急度令啓候、今日申刻、北条氏政・同陸奥守*1刎首差上候、然者出羽・奥州果迄置目*2等為申付、来廿日比*3至会津相移候、此由可有披露*4候、恐〻謹言、
七月十一日*5 秀吉(花押)
菊亭右大臣殿*6
勧修寺大納言殿*7
中山大納言殿*8
(四、3305号)
(書き下し文)
きっと啓せしめ候、今日申の刻、北条氏政・同じく陸奥守首を刎ね差し上げ候、しからば出羽・奥州の果てまで置目など申し付くため、来たる廿日頃会津にいたり相移り候、この由披露あるべく候、恐〻謹言、
(大意)
必ず申しあげます。本日申の刻、北条氏政・同氏照の首を刎ね京都に持参いたしました。つきましては出羽・陸奥の果てまで支配下に置くべく、来たる20日会津に陣を移しましたので、この旨ご報告申し上げます。恐〻謹言、
この文書と同文の仮名書きの3306号では「ひてよし(朱印)」とやや薄礼になっているが、それでも名前を記しているだけ厚礼である。
まず公家の家格を見ておこう。
Fig.1 堂上家一覧

清華家の菊亭(今出川)晴季*9は従一位右大臣、羽林家の中山親綱は正二位権大納言、名家の勧修寺晴豊は従三位権大納言まで上り詰めている。彼ら三名と秀吉の密接な関係が公家社会の階梯を上っていく手段だったのだろう。それが本文書によく現れている。ちなみに女優の久我美子は清華家にあたる久我家(こがけ)出身である。
この文書の特徴はまず「秀吉」と署名した上で花押を据えていることである。また充所の敬称も「殿」を最大限に崩した「とのへ」*10ではなく「殿」と書かれている。
Fig.2 充所の貴賤によるくずし方の度合い

同様にこの文書の文体は下線部のように「相移り」、「披露あるべく」という控えめなトーンに押さえられ、ふだんの尊大な「殿下」や「御動座」といった自敬表現が見られない。つまりこの文書はかなりの厚礼で貫かれている点で大名宛の文書と異なる。
ところで奈良興福寺の塔頭多聞院の英俊は7月26日の条に京都へ凱旋してきた秀吉軍について次のように記している。
一、小田原のさま、むざむざと*11落居し、氏直は家康へ駆け入り、まず別儀なく*12、①父の氏正*13・弟奥州の守*14は生害、すなわち盆以前に*15首二つ京へ上げ*16おわんぬ、偽者のように申し、今度猿楽衆*17上って必定必定云々*18、②関白殿ただ人にあらず*19、むざむざと*20天道*21にて落居と聞こえおわんぬ(中略)郡山の正二位大納言殿*22昨夕在京しおわんぬ、さて日本国六十余州嶋嶋まで一円ご存分に帰りおわんぬ*23、不思議不思議のことなり、③高麗・南蛮よりも御礼*24使い罷り越し、京・堺に逗留しおわんぬ、了らか*25に妙なる*26希代希代*27、
(『多聞院日記 四』248頁)
逐語訳的な解釈はここでは割愛するとして、①北条氏政と氏照の首が盆前に京都に「上げられた」こと、②秀吉が凡人ではないこと、そして興味深いのは③の朝鮮や南蛮からも御祝いの挨拶のために使者が送られたことである。すでに朝鮮と日本の間には対馬の宗氏を介して緊張が高まっていたにも関わらずである。
*1:八王子城主北条氏照
*2:法令や掟
*3:「頃」と同じ
*4:報告すること、上申すること
*5:天正18年、グレゴリオ暦1590年8月10日、ユリウス暦同年7月31日
*6:今出川晴季。清華家の出身で従一位右大臣にまで上り詰める。秀吉と懇意で関白任官の斡旋を務めるなどした。のち秀次事件に連座して失脚
*7:晴豊。名家の出身で従一位准大臣にまで上り詰める
*8:親綱。羽林家の出身で正二位権大納言
*9:秀吉に関白任官を持ちかけて、調停との調整役を務めた
*10:翻刻する際「とのへ」とするがこれは仮名書きではなく「殿」を崩すと「とのへ」になり、薄礼であることを意味する。図2参照
*11:無念に思うさま
*12:命に別状はなかった
*13:ママ
*14:氏照
*15:旧暦7月13~15日くらいより前に
*16:都へ物を持ち運ぶことを「上げる」という
*17:芸能集団。移動が比較的自由だったこともあり戦国大名と強く結びつき諜報活動を行う者もいた
*18:情報提供者であったことを示している
*19:凡人ではない
*20:無分別に
*21:天の道理、自然の理
*22:秀長
*23:天下統一がなった
*24:贈答品に対する返礼品ではなく、「あいさつ」の意
*25:明らか
*26:人知を超えた
*27:世にも稀な


















