去〻年九州御進発*1之刻、以次高麗之儀為可被仰付、御人数差遣候処仁、父子*2出之砌、於箱崎*3高麗之事、何様共御意次第之趣、御侘言被申上*4、去年高麗国王可有参内*5由被申ニ付、被成御延引候、雖然至于当年遅参候、自然又如去年滞儀茂可有之被思食、小西摂津守*6・加藤主計頭*7両人江筑紫*8御人数共被差副、為御先勢被差遣候処ニ、其方高麗江渡海仕、当夏中仁国王令同心可罷上候、御人数被遣候而者、迷惑*9仕由候条、今少可相延旨被仰遣候、成其意、国王参洛之儀、可相急事肝要候、少茂於相滞者、京都迄程遠候、小西摂津守・加藤主計頭かた迄、一左右*10可申候、其次第可相動*11旨、堅被仰出候、其段相心得、両人かたへ早速可申届候、不可有油断候、猶浅野弾正少弼*12可申候也、
三月廿八日*13 (花押)
宗対馬守*14
とのへ
(四、2664号)(書き下し文)去〻年九州御進発のきざみ、次もって高麗の儀仰せ付けらるべきため、御人数差し遣わし候ところに、父子出ずるのみぎり、箱崎において高麗のこと、なにようとも御意次第の趣き、御侘言申し上げられ、去年高麗国王参内あるべき由申さるにつき、御延引なされ候、しかりといえども当年に至り遅参候、自然また去年のごとく滞る儀もこれあるべしと思しめされ、小西摂津守・加藤主計頭両人へ筑紫御人数とも差し副えられ、御先勢として差し遣わされ候ところに、その方高麗へ渡海仕り、当夏中に国王同心せしめ罷り上るべく候、御人数遣わされ候ては、迷惑仕る由に候条、今少し相延ぶべき旨仰せ遣わされ候、その意をなし、国王参洛の儀、相急ぐべきこと肝要に候、少しも相滞るにおいては、京都まで程遠く候、小西摂津守・加藤主計頭方まで、一左右申すべく候、それ次第相動くべき旨、堅く仰せ出だされ候、その段相心得え、両人方へ早速申し届くべく候、油断あるべからず候、なお浅野弾正少弼申すべく候なり、(大意)一昨年の九州攻めの際、次は高麗を支配下に置くべく、軍勢を差し向けたところ、宗義調・義智父子が箱崎まで出向き、如何なることでも御意次第にしますと申し、昨年高麗国王が参内すると申すので日延べした。ところが当年になっても遅参している。万一昨年のように参内しないこともあるだろうと思い、小西行長・加藤清正両名へ全九州の軍勢を副えて、先発隊として派遣したところ、そなたが高麗へ渡海し、今年の夏中に国王を説得し、上洛させるので、軍勢を派遣されては困ると述べたとのこと。今しばらく延引することにしたので、国王が上洛するよう急ぎなさい。少しでも遅れるようなことがあれば、京都までは遠いであろうから肥後の行長や清正にその旨報告しなさい。その報告次第では軍勢を派遣すべく命じるだろう。その点をよく心得、両名への報告を急ぐように。決して油断のないように。なお詳しくは浅野長吉が申し述べる。
一昨年の6月15日宗義調・宗義智父子は、秀吉から対馬一国をあてがわれ、また朝鮮へ出兵すれば「彼の国一篇知行」を任せると命じられたが、義調が「理」(コトワリ、事情の説明)を述べたので出兵は日延べするとされた。
本文書でも宗氏がなかなか朝鮮国王を上洛させないので、行長・清正らの軍勢を差し向けると述べている。豊臣政権の主従関係は、秀吉の圧倒的軍事力を背景にして成り立っていたとも言える。