日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

年未詳(天正3~6年カ)8月13日大住庄名主百姓中宛羽柴秀吉書状写

 

今度南又大郎申者、当庄御代官*1之儀雖望申候、無御許容候、就其百姓等少々彼者令一味、構無所存*2之旨*3、言語道断之次第候、此御領之儀者、我等御朱印*4御取次申、連々不存疎略*5間、奉対此(闕字)御所様*6へ、少も於不相届輩者、急度申上、可加成敗候、恐〻謹言、
                            羽柴筑前守
    八月十三日*7                     秀吉(花押影)
     大住*8
       名主百姓中

『秀吉文書集』一、910号、289頁

 

(書き下し文)

 

このたび南又大郎と申す者、当庄御代官の儀望み申し候といえども、御許容なく候、それについて百姓ら少々彼の者一味せしめ、無所存を構うるの旨、言語道断の次第に候、この御領の儀は、我等御朱印御取り次ぎ申し、連々疎略存ぜざるあいだ、この御所様へ対し奉り、少しも相届かざる輩においては、きっと申し上げ、成敗を加うべく候、恐〻謹言、

 

(大意)

 

 このたび南又太郎という者が、大住庄代官職を望んだものの、お許しがありませんでした。その件で百姓のうち南に荷担し、不届きな態度をとるとは言語道断の所業です。この大住庄はわれわれが信長様の朱印状発給を取り次ぎ、等閑にもしませんでしたので、曇華院さまへ対し不届きな者は罪科に処します。謹んで申し上げました。

 

 

 

 Fig. 山城国綴喜郡大住庄周辺図

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                   『日本歴史地名大系』京都府より作成

 秀吉が筑前守に任官したのは天正3年7月3日なので、8月13日付本文書の上限は同3年となる。

 

奥野高廣『増補版織田信長文書の研究』は「天正3年ころであろう」(上巻、475頁)とする。また信長の三男神戸信孝は天正10年8月7日曇華院雑掌に充てて「守護使不入の地として一円御直務たるべきの旨朱印これあるうえ、向後なおもっていささかも相違あるべからず」と安堵する旨申し渡しており*9、また信長の死後ではなさそうなので天正9年までは絞ることができる。

 

しかし同6年まで狭めることは今回もできなかった。

 

本文書は、南又太郎という者が代官職を望んだものの許されず、これにより大住庄内の名主百姓を分派行動に走らせたとして、秀吉がそれを責めたてているという内容である。具体的には曇華院に対して年貢諸役を未進する者があらわれたということである。

 

永禄12年以降、信長、その命を受けた秀吉・武井夕庵らは大住庄の曇華院支配がつつがなく行われるようたびたび名主百姓に申し伝えている。代官職をめぐる争いがすなわち年貢納入先の争いに直結することは、元亀1年(=永禄13年)10月17日武井夕庵書状に「少しも他納においては二重成たるべく候*10*11とあるとおりである。年貢納入先がよそに移れば荘園支配は機能不全となる。いくら朱印状を帯びていても意味はない。

 

逆に言えば信長の朱印状を引き出したところで、在地の名主百姓たちに効き目はなく、何度も催促せねばならなかったということである。

 

最後に「二重成」を東京大学史料編纂所「古文書フルテキストデータベース」で検索した結果を掲げておく。いかにも「戦国期」らしい。とくにNo.8の天文4年7月23日『大徳寺文書之六』216頁は興味深いので一部を引用しよう。

 

 

先度奉書なさるるといえども、寺納致さず、あまつさえ敵へ半分納所せしむるのよし申すと云々、言語道断の次第なり、所詮その段二重成たるべく候

 

 

室町将軍家奉書をもってしても寺納せず、あろうことか敵方へ半分納めているという主張は言語道断であり、結局のところ「二重成」とする、と「当所名主百姓」に命じている点は本文書と通じるところがある。

 

現代の感覚では「多重課税」は負担が重いというニュアンスで使い*12徴税側の用語ではないが、戦国期はむしろ徴税する側が「二重取りするぞ」という脅し文句として使っていたことも興味深い。

 

Table. 「二重成」

No 和暦年月日 本文 史料群名 文書番号 巻/頁
1 応永廿九年十一月十八日 加呵責、若雖一粒有散者、可為二重成、重可有其沙汰之由、可被仰百 東百を 132 6/159
2 (享徳二年頃)霜月廿一日 ○コノ文書、遠江国蒲御厨ニ関スルモノ、『大日本古文書東大寺文 東大図未 1944 23/46
3 [文明九年]二月五日 、所詮、於ξ令先納分者、可為二重成之上者、彼是悉以不日可致其沙 蜷川 Jan-90 1/161
4 [文明九年二月五日] 案一同前ーーー為事実者、可為二重成之上者、云彼云此、堅入譴責使 蜷川 Feb-90 1/162
5 延徳四年八月十一日 対河瀬梅千代致其沙汰者、可為二重成之由、所被仰出也、仍執達如件 大徳寺 2356 7/122
6 享禄四年十二月廿一日 、万一何方へも於納所者、可為二重成候、恐々謹言、市原石見守享禄 大徳寺 2211 6/235
7 (天文二年?)七月十二日 成共、不及注進於作物者、可為二重成候、此由堅可申旨候、恐々謹言 大徳寺 2217 6/239
8 (天文四年?)七月廿三日 言語道断次第也、所詮其段可為二重成候、次高畠与十郎方可納所之由 大徳寺 Nov-94 6/216
9 天文八年九月五日 可致沙汰、若猶至他納者、可為二重成者也、仍状如件、天文八九月十 大徳寺 1147 3/51
10 自天文十年至天文十三年 ニ百三十五文、観世小二郎方へ二重成ノ分ト云々、此内五十文引之、 醍醐寺 937 5月18日
11 天文十五年十月十一日 令納所候、万一於他納者、可為二重成者也、穴堅々々、天文十五十月 東百れ 118 17/38
12 天文十六年七月廿八日 重可令寺納、若於他納者、可為二重成候也、謹言、天文十六未七月廿 大徳寺 2251 6/267
13 天文十六年九月二十二日 之、雖為少分、於他納者、可為二重成之由、所被仰出之状如件、天文 鹿王院 578 1/219
14 天文十八年七月七日 可致其沙汰、若於他納者、可為二重成之由候也、仍状如件、天文十八 大徳寺 2262 6/275
15 天文十八年九月十四日 致其沙汰候、若於他納者、可為二重成之由候也、仍状如件、天文十八 大徳寺 Feb-01 6/230
16 (天文十八年)十二月十七日 々可納所候、若於他納者、可為二重成者也、謹言、十二月十七日芥河 鹿王院 591 1/224
17 (天文十九年)十月五日 体可申付候、万一於他納者可為二重成候、恐々謹言、拾月五日十河一 鹿王院 605 1/228
18 天文二十一年十一月十日 押置候条堅可相拘、若於他納者二重成上可被処其科之由、所被仰出之 鹿王院 627 1/236
19 [永禄八年]十月十七日 可有納所候、若於他納者、可為二重成候、恐々謹言、乙丑十月十七日 大徳真珠 914-080 7/78
20 [永禄九年]十月朔日 目可申分候間、不可有別儀候、二重成無之様分別肝要候、委者定使可 大徳寺 2744 11/57
21 永禄十年四月 物可為二重成、新儀之輩縦雖催促、拘置可致 六角氏式目 1 3/259
22 [永禄十一年]十月九日 、可令納所、若於他納者、可為二重成者也、仍折紙如件、和田伊賀守 醍醐寺 3671 16/115
23 永禄11年10月13日 等、堅可相拘候、若於他納者、二重成之上、可被加御成敗之由、所被 信長文書 0126-1 01/216
24 永禄12年9月16日 以折帋令申候、於他納者、可為二重成候、恐々、九月十六日牧郷名主 信長文書 198 01/322
25 永禄12年10月17日 付候条、得其意於他納者、可為二重成候、恐々謹言、中村隼人佐十月 信長文書 0178-1 01/296
26 永禄12年11月4日 堅可相拘候、若於他納者、可為二重成者也、謹言、佐久間十一月四日 信長文書 10076 03/76
27 永禄12年12月27日 納所専用候、若於他納者、可為二重成候、謹言、十二月廿七日西九条 信長文書 207 01/340
28 元亀1年10月17日 被拘置候、少も於他納者、可為二重成候、我等御使之事候間、為届令 信長文書 219 01/365
29 元亀2年7月20日 候、御年貢之事於他納ハ、可為二重成候、恐々謹言、 信長文書 0290-1 01/472
30 (安土桃山期)2月2日 可有注進候、無其答於他納者、二重成たるべく候、可被存知候、恐々 信長文書 0206-2 01/337
31 (安土桃山期)9月29日 先々可令納所、若於他納者可為二重成者也、仍折紙状如件、長岡九月 信長文書 0375-3 01/646
32 (年未詳)五月十日 為伊勢守殿・筑州御催促候而、二重成□候之由、何も此分返事申候間 蜷川 716 3/243
33 (年未詳)七月十四日 相拘、若率爾ニ令納所者、可爲二重成候也、謹言、七月十四日長隆( 大徳真珠 3月20日 1/96
34 (年未詳)七月廿日 相拘候、彼方ヘ於納所者、可爲二重成候也、謹言、 大徳真珠 4月20日 1/96
35 (年未詳)七月廿三日 言語道断次第也、所詮其段可為二重成候、次高畠与十郎方可納所由折 大徳寺 Nov-95 6/224
36 (年未詳)8月27日 諸公事并切符以於相違者、可為二重成之由、被仰出候也、恐々謹言、 信長文書 1102 02/812
37 (年未詳)九月廿六日 、本所へ沙汰被申候ては、可為二重成候、自南都被申子細候間、可被 蜷川 242 2月11日
38 (年未詳)十月十七日 度可納所候、若於他納者、可為二重成候、恐々謹言、十月十七日柳本 大徳真珠 480 4/263
39 (年未詳)十二月九日 え可納所之、若於他納者、可為二重成者也、仍折紙如件、十二月九日 大徳寺 763 2/119
40 過霜月者、田地可召放、然者、二重成一切不可被仰付事、但、於有当 武家家法Ⅱ 419 4/254

 

*1:大住庄の代官職、「御」は曇華院に対する敬意

*2:ブショゾン、考えの正しくないこと・不心得。ここでは年貢の未進

*3:大住庄百姓たちが南に与同し、年貢所当を納めないこと

*4:永禄12年4月20日曇華院宛織田信長朱印状、奥野171号

*5:曇華院への年貢諸役の納入が滞らないようにつとめた

*6:曇華院住持を「御所様」と呼ぶ例はたとえば永正8年「曇華院みやうちん奉書」に見られる(『大日本古文書 大徳寺文書之七』2377号)。後奈良天皇の皇女にして足利義輝の猶子聖秀女王が入室している

*7:天正3~6年カ

*8:山城国綴喜郡

*9:『大日本史料』第11編2巻、226頁

*10:よそへ年貢を納入したらこちらにももう一度納めるように命ずる

*11:奥野219号

*12:ガソリン税を含む価格全体に消費税が課税されるなど

年未詳(元亀1~天正3年カ)6月26日南禅寺評定衆侍衣閣下宛羽柴秀吉書状写

 
   尚以御寺領之義*1*2ニ申遣候条、可被思御心安、相替義候ハヽ可被仰下候、聊不可存疎意候、以上、

如尊意*3其以来不申通*4、無為*5御音信*6御使僧*7并ニ薄板*8如御札*9拝領仕候、御懇慮*10之至候、仍貴寺諸塔頭領*11粟田口*12之内ニ在之分、明知十兵衛*13方押領之由被仰越候、則申遣*14候、定不可有別条候哉、猶御使僧へ申渡候、可得尊意候、恐惶敬白、    

    六月廿六日*15                  秀吉(花押影)   

   南禅寺*16評定衆*17     

       侍衣閣下*18 貴報*19

『秀吉文書集』一、901号、287頁
 
(書き下し文)
 
尊意のごとくそれ以来申し通ぜず、無為に御音信・御使僧ならびに薄板御札のごとく拝領つかまつり候、御懇慮のいたりに候、よって貴寺諸塔頭領粟田口のうちにこれあるぶん、明知十兵衛方押領のよし仰せ越され候、すなわち申し遣わし候、さだめて別条あるべからず候や、なお御使僧へ申し渡し候、尊意をうべく候、恐惶敬白、
 
なおもって御寺領の義懇ろに申し遣わし候条、御心安く思さるべく、相替わる義そうらわば仰せ下さるべく候、いささかも疎意に存ずべからず候、以上、
 
(大意)
 
おっしゃるようにあれ以来すっかりご無沙汰しておりますが、無事にお手紙および薄板をご使僧よりたしかに拝受しました。大変なご厚意に存じます。さて貴寺諸塔頭の荘園のうち粟田口の分を明智光秀が押領しているとのこと。早速光秀に押領をやめるよう申し伝えます。決して問題なく収まることでしょうとご使僧にお伝えしましたのでお含み置きください。謹んで申し上げました。
 
追伸。貴寺荘園の件親身に光秀に申し伝えますので、ご安心ください。何かございましたら、おっしゃってください。決して等閑には致しません。以上です。
 
 

 

Fig. 南禅寺・粟田口周辺図     

  

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                   『日本歴史地名大系』京都府より作成

粟田口は、死後本能寺で首が晒されたあと、胴体とつなげられ磔にされた*20明智光秀終焉の地としても知られる。

 

光秀が「惟任」の名字を与えられ、日向守に任官したのは天正3年7月である。よって6月26日付で「明知十兵衛」の名が見える本文書の下限は天正3年となる。もちろんそれらが周知のこととなるには時間を要するが、写といえ他でもない秀吉発給の文書であり、相手は京都近郊の名門寺院である。さすがにそこまで考慮する必要はないだろう。

 

一方上限については、光秀が諸権門領を押領しはじめる元亀1年くらいから*21、といったところだろうか。残念ながら当ブログでは上限の確定は今回もできなかった。

  

 

*1:明智光秀が寺領を押領していること

*2:親しく、熱心に

*3:あなた様のご意思、手紙の文面

*4:あの時以来ご無沙汰をしております

*5:ブイ。無事であること、平穏なさま

*6:インシン。便りや贈答品、賄賂

*7:使者となる僧

*8:平絹類の総称

*9:ギョサツ、お手紙

*10:ご厚意

*11:「貴寺」は南禅寺、「諸塔頭」は南禅寺に属する「院」・「庵」と呼ばれる小寺院。その諸「塔頭」の荘園が「諸塔頭領」

*12:東海道・東山道と京都の出入口。図参照

*13:明智光秀

*14:「言って遣る」の謙譲語

*15:元亀1~天正3年カ

*16:山城国、図参照

*17:南禅寺の意思決定を行う合議体

*18:僧侶へ送る書状の脇付。なお「閣下」はもともと「高殿の下」という建物を指す意味

*19:この手紙が返書であるという意味

*20:『大日本史料』第11編1巻、天正10年6月17日条。「言経卿記」、「兼見卿記」、「多聞院日記」、「華頂要略」など

*21:年未詳「山城国久世上下庄年貢米公事銭等注文」東寺百合文書「へ」函/225

年未詳(元亀元年~4年カ)6月26日上京武者少路百姓中宛木下秀吉判物

 
   猶以安楽光院*1数十年当知行*2之儀候間、誰〻違乱候共、不可有相違候、以上、

当地子*3之儀ニ付、自各*4折紙被付*5と之由候、則彼方へ以折紙申*6候、定不可有異儀候哉、御代〻御下知并朱印*7分明*8之儀候間、如前〻*9彼院*10へ可納所候也、

 

               木下藤吉郎 
   六月廿六日*11                     秀吉(花押)      

                         

  上京*12

   武者少路*13

     百姓中

『秀吉文書集』一、900号、286頁

 

 (書き下し文)

 

当地子の儀について、おのおのより折紙付けらるるのよしに候、すなわち彼の方へ折紙をもって申し候、さだめて異儀あるべからず候や、御代〻御下知ならびに朱印分明の儀に候あいだ、前〻のごとく彼の院へ納所すべく候なり、

 

なおもって安楽光院数十年当知行の儀に候あいだ、誰〻違乱候とも、相違あるべからず候、以上、

 

(大意)

 

 武者小路の地子について、あなた方は根拠となる文書をお持ちとのこと。そこでこちらも安楽光院へ文書にて申し伝えたので、きっとそなたたちが異議を差し挟むことはないだろう。代々の御下知ならびに信長よりの朱印状で明白なので、以前の通り安楽光院へ地子を納めるように。

 

なお、安楽光院が当地を数十年にわたって当知行していることは明らかであるので、誰が横合いから異議を申し立ててもこの決定の通りにしなさい。以上。

 

 

 

Fig. 武者少路・安楽光院位置略図

 

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                    『国史大辞典』「組町」より作成


 織田信長は元亀4年7月上京を焼き払ったのち地子銭を免除する旨の朱印状を発給しているので*14、6月26日付で地子を以前の通り納めるべき旨を伝えた本文書の下限は元亀4年となる。上限の推定については考えが及ばなかった。

 

武者小路の位置は上図の通りで、京十四町組を構成する「町」(チョウ)であった。

 

武者小路を誰が支配しているのかという問題は常磐井宮家の断絶や寺院名の変遷、混乱もあって明確にできない点が多いが、武者小路の「百姓」が事を構えて地子銭を納めない状況が続いていたことを示す室町幕府奉行人連署状が発給されている*15

 

ここで彼らが「百姓」と呼ばれている点は注意したいが、一方で「組町」の構成員として惣有財産を持ち、寄合に関する決まりを定め、「月行事」(ガチギョウジ)という当番制にしたがって申し送りをしていたことも確認できる。

 

 

 本文書では武者小路百姓らが「おのおのより折紙付けらるるのよしに候」とあるように主張の拠り所を文書=「折紙」に求めたことに対し、秀吉も「すなわち彼の方へ折紙をもって申し候」と新たに文書=「折紙」を発給し、「さだめて異儀あるべからず候や」=「これで文句はないだろう」としたり顔でやり込めているところが興味深い。

 

 

*1:持明院の仏堂、図参照。なお「安楽行院」の前身とする説とそれを誤りとする説が辞典類では解消されていない

*2:現実に支配していること

*3:地代

*4:あなた方、武者小路百姓中のこと

*5:根拠となる文書=折紙がある

*6:文書=折紙を発給する

*7:「御代〻御下知」は室町幕府代々の下知、「朱印」は信長発給の朱印状

*8:明白なこと、疑う余地がないこと

*9:「前〻の如く」は「御代〻」を受けている

*10:安楽光院

*11:元亀1~4年

*12:山城国

*13:図参照

*14:元亀4年7月「京都上京宛朱印状」、奥野378号

*15:『大日本史料』第10編1巻、永禄11年12月29日条。同10編4巻、元亀1年6月19日条

年未詳(元亀2~4年カ)山城賀茂惣中宛木下秀吉書状

 

   猶以何かと申候者*1、此方へ可承*2候、何様*3之儀も自我等不申候、不可有同心*4候、此外なし、

其在所*5へ被遣候御下知御朱印之事*6、可被相改*7之儀者、曽以*8無之候、可有其意得候、誰々何かと申候共、不可有許容候、恐〻謹言、

                              木藤

     三月十一日*9                     秀吉(花押)

    山城

     賀茂惣中*10

『秀吉文書集』一、879号、280頁
 
(書き下し文)
 
その在所へ遣わされ候御下知・御朱印のこと、相改めらるるべきの儀は、かつてもってこれなく候、その意を得あるべく候、誰々何かと申し候とも、許容あるべからず候、恐〻謹言、
 
なおもって何かと申し候者、この方へ承るべく候、何様の儀も我等より申さず候、同心あるべからず候、この外なし、
 
(大意)
 
賀茂六郷へ下された徳政を免除するという信長様のご命令・御朱印の趣旨を、お改めになるなどということは決してあり得ません。その旨よくご承知おきください。何処の誰がなんと言おうと認められません。謹んで申し上げました。
 
重ねて申し上げます。なにかと難癖をいう者はこちらで話を承ります。こちらからは一切申しませんので、同意されぬようにしてください。以上の通りです。
 

 

 Fig.1 山城国愛宕郡賀茂六郷概略図

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                    『国史大辞典』「賀茂六郷」より作成

  Fig.2 山城国愛宕郡賀茂六郷地形図

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                   『日本歴史地名大系』京都府より作成


 

元亀1年10月4日、京都周辺で徳政を求める一揆が起こり室町幕府は徳政令を出した。しかし個別の寺社などにはこれを適用しない「徳政免除」という「特権」を与える一貫しない態度をとった。織田信長もこれに歩調を合わせ賀茂六郷の債権者に対して「徳政免除」の下知や朱印状を発するものの、徳政を求める一揆も頻発したので、免除を徹底するよう再三にわたり促している。秀吉は信長の「取次」として、直接書状を発した。これが本文書である。

 

この書状は「誰々何かと申し候とも、許容あるべからず候」、「何様の儀も我等より申さず候、同心あるべからず候」と債権者たちに秀吉がくどくどと釘を刺しているように、徳政を求める一揆にうっかり同意してしまいかねないさまを物語っている。同意してしまえば信長の朱印状は反故となり、その権威は地に落ちる。秀吉は在地のこうした現状に対し「何かと申し候者、この方へ承るべく候」とあるように、一揆勢と秀吉が直接相対するように書き送り、権威の失墜を防ぐべく奔走したのである。

 

裏を返すと一揆勢は債権者たちが妥協してしまいかねないほどの「交渉力」を獲得しつつあったということになる。こうした在地の状況と秀吉の焦りが滲み出ている書状といえよう。

 

*1:徳政を要求する者

*2:引き請ける、話を聞く

*3:ナニヨウ、どのようなこと。ここでは徳政を認めること

*4:同意すること

*5:山城国愛宕郡賀茂六郷、図参照

*6:織田信長の下知、朱印状。元亀1年11月日織田信長朱印状写、奥野文書集262号。同11月25日木下秀吉副状、秀吉文書集34号。元亀3年4月日織田信長朱印状写、奥野319号<当郷は徳政免許であるにもかかわらず、一揆を構え徳政を催促する者があとを絶たないのは言語道断である。譴責使を派遣し取り立てよ。なお秀吉に命じている>

*7:様を変える、趣旨を変更する

*8:カツテモッテ、まったく・・・ない

*9:元亀2~4年カ

*10:上掲信長朱印状写の充所が「賀茂銭主・同惣中」とあることから、「賀茂惣中」は「銭主」、つまり債権者となり得る経済力を持つものと思われる。もちろん「惣中」を構成するからすなわち財力もある、というほど単純ではないだろうが

年未詳(天正2~3年カ)3月3日石田外百姓中宛羽柴秀吉判物

第一巻の、年代が確定している文書をあらかた読みおえたので、巻末に収載されている年代未詳のものをしばらく読むこととする。年代未詳とはいうものの、本巻「永禄8年~天正11年」と推定されるものであるし、さらに二三年に絞られる場合もある。ただし収載順、すなわち文書番号が月日順なので年代が前後してしまう、その点了承されたい。なお文書番号は枝番などを含まない全巻通し番号、シリアルナンバーである。

 

 

 

当郷不作地開発之こ*1めに上免として半分之通指置候、可得其意者也、

                    羽柴藤吉郎

   三月三日*2                秀吉(花押)

       石田

       七条  百姓中

       八条

       今川

                         

 『秀吉文書集』一、876号、279頁

 

(書き下し文)

 

当郷不作地について開発のために上免として半分の通り指し置き候、その意を得べきものなり、

 

(大意)

 

 当郷不作の土地について開発のため「上免」として例年の半分に年貢率を差し置くこととする。その旨あらかじめ含んでおくこと。

 

 

石田郷については野洲郡に比定する場合もあるが、他の三ヶ村が坂田郡であることからここでは坂田郡とした。石田三成の出身地としても知られる。

 

Fig. 近江国坂田郡石田・七条・八条・今川周辺図

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                   『日本歴史地名大系』「滋賀県」より作成

 

ここまで「石田郷」、「他の三ヶ村」と記してきたが、このこと自体検討を要する問題である。というのも下線部の「当郷」が「石田」などの四ヶ郷を意味するのか、「石田」など四ヶ村をもって「当郷」という意味なのか、充所に「郷」や「村」などと書かれていないため判然としないからである。これ以上は本文書からわかりかねるので指摘するにとどめておこう。

 

また「上免」の意味だが、「アガリメン」と呼ぶ場合年貢率を上げる意味で使うので「不作地」、「開発のため」、「指し置く」*3という文脈上不自然である。また「ジョウメン」すなわち「定免」とも考えられるが、よく知られる定免法とは意味が異なるようである。水本邦彦氏は「免」について次のように述べている。

 

 

(前略)

〈免〉は近世においては領主取分(年貢)を指して用いられたが,これは免じるという本来的意味からすれば逆転した用法である。現在までの報告によれば,こうした逆転的用法はおおむね慶長・元和期(1596-1624)に始まるとされており,それ以前にあっては,免は本来の意味で用いられていた

(中略)

たとえば〈惣国免相少もおろし申まじ〉(加藤秀好・山上長秀連署折紙,1569(永禄12))とか,〈代官にみせずかりとる田は,めんの儀つかはし申ましき事〉(石田三成村掟条々,1596(慶長1))などにも,その用法を見ることができる。地方*4においても,和泉国日根郡佐野浦人は1603年分の〈公儀之物成〉を村高マイナス免の数式*5で算出しており,16年の同郡熊取谷村〈算用状〉も同様の方法をとっている。ちなみに,03年刊行の《日葡辞書》には,〈Menuo cô(免を請ふ).農民が主君に対して,すでにほかの人によって評価決定した土地の年貢の幾分かを免除してくれるようにと頼む〉〈Menuo yaru(免をやる).たとえば,十納めなければならなかったとすれば,その二を免じて八を納めさせるというように,免除してやる〉とある。なぜ慶長・元和期に免の意が逆転したのかということについてはいまだ不明確であって,研究上では,むしろ近世初頭における免の本来的用法に着目して,太閤検地の石高を標準収穫高とする通説批判が行われている段階にある。つまり〈めんの儀つかはし申ましき事〉などの用法は,石高=標準年貢高を暗示しているというのである

(後略)

水本邦彦「免」『世界大百科事典』JapanKnowledge版、ゴシック体による強調は引用者

 

 

 

「上免」の「上」は上中下など格付けの可能性もあるが今後の課題とする。さしあたり本文書の「免」が水本氏のいう「本来的用法」である「年貢を免除する」ということのみ確認しておきたい。

 

 

*1:たカ

*2:天正2~3年カ

*3:「除く」、「そのままにしておく」。つまり年貢徴収のための算用から除く/に含めない

*4:ジカタ。当ブログで多用する「在地」とほぼ同義。引用者註、以下同じ

*5:年貢=村高-「免」、つまり「免」=村高-年貢。よって「免」が在地に残された、領主から「免除された」石高を意味する