日*22                   秀長花押
    泉州
    紀州浦々中
『大日本史料』第11編15冊、237~238頁
 
 
(書き下し文)
 
わざわざ申し遣し候、来月三日に四国御馬を出され候、堺浦よりこの方の舟一艘も隠すにおいては、後日に成敗仕るべく候、舟方・扶持方丈夫に申し付くべく候のあいだ、来たる廿七日八日紀の湊まで諸舟漕ぎ寄せ申すべく候なり、 
   なおもってこの者奉行として遣し候あいだ、舟数記し申すべく候、以上、
 
(大意)
 
書面をもって申し入れます。来月三日に四国攻めのため秀吉様が出馬されます。堺より南方において舟を一艘でも隠す者がいたら後日処罰します。舟方・扶持方しっかりと命じるので、来たる二十七、八日まで紀之湊まで舟を集めるようにしてください。
 
なお、この者を奉行として派遣しますので、舟数書き記すように。以上。
 
 
 

 

Fig. 和泉紀伊周辺図

 

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                   『日本歴史地名大系』和歌山県より作成

 

ともに写であるためところどころわかりにくいところがあるのが悔やまれる。

 

紀州を攻略した秀吉は次に四国の長宗我部攻めの準備に入った。

 

ここで太田城攻めで水没させた郷村の復旧が気になるところだが、史料には見えない。通常合戦に勝利した者は城はもちろん、村々を放火するなど破壊の限りを尽くすので誰も気にしないのかもしれない。

 

文書にあるように秀吉や秀長は四国攻めのために徴発する舟を確保するため「舟改」を行い、一艘たりとも隠し置くことのないように命じている。さながら「浦検地」というべきものである。

 

二通の文書を見る限り和泉・紀伊の豊臣大名に上りつめた秀長ではあるが、8日付の秀吉朱印の趣旨を、そのまま「泉州・紀州諸浦々中」へ下達しており自立性や主体性は感じられず、秀吉の下命を迅速に実現すべく奔走する、政権の吏僚的性格が濃厚である。

 

また両国「諸浦」への伝達ルートがすでに形成されていたところも見逃せない。さらに「扶持方」、「舟方」など現地で差配する機構も整いつつあったようだ。

 

 

 

 

*1:5月4日一柳直末宛書状に「よって長曽我部成敗のため来月三日四国にいたり出馬渡海候」(1418号)とあり、また同日付黒田孝高宛にもほぼ同文の書状(1417号)が発給されていることから、秀長にも発せられたと思われる

*2:摂津国住吉郡および和泉国大鳥郡

*3:和泉・紀伊両国

*4:海に面した郷村,「浦々」の意

*5:兵たちに与える米などを取り扱う役職、職務

*6:秀吉

*7:雑賀一揆を構成していいた国人

*8:氏善。紀伊新宮城主、図参照

*9:出城などを築く陣夫

*10:支え

*11:天正13年

*12:羽柴秀長

*13:秀吉の馬

*14:堺浦

*15:和泉・紀伊、つまり堺より南方

*16:

*17:舟数をとりまとめる役職

*18:確実に

*19:紀ノ川河口付近の湊

*20:この文書をもって告げ知らせた者、本文書は写なので原本に具体的な人名が記されていた可能性もある

*21:記し

*22:天正13年

天正13年4月22日羽柴秀吉仕置条目

 

 

 一、今度至泉州表出馬、千石堀*1其外諸城同時ニ責崩、悉刎首、則至根来・雑賀押寄処、一剋も不相踏*2、北散*3段無是非候*4、然者両国至土民百姓者、悉可刎首思食*5候へ共、以寛宥儀*6、地百姓儀者依免置、至其在〻如先〻立帰候事

一、太田村*7事、今度可抽忠節旨申上、無其詮*8、剰遠里近郷*9従者*10集置、往還成妨、或者荷物奪取、或者人足等*11殺候事、言語道断次第候条、後代為懲*12、太刀刀ニ及す、男女翼類*13ニいたるまて一人も不残、水責ニて可殺*14思食、築堤、既一両日内存命依相果、在〻悪逆東*15*16奴原撰出、切首、相残平百姓其外妻子已下可助命旨、歎*17候付、秀吉あはれミ*18をなし、免置候事

一、在〻*19百姓等、自今以後弓箭・鑓・鉄炮・腰刀等令停止訖、然上者鋤・鍬等農具を嗜、可専耕作者也、仍如件、

   天正十三年卯月廿二日 (朱印)

 

 

     (充所の記載なし)

  

『秀吉文書二』1413号、160頁
 
(書き下し文)
 
 

一、このたび泉州表にいたり出馬、千石堀そのほか諸城同時に責め崩し、ことごとく首を刎ね、すなわち根来・雑賀にいたり押し寄すところ、一剋も相踏まず、逃げ散る段是非なく候、しからば両国土民百姓にいたらば、ことごとく首を刎ぬるべしと思し食しそうらえども、寛宥の儀をもって、地百姓儀は免し置くにより、その在々にいたり先々のごとく立ち帰り候こと、

一、太田村のこと、このたび忠節をぬくべき旨申し上げ、その甲斐なく、あまつさえ遠里近郷いたずら者集め置き、往還妨げをなし、あるいは荷物奪い取り、あるいは人足など殺し候こと、言語道断の次第に候条、後代のいましめとして、太刀刀に及ず、男女翼類にいたるまで一人も残さず、水責めにて殺すべしと思し食し、堤を築き、すでに一両日内に存命相果つるにより、在々悪逆東梁奴原撰び出し、首を切り、相残る平百姓そのほか妻子已下助命すべき旨、歎き候について、秀吉憐れみをなし、免し置き候こと、

一、在々百姓ら、自今以後弓箭・鑓・鉄炮・腰刀など停止せしめおわんぬ、しかるうえは鋤・鍬など農具を嗜み、耕作を専らにすべきものなり、よってくだんのごとし、

 
(大意)
 
一、このたび和泉に出陣し、千石堀城その他の諸城を同時に攻め落とし、ことごとく首を刎ね、即座に根来・雑賀に押し寄せたところ、まったく抵抗せずに逃走したことは無理もないことである。よって和泉・紀伊両国の土民百姓についてことごとく首をはねるべしとお思いになったが、寛大な心をもって地百姓は赦免するので、それぞれもとの郷村へ帰ること。
一、太田村は今回忠節を尽くすべき旨上申してきたが、それどころか遠国近国あちらこちらからならず者を集め、通行を妨げ、あるいは荷物を奪い、あるいは人足などを殺害すること言語道断の極みである。後世の戒めとして斬り殺さず、ひとりも残さず男女異類にいたるまで溺死させるべしとお思いになり、堤を築き、一両日中にも死すべきところ、悪逆非道の首謀者を差し出し、首を切り、残る平百姓妻子を助命すべき旨申し出たので、秀吉の憐憫をもって赦免すること。
一、在々百姓は以後弓矢・鑓・鉄炮・腰刀などの所持を禁ずる。したがって鋤・鍬などの農具に親しみ、耕作に専念すべきこと。以上。
 
 

 

まず気づくのは自身に対して「思食」と自敬表現を用いたり、「寛宥の儀をもって」、「秀吉憐れみをなし」など撫民的表現が見られる点である。自身が天下人たるにふさわしいと確信したのだろう。自軍が圧倒的優位に戦ってきたことを述べる冒頭部分もいやらしい自信に満ちあふれている。

 

一条目では「土民百姓」=「地百姓」は赦免するのでそれぞれ帰村するように促している。

 

二条目では太田城に立て籠もった者たちは、みな城ごと水没させて人畜問わず溺死させるべきところ、首謀者の首を差し出し、「平百姓」とその妻子を助命して欲しいと歎願してきたのでそのようにすると述べている。なおこの記述から籠城した者に妻子が含まれていたことがうかがえる。一条目とあわせて、有力な在地土豪を排し、「地百姓」=「平百姓」のみからなる水平的な郷村の創出を企図したものといえよう。首を刎ねられた者は53名を数え、その妻たち23名が磔刑に処せられたという*20

 

三条目は百姓の武装や帯刀を禁じ、農具に親しみ農耕に専念せよと説くもので、のちの刀狩令の先駆的条文である。

 

以上の諸点から本文書は豊臣政権確立諸段階の一画期をなすものと位置づけられる。

 

一方イエズス会宣教師のルイス・フロイスは紀伊国について以下のように報告している。

 

 

堺の位置に接した和泉と称する小国があり、今日まで信長及びその継嗣に属していた。つぎに紀の国と称する他の国があり、ことごとく悪魔*21を尊崇する宗教に献ぜられていた*22。この国に四、五の宗派があり、おのおの一大共和国のごときもので、宗旨の古いため同国はつねに不可侵で、戦争によってほろぼすことあたわず、多数の巡礼が絶えず同地に赴いている。

この宗派または共和国のひとつは、高野と称し坊主約四、五千人が同所に居住している。

 

1585年10月1日付(天正13年閏8月8日)イエズス会総会長宛パードレ・ルイス・フロイス書翰、引用は『和歌山市史 第四巻』1222頁。句読点や旧仮名遣いは読みやすく多少改め、固有名詞に付されたローマ字は省略した。また註は引用者が施した。

 

 

 

 

なお、太田城の水没過程をシミュレートした和歌山大学紀州経済史文化史研究所の動画がわかりやすいので参照されたい。また本文書の写真も掲出されている。

 

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*1:和泉国泉/南郡。雑賀衆の出城

*2:少しも踏みとどまることなく

*3:ニゲチル

*4:当然のことである

*5:オボシメシ、お思いになる。秀吉自身への敬意を表している

*6:寛大な心をもって許すこと

*7:紀伊国名草郡、雑賀衆の根拠地太田城

*8:カイ、甲斐

*9:あちらこちらから

*10:イタズラモノ。ならず者の意で、その実態は「牢人」など傭兵であろう

*11:「中間」以下の非戦闘員

*12:イマシメ

*13:異類カ

*14:溺死させる

*15:

*16:首謀者、首領

*17:懇願する

*18:憐れみ

*19:郷村、村々

*20:『大日本史料』第11編26冊、437~438頁 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1126/supple/0438?m=all&s=0436&n=20

*21:イエズス会の立場からの呼称

*22:燈油料

天正13年4月10日高野山宛羽柴秀吉判物

 

、大師手印*1、一書面明鏡上者、如当知行高野山*2可為寺領事、

、高野山押領*3地於在之者、大師手印従当山被相破*4条、行〻者当山可為滅亡基条、可有其分別候事、

、寺僧*5行人*6、其外僧徒*7学文*8嗜無之、不謂武具鉄炮以下被拵置段、悪逆無道歟事

、大師如置目、寺僧行人已下心持被相嗜、可被専仏事勤行事

対天下成御敵謀叛悪逆人*9を寺中に被抱置事、不謂儀歟、道心者*10といふは、親をころし子を殺し*11、主之用にもたゝす*12、又者失面目、もとゆひ*13をきり、男もならざる輩*14、当山に在之事くるしかるましき候事、

比叡山*15・根来寺*16儀、天下へ依敵対申、終破滅眼前に相見候之条、爰を以可被分別*17候事、

、右条数如書面、当山衆徒行人已下於得心者、一〻*18請状*19可在之候、衆徒其外一統に於不被残*20心底者、当山相立*21候様、秀吉可馳走事、已上、

  天正拾参年四月十日                       秀吉(花押)

     高野山

『秀吉文書集二』1395号、156頁
 
(書き下し文)
 

一、大師手印、一書面明鏡のうえは、当知行のごとく高野山*22寺領たるべきこと、

一、高野山押領地これあるにおいては、大師手印当山より相破らるるの条、ゆくゆくは当山滅亡のもといたるべくの条、その分別あるべく候こと、

一、寺僧・行人、そのほか僧徒学文嗜みこれなく、謂われざる武具・鉄炮以下拵え置かるる段、悪逆無道かのこと、

一、大師置目のごとく、寺僧・行人已下心持ち相嗜なまれ、仏事・勤行を専らにせらるるべきこと、

一、天下に対し御敵なる謀叛悪逆人を寺中に抱え置かるること、謂われざる儀か、道心者というは、親を殺し子を殺し、主の用にも立たず、または面目を失い、元結いを切り、男もならさる輩、当山にこれあること苦しかるまじき候こと、

一、比叡山・根来寺の儀、天下へ敵対申すにより、ついに破滅眼前に相見え候の条、ここをもって分別せらるるべく候こと、

一、右条数書面のごとく、当山衆徒・行人已下得心においては、いちいち請状これあるべく候、衆徒・そのほか一統に残られず心底においては、当山相立ち候よう、秀吉馳走すべきこと、已上、

 

(大意)
 

一、空海手印縁起に寺領であることが明らかなので、当知行の通り高野山領として認めること。

一、高野山が押領した土地があるのなら、空海手印縁起をみずから破棄したことになるので、将来的には当山滅亡の原因となることは間違いないことである。よく考えるように。

一、寺僧・行人、そのほか僧徒が学問をおろそかにし、正当な理由のない武具・鉄炮などを蓄え置くことは、悪逆無道でないのか。

一、大師が定めた通り、寺僧・行人など精神を鍛錬し、仏事・勤行に専念すること。

一、天下に対し敵対する謀叛悪逆人を寺中に匿うことは不当ではないのか。道心者というのは、俗世と断絶した者たちであり、当山に抱え置くことは差支えないことである。

一、比叡山や根来寺は天下へ敵対したため、結局破滅のみちを辿ることになったので、この例に照らしてよく考えること。

一、右箇条の通りに、当山衆徒・行人など得心した者は、各自請状を差し出すように。衆徒・そのほかみな残らず心の底から請状を差し出したなら、当山の経営が成り立つよう、秀吉が奔走することを約束する。以上。

 

 
 
 
本文書に対する請書案文が「参考史料」である。上掲文書と対になっているのでくらべてみた方がより理解しやすくなる。
 
 
[参考史料]
 
(端裏書)
「当山右之御判*23御請之案文*24
  
     覚
、叡慮*25被仰上、大師如御手印被仰付、忝存候事、
大師御手印之外者、雖為当知行、於押領地者可被*26返上事
、寺僧・行人其外僧徒、武具・鉄炮已下、大師置目并今度相守御一書之旨、可被専仏事勤行事、
、対天下成御敵謀叛悪逆人事、自今以後、寺中相拘申間敷事、或親を殺し、子をころし、主之用にも不立、或者失面目、もとゆひを切、男も不立、真実於発道心輩者、如御条数当寺雖在之不及是非事、
、右御条数之旨、当山老若一統忝存候、然者至末代可奉守御置目之旨、自然相背此旨輩在之者、如何様雖被加御成敗、更不可存遺恨候、此等之趣、宜*27預御披露*28候、
   天正十三年四月十六日              法眼空雄
                           検校法印良運
    細井新介殿
『大日本史料』第11編14冊、410~411頁
 
(書き下し文)
 
(端裏書)
「当山右の御判御請の案文」
 
 
     覚
一、叡慮仰せ上げられ、大師御手印のごとく仰せ付けられ、かたじけなく存じ候こと、
一、大師御手印のほかは、当知行たるといえども、押領地においては返上いたすべきこと
一、寺僧・行人そのほか僧徒、武具・鉄炮已下、大師置目ならびにこのたび御一書の旨を相守り、仏事・勤行を専らに致すべきこと、
一、天下に対し御敵なる謀叛悪逆人のこと、自今以後、寺中相拘え申すまじきこと、あるいは親を殺し、子をころし、主の用にも立たず、あるいは面目を失い、元結いを切り、男も立たず、真実道心に発する輩においては、御条数のごとく当寺これあるといえども是非に及ばざること、
一、右御条数の旨、当山老若一統かたじけなく存じ候、しからば末代に至り御置目守り奉るべきの旨、自然この旨に相背く輩これあらば、いかようの御成敗加えらるるといえども、さらに遺恨に存ずべからず候、これらの趣、よろしく御披露に預かるべく候、
 
(大意)
 
    覚
一、叡慮により、空海手印縁起の趣旨通り命じられありがたく存じております。
一、空海手印縁起に拠らない土地は、当知行を行っていても押領地として返上いたします。
一、寺僧・行人その他の僧徒にいたるまで武具・鉄炮などの破棄、大師の定めおよび秀吉様の判物の趣旨を守り、仏事・勤行に専念いたします。
一、天下に敵対する者は今後寺中に匿いません。仏道に励む者は当寺にいても是非を問いません。
一、右箇条、当山老若みなありがたく承りました。末代にいたるまで判物の趣旨を遵守します。もしこれに背く者がいましたらいかなる御成敗を加えられてもけっして恨みには思いません。以上の趣旨、必ずやお誓い申し上げます。
 
 

 

両文書の箇条は以下のように対応している。 

  • ①・・・ⓐ
  • ②・・・ⓐ、ⓑ
  • ③、④・・・ⓒ
  • ⑤・・・ⓓ
  • ⑥・・・なし、⑥はいわば脅し文句なので請文にする必要はないので当然のことか。
  • ⑦・・・ⓔ

 

参考史料下線部に「当知行たるといえども押領地においては」とあるように「当知行」と「押領」は事実上同義である*29と高野山側は認識している。一方の秀吉は、「正当な」寺領のみを「当知行」と呼び、そうでない実効支配地を「押領地」と見做した。高野山側と秀吉側の「当知行」をめぐる認識のズレがこの請文に如実に表れている。

 

また僧は本来「仏事勤行を専ら」にし、「謂れのない武具や鉄炮」をたくわえることは「悪逆無道」ではないかと迫る。本文中の「大師置目」や「叡慮」といった文言から高野山の武装を本来の仏の教えに背き、天皇に弓引く行為であると難じているのだ。

 

秀吉は武力のみに頼ったわけでなく、仏道の「あるべき姿」を問うたり、「叡慮」つまり天皇の意思を体現するものとして高野山に決断を迫っており、政権の正統性をすでに獲得していた。

  

 Fig.高野山周辺図

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                   『日本歴史地名大系』和歌山県より作成

 

*1:寺領の正統性を主張する御手印縁起

*2:金剛峯寺、紀伊国伊都郡、図参照

*3:「押領」して支配が事実上続くと「当知行」状態になる。後述

*4:空海の手印の趣旨をみずから破り

*5:「高野三方」(「学侶方」・「行人方」・「聖方」)の「学侶」カ

*6:実務集団、僧兵の母体

*7:「聖方」カ

*8:学問

*9:「御敵」とあることから「天皇に敵対し」の意だが、もちろん秀吉に敵対する者たちのこと

*10:仏門に帰依した者

*11:親子の縁を絶つ

*12:奉公主の役に立たず

*13:髪の髻を束ねる紐

*14:「親を殺し」からここまで俗世との縁を絶った者の意か

*15:延暦寺、近江国志賀郡

*16:紀伊国那賀郡、図参照

*17:理非を弁えること

*18:めいめい、各自

*19:上位者の命に服する旨誓約する上申書。後掲「参考史料」参照

*20:もれなく

*21:面目をたもつ、立ち行く

*22:金剛峯寺、紀伊国伊都郡、図参照

*23:上掲秀吉判物のこと

*24:土代ともいう。下書きのこと

*25:天皇の意思

*26:致カ、以下同様

*27:再読文字、「よろしく・・・べし」

*28:文書を「披」き「露」わす。広く伝えること、上申すること

*29:より厳密には「当知行」は「押領地」と非「押領地」からなっている

天正13年4月5日生駒(甚介カ)宛羽柴秀吉朱印状

 

 

此表為音信、書状并道服*1一・熨斗鮑*2千本到来、祝着候、随両国*3事、無残所任平均*4候、然者雑賀一揆原*5逃後、紛味方路次之成妨者、所〻在之条、向後為懲*6候間、築堤水責*7ニさせ、一人も不漏可責殺*8調儀候、二三日之中ニ可落居候、尚委細細井*9可申候、謹言、

    卯月五日*10                           秀吉(朱印)

  生駒□□□*11

 

『秀吉文書集二』1391号、155頁
 
(書き下し文)
 
このおもて音信として、書状ならびに道服一・熨斗鮑千本到来し、祝着に候、したがって両国のこと、残るところなく平均に任せ候、しからば雑賀一揆ばら逃げ後れ、味方に紛れ路次の妨げなる者、所々これあるの条、向後懲らしめ候あいだ、堤を築き水責にさせ、一人も漏らさず責め殺すべき調儀に候、二三日のうちに落居すべく候、なお委細細井申すべく候、謹言、
 
(大意)
 
音信として書状、道服一つと熨斗鮑千本をお送り下さり実に満足しています。和泉・紀伊両国は残るところなく平定しました。逃げ遅れた雑賀一揆の者たちが味方に紛れ通行の妨げになる者があちこちにいるとのこと。今後は懲らしめるので堤を築き水攻めにして、一人も残らず地獄の責め苦を味合わせて殺すつもりでおります。 二三日中には落城するでしょう。詳細は細井方成が申し伝えます。謹言。
 

 

紀伊太田城を兵粮攻めから水攻めに方針転換したことを、生駒親正に伝えた朱印状であるが、書止文言が「謹言」であるなどところどころ書状のような言い回しも見られる。「秀吉(朱印)」の形式をとっているが、これはのち朱印のみに薄礼化する。

 

雑賀一揆衆の中から逃亡者が相次ぎ、味方に紛れて通行の妨げになっているので「一人も漏らさず責め殺すべき」と述べ、単に殺戮するのみならず、死ぬまで責め苦を与えるべしと、雑賀衆への秀吉の偽らざる心境を物語っている。

  

*1:公卿や大納言以上が着る上衣

*2:ノシアワビ。鮑の肉を薄くはぎ、引きのばして乾かしたもの。進物などに添えて贈った

*3:和泉・紀伊

*4:平らげる

*5:バラ、人をあらわす名詞の接尾辞で複数を表す。「殿原」を除きおもに相手を蔑むときに使う。e.g.「奴原」など

*6:コラシメ。「為」は使役の助動詞「しむ」で「為替」も「カワシ」→「カワセ」と返って読む

*7:現在では「水責め」といえば拷問を指し、城攻めの場合は「水攻め」をあてる。ここではもちろん後者のこと。「水攻め」には城内の水源を断つものと人工的に洪水を起こし城を孤立させるものの二つがある。一方前者の水責めは古今東西もっともポピュラーな拷問方法のひとつである

*8:責め苦を加えて殺す。「日葡辞書」

*9:方成、豊臣政権初期の奉行

*10:天正13年

*11:甚介殿カ。親正。当初に信長に、のち秀吉に仕える

天正13年3月27日前田玄以宛羽柴秀吉朱印状

 
 
   尚以菓子・扇、祝着候

為音信書状并菓子二折*1被越候、祝着候、仍此表事、先書委細申遣候つる、定可為参着候、泉州*2事者不及申、当国*3儀も無残所任存分候、既湯河館*4迄人数差遣候処、無行方逃散候、然者雑賀内*5ニ一揆張本人楯籠候間*6、為懲鹿垣*7を結廻、一人も不漏可干殺*8調儀候、其外地百姓*9等少〻助命、鉄炮・腰刀以下を取候て*10*11置所も在之事候、委曲様子源七郎*12見及候間、可物語候、次(闕字)禁裏様御作事*13無由断由尤候、尚追〻可申遣候、謹言、

   三月廿七日*14                            秀吉(朱印)

      民部卿法印*15

『秀吉文書集二』1367号、149頁
 
(書き下し文)
 
音信として書状ならびに菓子二折越され候、祝着に候、よってこの表のこと、先書委細申し遣わしそうらいつる、さだめて参着たるべく候、泉州のことは申すに及ばず、当国儀も残る所なく存分に任せ候、すでに湯河館まで人数差し遣わし候ところ、行き方なく逃げ散り候、しからば雑賀内に一揆張本人楯て籠もり候あいだ、懲らしめ鹿垣を結び廻わし、一人も漏らさず干殺すべき調儀に候、そのほか地百姓など少々命を助け、鉄炮・腰刀以下を取り候て免し置くところもこれあることに候、委曲様子源七郎見及び候あいだ、物語るべく候、次に禁裏様御作事由断なきよしもっともに候、なお追々申し遣わすべく候、謹言、
 
なおもって菓子・扇、祝着に候
 
(大意)
 
 ご挨拶として書状ならびに菓子二折りお送り下さりありがとうございます。こちらの戦況は先便にて詳しく申し遣わしました。お手許に届いていることでしょう。和泉国はもちろん、紀伊国もすべて平定しました。すでに湯川館まで軍勢を派遣したところ、敵兵たちは行き場もなく四散してしまいました。さて、雑賀に一揆の首謀者が立て籠もっているので懲らしめ、鹿垣を周囲にめぐらし、ひとりも残さず餓死させるつもりです。そのほか地元の百姓たちは少々助命し、鉄砲や腰刀などを没収して赦免するところもあります。詳しい様子は尾池定安が見ておりましたのでお話しすることでしょう。次に内裏の普請油断なく進めているとのこと、もっともなことです。なお後日また申し遣わします。謹んで申し上げました。
 
追伸、菓子と扇をお送り下さりありがとうございます。
 
 
 
Fig.紀伊国海部郡・名草郡関係図
 

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                   『日本歴史地名大系』和歌山県より作成
 
これに先立つ3月10日、秀吉は「平秀吉」として従二位内大臣に任じられ*16、「宇野主水日記」3月13日条に「羽柴秀吉公天下をしり*17たもうについて」*18とあるように、天下人としての地位を固めつつあった。
 
本文書は前田玄以の音信への礼状であるとともに、戦況報告でもある。雑賀衆の首謀者が太田城に立て籠もったので兵粮攻めにするつもりである旨したためている。周知のようにこの兵粮攻めは後日より大がかりな水攻めに変更される。興味深いのが下線部の「そのほか地百姓など少々命を助け、鉄炮・腰刀以下を取り候て免し置くところもこれあることに候」である。これは武装解除、いわゆる刀狩りを行い、一揆の指導的役割を担う在地土豪を排除しつつ、秀吉が「地百姓」*19と呼ぶ者らを耕作に専念させようとした措置である。
 
なお秀吉は、5月8日弟秀長に和泉・紀伊の二ヶ国を与え、秀長は閏8月小堀新介政次*20に紀伊国惣国検地を命じている。
  
秀長は3月22日、23日に根来・雑賀勢力の根拠地である積善寺城や澤城に立て籠もる者たちへ*21、また前野長泰・蜂須賀正勝は4月22日「太田郷二郎左衛門尉・惣中」宛に助命する旨起請文を書き送っている*22ところから硬軟織り交ぜた交渉を行っていたとみられる。さらに4月25日秀長は以下の書状を太田二郎左衛門に書き送り、開城後の城兵の安全を保証する旨約している。
 
 
 
 
しろより出候ものにたいし、少もむさふりこと*23申し候ハ者、せいはい可仕候間、このはうへめしとり、ひかせ申へく候也、
   四月廿五日                           美濃守(花押)*24
     太田二郎左衛門殿
上述『和歌山市史』589号、1208~1209頁
 
(書き下し文)
 
城より出で候者に対し、少しも貪りこと申しそうらわば、成敗仕るべく候あいだ、この方へ召し取り、引かせ申すべく候なり、
 
(大意)
 
城から出た者に対して、少しでも略奪や乱取などを行う者は成敗するので、こちらで捕らえ連行するものである。
 
 

  

*1:二箱。折箱に入れたものの単位。中身を折詰と呼び、鮨折、菓子折などと現在でも使う

*2:和泉国

*3:紀伊国

*4:紀伊国日高郡

*5:紀伊国海部郡=アマグン、図参照

*6:紀伊国名草郡太田城、図参照

*7:シシガキ。獣害を防ぐために田畠の周囲にめぐらせたバリケード。ここではそれを軍事転用した。現在は電流を流す方法が一般的

*8:ホシゴロシ、餓死させる

*9:在地有力者である「一揆張本人」=「地侍」に対する語

*10:刀狩り、武装解除

*11:ユルシ。通常「免」は旱損・水損・風損などによって荒廃した田畠の年貢を免除する意味があるが、ここでは単に助命する=秀吉への抵抗を大目にみるだけか、加えて戦禍で荒廃した田畠の年貢免除をも含意するのかの判断は留保しておく

*12:尾池清左衛門定安、前田玄以の家臣で検地などに携わる。慶長13年玄以の次男で丹波八上城主の前田重勝により殺害される

*13:普請

*14:天正13年

*15:前田玄以

*16:内大臣に任じられた秀吉は当然のことながら史料上では「内府」と呼ばれている

*17:知る、統治する。「知る」のこの意味でもっとも有名なのは、愛宕百韻における明智光秀の句「あめがしたしる五月かな」を「天が下知る」=「天下をとる」決意表明と解釈する例

*18:『和歌山市史 第四巻 古代・中世史料』1191頁

*19:4月22日「仕置条目」(1413号、160頁)では「平百姓」

*20:小堀遠江守政一/小堀遠州の父で、はじめ浅井氏の家臣、ついで秀長に仕える。検地帳など地方文書にも政次の名前が見える

*21:上述『和歌山市史 第四巻』566~567号、1194~1195頁

*22:上述『和歌山市史』585号、1207~1208頁

*23:略奪はもちろん乱取も含むと思われる

*24:羽柴秀長