日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年8月27日島津義弘宛豊臣秀吉朱印状

 
今度至于片浦*1黒船*2着岸之由言上候、然者糸*3之儀商売仕度旨申之由候条、先銀子弐万枚、御奉行*4差添被遣候、有様ニ相場を相立可売上候、若糸余候ハヽ諸商人かハせ*5可申候、買手無之ニ付ては、有次第可被為召上候、此以後年中ニ五度十度相渡候共、悉可被為召上候間、毎年令渡海何之浦〻にても、付よき所*6へ可相着候由、可被申聞候、縦雖為寄船*7、於日本之地者、聊其妨*8不可有之候、糸之儀被召上儀者、更〻非商売之事候、和朝*9へ船為可被作着、如此之趣慥可申聞候、此方より御奉行被差下候まてハ、先糸之売買可相待候、猶石田治部少輔*10可申候也、
 
  八月廿七日*11 (朱印)
 
    羽柴薩摩侍従とのへ*12
 
(四、2699号)
 
(書き下し文)
 
今度片浦に至り黒船着岸の由言上候、しからば糸の儀商売仕りたき旨これを申す由に候条、先ず銀子弐万枚、御奉行差し添え遣わされ候、有様に相場を相立て売り上ぐべく候、もし糸余りそうらわば諸商人買わせ申すべく候、買手これなきについては、有り次第召し上げさせらるべく候、これ以後年中に五度十度相渡り候とも、ことごとく召し上げさせらるべく候あいだ、毎年渡海せしめ何の浦〻にても、付きよき所へ相着くべく候由、申し聞けらるべく候、たとい寄船たるといえども、日本の地においては、聊かもその妨げこれあるべからず候、糸の儀召し上げらるる儀は、さらさら商売のことにあらず候、和朝へ船着かせらるべきため、かくのごときの趣きたしかに申し聞くべく候、この方より御奉行差し下され候までは、先糸の売買相待つべく候、なお石田治部少輔申すべく候なり、
 
(大意)
 
今回、片浦に黒船が着岸したと報告があった。そこで生糸の取引を行いたいとのことなので、銀2万枚を奉行に持参させ派遣する。世間並みの相場で奉行に売りなさい。その上で糸が余れば、諸商人に買わせなさい。買い手がいない場合はすべてこちらに召し上げるものとする。今後年に5回、10回と来航してもすべて(公儀として)召し上げるので、どこの浦においても着岸しやすいところへ来航すべき旨仰せ出された。たとえ漂着船であっても日本の地においては少しも取引の邪魔をしてはならない。生糸を召し上げるのは儲けを独占しようとしてではなく、本邦へ交易船が無事に航行できるようにするため、公儀としてきびしく命じたわけである。こちらより奉行を派遣するまでは、生糸の売買を行わないようにしなさい。なお石田三成が詳細を述べる。
 

 

Fig.1 薩摩国片浦周辺図

                   『日本歴史地名大系 鹿児島県』より作成

Fig.2 16世紀の環シナ海世界

              永原慶二『戦国時代』(講談社学術文庫)より作成



秀吉は各大名が自律的に行っていた海外貿易に対して介入を行った。生糸は重要な輸入品(輸出品は銀)だがそれを独占的に扱うことで財政を潤そうとしたようだ。下線部で「さらさら商売のことにあらず、和朝へ船着かせらるべきため」と豊臣政権による「私益」の追求でなく、海外貿易を盛んに行わせるためである旨述べられているが、かえって言い訳がましい。

 

秀吉はいわゆる「バテレン追放令」でも貿易を目的とした黒船来航を望んでいた。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

石見銀山を掌握した秀吉にとって貿易はさらなる蓄財手段であった。

 

*1:薩摩国川辺郡、下図1参照

*2:南蛮製の大船

*3:生糸。このころマカオ周辺からポルトガル人が生糸を購入し,日本に輸出していた

*4:「御」があるので秀吉の奉行

*5:買わせ

*6:接岸しやすいところ

*7:漂着船。漂着船の積荷を「寄物」といい、所有権は漂着地の領主や百姓にあったが、その慣習を悪用して故意に船を難破させ、積荷を奪う掠奪行為も盛んだった

*8:寄船や寄物に対する掠奪行為

*9:我が国

*10:三成

*11:天正17年カ。グレゴリオ暦1589年10月6日、ユリウス暦同年9月26日

*12:島津義弘

天正17年8月25日片桐貞隆宛豊臣秀吉朱印状

 

   猶以御代官所*1之儀も右同前に*2候間、能〻可相改候也、

急度被仰出候、

一、御台所人藤大夫と申ものヽむすめ、御内ニめしつか*3ハされ候処、御座敷ニおかせられ候御こしの物*4・御わきさし*5ぬすミ*6候ニ付て、親の藤大夫ちくてん*7候間、方〻*8被成御糺明候事、

 

一、其方分国中、一在所をきり*9屋内をさかし*10、其上地下人・他所の者堅相改、其在所の者又ハ他所の者にても不苦ものハ、地下人請ニ候て一札をさせ可申候、少も不審なるもの於在之者、からめとり*11可上候、

 

一、右藤大夫と申ものハ、とし六十計之者二候、あたまをそり*12、さまをかゑ*13候事も可有之候、若糺明令無沙汰、自余の口より其方分領にて於尋出者、知行被召上、則其方事も可被召失候条、成其意、精を入可相改候、不可有由断候也、

 

   八月廿五日*14 (朱印)

 

     片桐主膳正とのへ*15

(四、2698号)
 
(書き下し文)
 

きっと仰せ出され候、

一、御台所人藤大夫と申す者の娘、御内に召し使わされ候ところ、御座敷に置かせられ候御腰の物・御脇指盗み候について、親の藤大夫逐電候あいだ、かたがた御糺明なされ候こと、

 

一、その方分国中、一在所を切り屋内を探し、その上地下人・他所の者堅く相改め、その在所の者または他所の者にても苦しからざる者は、地下人請けに候て一札をさせ申すべく候、少しも不審なる者これあるにおいては、搦め捕り上ぐべく候、

 

一、右藤大夫と申す者は、年六十ばかりの者に候、頭を剃り、様を変え候事もこれあるべく候、もし糺明無沙汰せしめ、自余の口よりその方分領にて尋ね出だすにおいては、知行召し上げられ、すなわちその方ことも召し失せらるべく候条、その意をなし、精を入れ相改むべく候、由断あるべからず候なり、

 

 なおもって御代官所の儀も右同前に候あいだ、よくよく相改むべく候なり、

 
(大意)
 
きびしく仰せになるだろう。
 
一、御台所に仕える藤大夫と申す者の娘が、城中に呼ばれたところ、御座敷に置かれていた太刀・脇指を盗み、父親である藤大夫は逃亡したので片っ端から調べるように。
 
一、そなたの領国中、一在所ごとに家捜しをし、その上で地下人かよそ者かをよく吟味し、その在所の者、あるいはよそ者でも問題ない者は地下人が請人として一札を出させるようにしなさい。少しでも怪しい者がいた場合捕縛し、差し出すようにしなさい。
 
 
一、右の藤大夫と申す者は60歳くらいで頭をそり上げ、人相を変えている場合もあるだろう(からよく注意しなさい)。もし、追跡を怠ったり、そなたの分国内で他の者が見つけ出した場合、知行地を没収し、召し放ちとなるので、その旨承知し、精を入れて捜索につとめなさい。
 
なお蔵入地についても右同様に捜索しなさい。
 

 

片桐貞隆は天正13年の山城検地に携わるなど豊臣政権の基礎固めを行った者の一人であるが、詳細は不明である。彼の知行地は下表のように1000石を超える程度で、しかも三ヶ国に分散しており「分国」と呼べるような領域的な支配を行っていたと思えない。しかし本文書では「分国」、「分領」と呼び、また「御代官所」=蔵入地の代官も務めていた。

 

Table. 片桐貞隆知行所分布

                       『大日本史料』などより作成

本文書は藤大夫なる者の娘が盗みをはたらき、責任を取るべき藤大夫が逐電してしまったので捜索せよという命令である。

 

下線部によると「在所」すなわち郷村には「他所の者」というよそ者が住みついていたことがわかる。彼らはおそらく「奉公人」であろうが、この時点では「地下請」という郷村による保証があれば特に追放すべき対象にならなかった。

 

*1:「分国」、「分領」に対する秀吉直轄地

*2:本文同様に

*3:召し使

*4:腰の物。刀剣類

*5:脇指

*6:盗み

*7:逐電

*8:あちらこちら

*9:一在所ごとに。旧くは「一在所撫で斬りにして」という意味で解釈されてきたが、実際に撫で斬りにしてしまうと後半部分の「地下人請け」ができなくなってしまうので「一在所ごとに」とした

*10:探し

*11:搦め捕り

*12:頭を剃り

*13:様を変え

*14:天正17年カ。グレゴリオ暦1589年10月4日、ユリウス暦同年9月24日

*15:貞隆、天正13年山城の検地奉行で片桐且元の弟。知行地は下表の通り

天正17年7月16日上杉景勝宛豊臣秀吉判物写

 

去月廿四日之書状、被成御披見候、佐州*1之儀属一変*2之由、尤被思召候、弥仕置*3等丈夫*4可被申付事専一ニ候、猶増田右衛門尉*5・石田治部少輔*6可申候也、

   七月十六日*7  秀吉

    羽柴越後宰相中将とのへ*8

(四、2680号)
 
(書き下し文)
 
去る月24日の書状、ご披見なされ候、佐州の儀一変に属すの由、もっともに思し召され候、いよいよ仕置など丈夫に申し付けらるべきこと専一に候、なお増田右衛門尉・石田治部少輔申すべく候なり、
 
(大意)
 

先月24日付の書状、殿下がご覧になりました。佐渡国が一篇に属したとのこと、殿下は実に喜ばしくお思いになっています。いよいよ支配などしっかりお命じになることが大切でございます。なお詳しくは増田長盛・石田三成が申し上げます。

 

 

Fig. 佐渡国略図

                   『日本歴史地名大系 新潟県』より作成

 

この年の6月14日、上杉景勝は佐渡へ上陸し、佐渡を支配する本間氏の居城羽茂(はもち)城を攻め落とした。つまり「佐州一変に属す」とは景勝による佐渡攻略を意味するが、これは景勝による領国拡大を目指した私戦なのか、それとも秀吉公認の武力による「天下統一」の一環なのか重要な問題である。管見の限り秀吉が景勝の行動に事前にお墨付きを与えた形跡はない。つまり景勝が「私的に」起こした戦争を秀吉が「事後的に」天下統一戦争と追認した可能性が高い。

 

仮に秀吉が景勝の行為を「私戦」と判断すれば、すべての戦争を再点検せねばならず、豊臣政権の根底を覆しかねない。「追認」することで政権が「とりあえず」維持される「弥縫策」を秀吉は選択したようだ。

 

*1:佐渡国

*2:一篇。平定されるの意

*3:支配、統治

*4:しっかり

*5:長盛

*6:三成

*7:天正17年。グレゴリオ暦1958年8月26日、ユリウス暦同年同月16日

*8:上杉景勝

天正17年7月10日真田信幸宛豊臣秀吉朱印状

 

今度関東八州・出羽・陸奥方面〻*1分領*2、為可被立堺目*3等、津田隼人正*4・冨田左近将監*5為御上使被差下候、為案内者可同道、然者従其地*6沼田*7迄、伝馬六十疋・人足弐百人申付、上下共*8可送付、路次*9・宿以下馳走*10肝要候也、

    七月十日*11 (朱印)

      真田源三郎とのへ*12

 

(四、2678号)
 
(書き下し文)
 
このたび関東八州・出羽・陸奥かた面〻分領、堺目などを立てらるべきため、津田隼人正・冨田左近将監御上使として差し下され候、案内者として同道すべし、しからばその地より沼田まで、伝馬六十疋・人足弐百人申し付け、上下とも送り付けるべし、路次・宿以下馳走肝要に候なり、
 
(大意)
 
このたび、関八州・出羽・陸奥の諸大名の領国の国境を定めるため、津田信勝と富田一白を上使として派遣するので、信之殿は案内者として両名に同道するように。上田から沼田まで、伝馬を60疋、人足200人を集め、上り下りの物流を滞りなく行うように。また道路整備や宿の準備を怠らぬように。
 

 

Fig. 上野国略図

                   「上野国」(『国史大辞典』より作成)

本文書は秀吉による関八州・奥羽地方の国分に関するものである。下線部の「堺目を立てる」という文言は、文字通り物理的な標識を敷設することを意味するのか、それとも秀吉の使者が在地の実情に詳しい「証人」を立てて「政治的に国境」を決定するだけなのかは判断できない。ただ後者の場合、秀吉が「政治的に国境を掌握した」ことになるのだろう。

 

当時「国境」をどのように認識し、まだ定めていたのかはかなり難しい。「当知行」、「不知行」という言葉が当時あったが、これは実効支配が及ぶ/及ばない*13地域という意味でこれが「国境」を把握する手がかりになる。

 

なお言うまでもないが、行政区分はあくまでも行政区分に過ぎずそれ以上でも以下でもない。

*1:諸大名

*2:領国

*3:国境

*4:信勝。織田信長一族でのち秀吉家臣となる

*5:一白、秀吉家臣

*6:信濃上田カ

*7:上野国利根郡、下図参照

*8:上りと下り両方面

*9:道中。ここでは道路環境を整えるの意

*10:奔走する、世話をする

*11:天正17年、グレゴリオ暦1589年8月20日、ユリウス暦同年同月10日

*12:信之/信幸。信濃上田城主昌幸の長男

*13:年貢や陣夫役・兵役を徴発できる/できない

天正17年5月16日飛鳥井雅春宛豊臣秀吉朱印状

 

賀茂松下*1鞠之弟子取事、無例之由、同於家之人*2前曲足蹴*3事無之旨(闕字)勅書・室町殿文書*4等一覧*5、絹上絹袴有之、葛袴等無着事、同以無文*6紫革・無文燻革閇袴*7事、一切無之由、松下為弟子、沓袴令着用者於有之者、如有来*8被剥取之、法度堅可被申付候也、

    天正十七

     五月十六日*9(朱印)

      飛鳥井大納言殿*10

 

(四、2669号)
 
(書き下し文)
 
賀茂松下鞠の弟子を取ること、例なきの由、同じく家の人前において曲足蹴のことこれなき旨、勅書・室町殿文書など一覧候、絹上・絹袴これあり、葛袴など無着のこと、同じくもって無文紫革・無文燻革・閇袴のこと、一切これなき由、松下弟子として、沓袴着用せしむる者これあるにおいては、有り来たるごとくこれを剥ぎ取られ、法度堅く申し付けらるべく候なり、
 
(大意)
 
上賀茂社の松下述久が蹴鞠の弟子を取ることについて、先例がないとのこと。同様に家人の前で「曲足蹴」を披露することが禁じられている旨は、勅書や室町将軍家発給文書に明らかである。絹上・絹袴は許されているが、葛袴などは禁じられている。また無文紫革・無文燻革・閇袴も一切禁止とのこと。松下の弟子として沓袴を着用する者を見たならば、従来通りこれを剥ぎ取られるように。法度もきびしく申し渡されるように。
 

 

ブログ主は雅な世界に無縁なので、貴族の衣装や蹴鞠のルールについては省略した。

 

上賀茂神社の松下氏が蹴鞠の弟子を募集しようとしたのを、蹴鞠の師範を家業とする飛鳥井氏が秀吉に訴え、それに対して秀吉が裁決を下したのが本文書のようである。本文中にしばしば見られる「従来通り」という表現に加えて、勅書や室町将軍家発給文書の趣旨に照らしてという文言が見られるのは興味深い。

 

1936年『成簣堂古文書目録』407頁によると慶長13年にも蹴鞠のルールを破り、今後飛鳥井流のルールに則る旨の詫び証文を飛鳥井氏にあてており、蹴鞠の作法をめぐって相論が起きていたようだ。なおどうもこの詫び証文は戦災で失われたようだ。

 

ルールの変更*11やVTRによる再判定の採用*12など、より「面白く」見えるよう変更されることは今日でも珍しくない。

 

*1:述久、上賀茂神社主松下規久の子。細川幽斎などとも親交があった

*2:家人。ほかに貴族に仕える「家礼(ケライ)」があり、のち「家来」と書かれ、武家や百姓家の間でも、主人に従属する者を「家来」のように呼んだ

*3:反則技の一種か

*4:室町将軍家発給文書

*5:一通り参照する

*6:模様のない

*7:トジバカマ

*8:従来通り

*9:グレゴリオ暦1589年6月28日、ユリウス暦6月18日

*10:雅春、羽林家の飛鳥井家は蹴鞠の師範を家業とする

*11:バレーボールのサーブ権廃止など

*12:「神の手ゴール」をハンドとするなど