日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正14年12月3日片倉景綱宛豊臣秀吉判物および多賀谷重経宛同判物写(惣無事令)

  

 

対富田左近将監*1書状披見候、関東惣無事之儀今度家康*2ニ被仰付候之条、其段可相達候、若相背族於有之者可加成敗候間、可得其意候也、

  十二月三日*3(花押)

     片倉小十郎とのへ*4

 

(三、2036号)

 

対石田治部少輔*5書状遂披見候、関東・奥両国*6迄惣無事之儀今度家康ニ被仰付条、不可有異儀候、若於違背族者可令成敗候、猶治部少輔可申候也、

  十二月三日*7(花押影)

     多賀谷修理進とのへ*8

(三、2038号)
 
(書き下し文)
 
富田左近将監に対する書状披見候、関東惣無事の儀このたび家康に仰せ付けられ候の条、その段相達すべく候、もし相背く族これあるにおいては成敗を加うべく候あいだ、その意をうべく候なり、
 
 
石田治部少輔に対する書状披見を遂げ候、関東・奥両国まで惣無事の儀このたび家康に仰せ付けらるの条、異儀あるべからず候、もし違背の族においては成敗せしむべく候、なお治部少輔申すべく候なり、
 
 
(大意)
 
富田一白への書状拝読しました。関東惣無事の件はこのたび家康に命じましたのでその旨伝えます。もしこれに背く者があれば成敗しますのでお含み置きください。
 
石田三成への書状拝読しました。関東・奥羽両国まで惣無事とする旨家康に命じましたので、これに反するようなことはしないように。もしこれに背いた者は成敗します。詳しくは三成が申します。
 
 

   

藤木久志氏は同日付の白土右馬助宛判物を加え、これらを「惣無事令」と呼んだ*9。惣無事令とは何か、氏自身の言葉を引用しよう。

 

  

豊臣政権による職権的な広域平和令であり、戦国の大名領主間の交戦から百姓間の喧嘩刃傷にわたる諸階層の中世的な自力救済権の行使を体制的に否定し、豊臣政権による領土高権の掌握をふくむ紛争解決のための最終的裁判権の独占を以てこれに代置し、軍事的集中と行使を公儀の平和の強制と平和侵害の回復の目的にのみ限定しようとする政策の一端をになうものであった。このような政策を、わたくしは仮に惣無事令と名づけて、豊臣政権の全国統一の特質を平和令の視角から体系的に追究してみようとしている

 (同上書38頁、ゴシック体による強調は引用者)

 

ただこれら三点の文書を藤木氏は天正15年に比定している。さらに「惣無事令」という呼称が適切か否かはいまだ決着を見ていない。本文書集では14年としている。

 

家康に関東や奥羽の惣無事を施行するように命じたのでこれに背くことのないようにとの趣旨である。惣無事に背く行為とは秀吉が公認しない戦争=私戦を行う行為であり、違反者として代表的なのは伊達政宗だろう。のち政宗が秀吉に臣従した際、この「私戦」によって獲得した領地は没収された。

 

 

*1:一白、信長・秀吉に仕える。様々な大名間の取次を務めた

*2:徳川

*3:天正14年

*4:景綱、伊達政宗家臣

*5:三成

*6:陸奥に出羽を加えた「両国」と解釈した

*7:天正14年

*8:重経、常陸国下妻城主。佐竹義重と連携し早くから秀吉と誼を通じる

*9:同『豊臣平和令と戦国社会』40頁、1985年、東京大学出版会。大名の平和=惣無事令、村落の平和=喧嘩停止令、百姓の平和=刀狩令、海の平和=海賊禁止令。これらを藤木氏は「豊臣平和令」と総称した。「平和令」は神聖ローマ帝国の「ラントフリーデ」Landfriedenに倣ったものである

天正14年11月13日千石秀久・長宗我部信親宛豊臣秀吉判物

 

 

(包紙ウハ書)

「   千石権兵衛尉とのへ*1 

    長宗我部弥三郎とのへ*2   」

 

豊後中ニ謀反人有之由、小早川*3・安国寺*4・黒田勘解由*5かたより註進候、何たる子細候哉*6

 

一、豊後へ両人*7差遣候儀ハ国為在番*8、国中無別儀様にと被思食、数度之御書*9にも委細被仰遣候処ニ、豊後国をは不相固他国へ相動付、其国ニ謀反人*10有之由候、豊後をさへ不取固、よ*11の国*12へ相動段無分別、中/\*13(闕字)御書にも難被述仰思召候事

 

一、此上者聊尓なる無動*14、府内*15ニ成とも又ハよ*16の城に成共陣取手堅有之、上方の人数可相待候義専要候事、

 

一、毛利右馬頭*17かたへも追〻被仰遣候間細〻*18可有註進候、人数被仰付候間、何方ニ籠城有之とも、可入合*19儀案之内ニ被思召候事、

 

一、其国之様子有様ニ一書を以可申上候、其次第ニ有御分別*20、諸事可被仰付候事、

 

一、無心元候間人数為先勢、備前衆*21、淡路*22・阿波*23者共被仰付候事、

 

右能〻令得心、卒尓*24之儀不可有之候也、

 

    霜月十三日*25 (花押)

     千石権兵衛尉とのへ

     長宗我部弥三郎とのへ

 

(三、2013号)
 
(書き下し文)
 

豊後中に謀反人これあるよし、小早川・安国寺・黒田勘解由方より註進に候、何たる子細候や、

 

一、豊後へ両人差し遣わし候儀は国在番として、国中別儀なきようにと思し食され、数度の御書にも委細仰せ遣わされ候ところに、豊後国をば相固めず、他国へ相動くについて、その国に謀反人これある由に候、豊後をさえ取り固めず、余の国へ相動く段分別なく、なかなか御書にも述べ仰せられがたく思し召し候こと、

 

一、この上は聊尓なる動きなく、府内になるとも、または余の城になるとも陣取り手堅くこれありて、上方の人数相待つべく候義専要に候こと、

 

一、毛利右馬頭へも追〻仰せ遣わされ候あいだ、こまごま註進あるべく候、人数仰せ付けられ候あいだ、いずかたに籠城これあるとも、入り合うべき儀案の内に思し召され候こと、

 

一、その国の様子ありように一書をもって申し上ぐべく候、それ次第に御分別あり、諸事仰せ付けらるべく候こと、

 

一、心元なく候あいだ人数先勢として、備前衆、淡路・阿波の者ども仰せ付けられ候こと、

 

右よくよく得心せしめ、卒尓の儀これあるべからず候なり、

 
 
(大意)
 
 豊後国内に謀反人がいると隆景・恵瓊・孝高より報告があったが、一体全体どうなっているのか。
 
一、豊後へふたりを派遣したのは豊後の治安維持のためであって、豊後国内に支障がないようにと、文書にも何度となく詳しくしたためていたはずである。にもかかわらず豊後を固めないうちに、他国へ軍事行動に移したとは。その国には謀反人がいるとのこと。豊後すら完全に掌握していないにもかかわらず、他国へ攻め入るなど無分別であり、わざわざ文面にしたためることすら憚られることである。
 
一、今後は軽挙妄動を慎み、府内城であろうと他の城であろうと陣を固め、上方よりの軍勢を待つようにしなさい。
 
一、近日中に輝元に派遣を命ずるので、逐一報告しなさい。軍勢を向かわせるのでどこの城に籠もろうとも必ず合流すること。
 
一、豊後国の様子についてはありのままを文書に記して報告しなさい。それによって秀吉が判断し、万事命ずるものである。
 
一、そなたたちが余りにもふがいなく、心許ないので先勢として備前衆や淡路・阿波の者たちを派兵する。
 
右についてよくよく留意し、粗相のないようにしなさい。
 
 

 

この文書は千石秀久・長宗我部信親の豊後国仕置の不始末についての譴責状である。 下線部に「心元なく候あいだ」とあるように、秀吉の両名に対する失望はかなりのもので、小早川隆景にも「無分別ゆえに」、「はなはだ然るべからず」と述べている*26

 

本文中の「謀反人」とは直入郡岡城主入田*27義実とのことで、昨天正13年から島津氏に内応していた。

 

Fig.1 豊後国における大友氏と島津氏 

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                   『日本歴史地名大系 大分県』より作成



島津氏家臣の上井覚兼は同年10月10日条に「義統をはじめ、豊衆*28みなみな彼方へ罷り立ち候」*29と大野・直入両郡から豊臣勢力を駆逐した旨誇らしげに書き記している。

 

秀吉は豊後国の支配基盤を固めぬうちに島津領国中へ攻め入ることを戒めたわけだが、鎗働きのみが武功ではないということである。

 

5年後の天正19年8月増田長盛宛大友義統「豊後国御検地目録写」によると郡別の石高は下表の通りで、割合は下図のようになる。注目されるのは「荒地」が1.7パーセントに及んでいる点である。

 

Table. 豊後国検地目録

 

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Fig.2 同割合

 

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大友氏と島津氏の合戦の舞台裏では下記のような行為が行われていた。

 

 

先年豊州*30において乱妨取り*31の男女のこと、分領中尋ね捜しあり次第帰国の儀申し付くべく候、隠し置くにおいては越度たるべく候、ならびに人の売買一切相止むべく候、先年相定められ候*32といえども、かさねて仰せ出され候なり、

  十一月二日*33(秀吉朱印)

      嶋津修理大夫とのへ*34

 

『大日本古文書 島津家文書之一』362頁、371号文書

 

 

 

 この史料に見られるように、中世から近世初期にかけて相手の領国中で男女を問わず生け捕りにし売買の対象としていた*35。秀吉は島津義久に彼ら/彼女らを国許へ返すよう命じているが、同様のことは大友氏も行っていただろう。荒地が戦乱による荒廃はもちろん、こうした労働力の不足によってももたらされていただろうことは想像に難くない。

 

つけたり

秀吉を評する言葉として膾炙する「人たらし」について以下のような見解に接した。

 

「豊臣秀吉は人たらしの名人だった」 : 日本語、どうでしょう?

 

小説家による造語であり、「誤用」ではないとする点は説得的だが、同時代用語であるか否か、また実際に秀吉がそのような人物であったかは別の問題である。同時代の辞書「日葡辞書」には「タラシ」とは「詐欺師」、「口先でだます人」の意味しかなく、「多くの人に好かれる、とりこにしてしまう」意味合いはない*36。「薩摩藩士」、「長州藩士」、「脱藩」などといった言葉も同様に戦後の造語である*37。また正直なところ「男女残らず磔刑に処したそうで、実にいい気分である」*38、「一郷も二郷も撫で切りにしてしまえ」などと家臣に書き送る者を果たして「多くの人に好かれる、とりこにしてしまう」人物といえるのかといえば、はなはだ疑問である。

 

*1:秀久

*2:元親の長男、信親。この年の12月12日戸次川にて島津軍と交戦し戦死

*3:隆景

*4:恵瓊

*5:孝高

*6:隆景・恵瓊・孝高より豊後国内に謀反人がいるとの報告を受けたが一体どういうことなのか?

*7:秀久・信親

*8:豊後国の治安を維持するために

*9:秀吉からの文書

*10:天正14年10月22日大友氏家臣の入田義実が島津氏と呼応し直入郡ほぼ全郡を掌握したこと。なお前年11月1日島津氏家臣新納忠元が義実に「知行については年寄衆に報告しているので間違い」旨の起請文を発している。『大日本史料』第11編22冊96頁。また「上井覚兼日記」同13年11月20日条

*11:

*12:筑後国へ攻め入ったこと

*13:かえって、むしろ

*14:軽挙妄動を慎み

*15:豊後国大分郡

*16:

*17:輝元

*18:コマゴマ

*19:イリアウ。合流する

*20:秀吉の判断

*21:宇喜多秀家ら

*22:脇坂安治・加藤嘉明

*23:蜂須賀家政ら

*24:ソツジ、軽率な

*25:天正14年

*26:2012号

*27:ニュウタ

*28:豊後勢=大友勢

*29:「上井覚兼日記」同日条

*30:豊前・豊後ともに「豊州」。大友氏分国のこと

*31:「乱取」。戦争で行われる物や人に対する略奪行為。下線部②のように売買の対象となる

*32:天正15年6月19日秀吉発給文書「日本においては人の売買停止のこと」を指す。2243号。ただし2244~2245号文書にはこの文言はない

*33:天正15年6月19日以降

*34:義久

*35:黒田本「大坂夏の陣図屏風」など

*36:ただし詐欺師には人をとりこにする魅力が必要不可欠である。強面で強引に売りつけるのは押売だから

*37:戦前の史料集には「鹿児島藩」、「萩藩」とある

*38:2016~2017号

天正14年11月4日上杉景勝宛豊臣秀吉判物

 

 

去月廿一日之書状、今月四日加披見候、随家康於無上洛者、三川*1境目ニ為用心殿下*2被成御動座、北国衆*3其外江州*4何も宰相*5ニ相添、関東*6可差遣旨相定候之処ニ、家康上洛候て令入魂*7何様にも関白殿次第申候間、別不残親疎、関東之儀家康と令相談、諸事相任之由被仰出候*8間、被得其意、可心易候、真田*9・小笠原*10・木曽*11両三人儀も、先度其方上洛之刻*12如申合候、徳川所*13へ可返置由被仰候、然者真田儀可討果ニ相定候といへとも、其方日比*14申談られ候間、真田を立置*15知行不相違様ニ被仰定、家康ニ可召出之由被仰聞候、真田儀条〻不届段先度被仰越候時、雖被仰聞候其方為候間、真田儀被相止御遺恨、右分ニ可被成御免候之条、其方よりも真田かたへも可被申聞候、委細増田右衛門尉*16・石田治部少輔*17・木村弥一右衛門尉*18可申候也、

  十一月四日*19(花押)

      上杉少将とのへ*20

 

(三、2009号)
 
(書き下し文)
 
去る月廿一日の書状、今月四日披見を加え候、したがって家康上洛なきにおいては、三川境目に用心として殿下御動座なられ、北国衆そのほか江州いずれも宰相に相添え、関東へ差し遣わすべき旨相定め候のところに、家康上洛候て入魂せしめ、何様にも関白殿次第と申し候あいだ、別して親疎残らず、関東の儀家康と相談じせしめ、諸事相任すのよし仰せ出され候あいだ、その意をえられ、心易すんずべく候、真田・小笠原・木曽両三人儀も、先度その方上洛の刻申し合わせ候ごとく、徳川所へ返し置くべきよし仰せられ候、しからば真田儀討ち果すべくに相定め候といえども、その方日ごろ申し談られ候あいだ、真田を立て置き、知行相違わざるように仰せ定められ、家康に召し出すべきの由仰せ聞けられ候、真田儀条〻不届の段先度仰せ越され候時、仰せ聞けられ候といえどもその方為に候あいだ、真田儀御遺恨相止められ、右分に御免ならるべく候の条、その方よりも真田かたへも申し聞けらるべく候、委細増田右衛門尉・石田治部少輔・木村弥一右衛門尉申すべく候なり、
 
(大意)
 
 先月二十一日付の書翰、今月四日に拝読しました。家康が上洛しなかったときは三河との境目に用心のため出陣し、北国衆や近江の者どもは秀長につけ、関東へ派遣すべきと決めたところ、家康が上洛して臣従し「処分は関白殿のお気に召すまま」と申してきたので、親疎問わず関東のことは家康と相談の上、景勝に万事任せると定めましたのでご安心ください。真田昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌三名のことも先日そなたが上洛した際に話し合った通りに、徳川へ土地を返すべきである。真田は本来討ち果たすべきところではあるものの、そなたが日頃から付き合いがあるとのことで、真田を間に立てて、知行地の境界に間違いないように定め、家康に返すべきである。真田は数々の不届きがあると先日申したものの、そなたのためでもあるので真田への遺恨は捨て、赦免したのでそなたより真田へ伝えるようにしてください。詳しくは増田長盛・石田三成・木村吉清が申します。
 
 

 

Fig. 信濃国勢力図

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                   『国史大辞典』「信濃国」より作成

 

真田昌幸は天正8年小田原北条氏勢力下の上野国利根郡沼田城を攻略し、沼田領を支配した。 同10年武田氏が滅亡すると、越後上杉・北条氏・家康と同盟を結び沼田領を守った。しかし同13年家康が北条氏と講和を結び、その条件として沼田領を割譲すると、昌幸は家康と断絶した。

 

下線部①は直接引用なのか間接引用なのか迷うところであるが、ここでは直接引用と解した。

 

②は「関東」の仕置については家康と景勝に任せるとしており、関東惣無事の先駆といえる。

 

③はこの仕置が国郡境目相論の裁定であることを示唆するものである。

 

♪ 春まだ浅い信濃路へ…8時ちょうどのあずさ2号で ♪

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*1:三河

*2:秀吉

*3:北陸に領地を与えられた豊臣大名

*4:近江に領地を与えられた豊臣大名

*5:豊臣秀長、宰相は参議の唐名

*6:古くは近江逢坂の関の東、ここでは三河以東くらいの意

*7:主君のお気に入りの者になること

*8:主語は秀吉

*9:昌幸、信濃国小県郡上田城主

*10:貞慶、天正10年信濃国深志城を落としたあと深志を松本と改称。松本駅の住所は「松本市深志一丁目」

*11:義昌、安曇・筑摩郡の領主

*12:この年6月景勝は上洛し、同21日「左近衛権少将」に任じられ「従四位下」に叙せられている

*13:上野国沼田領

*14:

*15:証人や見届け人を「立てる」の意

*16:長盛

*17:三成

*18:吉清

*19:天正14年

*20:景勝

日付から和暦を判定するVBAコードを作ってみました

和暦は突然改元されるので、史料に書かれた日付が実在するのか逐一確認する必要がある*1。架空の年号*2としてよく知られるのは未来年号である。未来年号で書かれているからといってただちに偽文書であるとはいえないが、内容を読む上で避けて通れない作業である。年号と干支が一致しない場合、どちらを採用するのか、それとも別の年代か、あるいはそもそも文書自体が「『神の手』によって創り上げられた作品」(意図は問わない)なのかという問題もある*3

 

今日使われる歴史的事件名と同時代に記された年代が食い違うケースは珍しくない。たとえば秀吉による最初の「唐入」は天正20年からだが、12月8日「文禄」に改元されたので一般には「文禄の役」と呼ばれる。また嘉永7年11月4日と5日に起きた東海地震、南海地震は11月27日に「安政」に改元されたため「安政」地震と呼ばれる。歴史叙述上問題ない*4が、同時代史料に安政東海地震や安政南海地震が起きた年代が「安政元年」と記されていることはありえない*5。逆に改元されても旧来の年号を引き続き使用する例はよく見られる。

 

ちなみにポルトガル宣教師たちは「年号」を以下のように説明している。

 

  

Nengǒ(ネンガゥ)

 

年号、日本で頻繁に変わる、時代の通称

(『邦訳日葡辞書』458頁)

  

 

ここで「①日本で、②頻繁に変わる」という部分が重要である。 明やベトナムが一世一元制であり、改元が新皇帝践祚の翌年元日に行われるのに対して、という含意なのだろう。

 

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註:文禄5年は10月27日に改元されたのでそれより前の「閏7月」は慶長1年ではなく文禄5年でなければならない。文書に「慶長元年閏7月」と記されていればその日付は未来年号である。

 

ただし本記事では地方暦は扱わない、というより扱えない。もとより地方暦を網羅することなど不可能なことである。京暦と地方暦が異なる例として有名なのは天正10年閏12月の件であろう。京暦では置かれなかったが、東国では置かれた形跡がある*6。置かれたとすれば京都と当該地域は1ヶ月ほど時差が生じる。

 

使用例

 

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天正20年12月7日はまだ改元前なので「天正20壬辰年」と返す例。 

 

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翌8日「文禄」に改元されたので「文禄1壬辰年」と返す例。

 

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  文禄2年1月は小の月、29日までしかないので実在しない旨返す例。

 

VBAコードを除いた雛形はこちらから。

drive.google.com

 

 

コード

 

 

 

Private Sub 年号判定_Click()

 

Dim i As Long, j As Long, SerialNo As Long
Dim 年月 As String, 日 As Long
Dim row As Long, column As Long

 年月 = Range("Q1").Value
 日 = Range("U1").Value


 row = WorksheetFunction.XMatch(年月, Range("H3:H2006"), 1)
 column = WorksheetFunction.XMatch(日, Range("I2:AL2"), 1)
 SerialNo = WorksheetFunction.Index(Range("I3:AL2006"), row, column)

 i = Range("AD1").Value
 j = Range("U1").Value
 Range("AA1").Calculate
 Range("AD1").Calculate

If SerialNo = 0 Then
   MsgBox "お調べになった日付は使われておりません" & vbCrLf & "年代をよくお確かめの上再度お調べ直しください"
   Range("AA1").Value = ""
   Range("AG1").Value = ""

Else
   Range("AA1").Value = SerialNo

   Range("AA1").Calculate
   Range("AD1").Calculate


  Select Case Range("A" & i)
    Case Is = ""
     Range("AG1").Value = Range("B" & i).Value
     MsgBox "その日は" & Range("B" & i).Value & Range("C" & i).Value & "年です"
    Case Is <> ""
      Select Case Range("F" & i)
        Case Is = ""
          Range("AG1").Value = Range("B" & i).Value
          MsgBox "その日は" & Range("B" & i).Value & Range("C" & i).Value & "年です"
        Case Is <> ""
         If j >= Range("F" & i).Value Then
           Range("AG1").Value = Range("A" & i).Value
           MsgBox "その日は" & Range("A" & i).Value & Range("C" & i).Value & "年です"
         Else
           Range("AG1").Value = Range("B" & i).Value
           MsgBox "その日は" & Range("B" & i).Value & Range("C" & i).Value & "年です"
         End If

      End Select
  End Select

End If


End Sub

 

 

 

 

エクスキュース

 

ド素人が見よう見まねで組んだものですので、答えるまでに数秒かかりますし、不備ばかりと思います。お気づきの点がありましたらコメント欄にてご教示下さい。

 

 

*1:西暦もユリウス暦からグレゴリオ暦に切り替えた際に日付が飛ぶので、必ずしも連続しているわけではない。そこで計算上設けられたのがユリウス日である

*2:私年号は実在した年号で、架空のそれではない

*3:椿井政隆はさまざまな意味において「神の手」と呼ぶにふさわしい

*4:適切か否かは別であるし、大きな誤解を生んでいる現実もある

*5:慶応4年10月23日、新政府は同年を元日に遡って明治元年としたが、制度上の話にすぎず現実に慶応4年と書かれたあらゆる文書を書き換えさせたわけではない

*6:上杉家文書

天正14年11月2日加藤嘉明宛領知充行状・11月3日脇坂安治宛領知充行状・同知行目録・同蔵入目録

 

 

<史料1>

 

淡路国三原郡之内壱万弐千四拾五石、津名郡之内弐千九百六拾石、都合壱万五千石、令扶助訖、全可領知者也、

   天正十四年

    十一月二日(花押)

       加藤左馬助とのへ*1

 

(三、2005号)

 

(書き下し文)

 

淡路国三原郡のうち一万二千四十五石、津名郡のうち二千九百六十石、都合一万五千石、扶助せしめおわんぬ、まったく領知すべきものなり、

 

 

<史料2>

 

(包紙ウハ書)

「  脇坂中務少輔とのへ*2   」

 

淡路国津名郡のうち三万石、目録別紙*3相副、令扶助訖、全可領知者也、

  天正十四年

    十一月三日(花押)

      脇坂中務少輔とのへ

 

(三、2006号)

 

(書き下し文)

 

 淡路国津名郡のうち三万石、目録別紙*4相副え、扶助せしめおわんぬ、まったく領知すべきものなり、

 

<史料3>

 

(表紙:竪帳)

     天正十四年十一月三日

  あわちの*5国わきさか*6中務知行目録

                         」

 

Fig.1

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    たつの市立龍野歴史文化資料館『脇坂家文書集成』123頁より作成

 

     津名郡

一、参千四百五拾参石六斗          広田庄

一、弐千弐百八拾八石            庄下

 (中略)

一、四拾五石九斗              あん*7養寺

                   津名郡之内

一、五拾参石                いくわの内*8

   都合参万石

     以上

 天正十四年十一月三日(朱印)

       脇坂中務少輔とのへ

 

(三、2007号)

 

 <史料4>

 

(表紙:竪帳)

     天正十四年十一月三日

        わきさか中務御代くわん*9

  あわちの*10国御くら入もくろく*11      

                           」

 Fig.2

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                          同上書124頁より


 

   淡路国三原郡御蔵入目録

一、八百七拾九石          ゑなみ*12・こくか*13

一、参百弐拾石九斗         とくなか村*14

 (中略)

一、弐拾九石            桃川之内

                津名郡之内

一、八百弐拾七石          いくわ*15

(三、2008号)

 

 

 

史料3が脇坂安治宛の知行目録で、史料4が同人宛の蔵入地目録である。下線部③のように「わきさか中務御代くわん」が下方に置かれ、字も一回り小さく書かれている。これは秀吉の蔵入地に対する敬意を表している。また以前読んだ加藤清正と同様知行地付近の蔵入地代官に脇坂安治を任じている。

 

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安治の知行地と蔵入地の分布は下図の通りである。

 

Fig.3 脇坂安治知行地と秀吉蔵入地分布

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                   『日本歴史地名大系 兵庫県』より作成

下線部⑤の「育波」は53石が安治知行地、827石が秀吉蔵入地で、その比はおよそ6:94である。また加藤嘉明と脇坂安治の知行地と蔵入地の淡路国における石高の割合は下図のようになる。

 

Fig.4 淡路国知行地と蔵入地の比率

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                         2005~2008号より作成

 

*1:嘉明

*2:安治

*3:史料3

*4:史料3

*5:淡路

*6:脇坂

*7:

*8:育波

*9:御代官

*10:淡路

*11:御蔵入目録

*12:榎列

*13:国衙

*14:徳長

*15:育波