(包紙ウハ書)
「 松浦兵部法印*1
(異筆)
「到来 天ノ十七 十一ノ七日亥刻」*2
」
急度被(闕字)仰出候、①日本国〻之事者不及申、海上迄静謐ニ被仰付候*3故、従大唐*4令懇望、相渡候進物之船罷出候処、去春*5②其方自分領号商売船*6、てつくわい*7と申唐人為大将、八幡*8ニ罷越、彼唐船之荷物令海賊候由、被(闕字)聞召候間、右之商売舟之由申候て、去春罷出候てつくわい・其外同船之輩、何も不残可差上候、於此方被遂御糺明、可(闕字)被仰付候、自然*9彼者共何角申族有之、於不罷出者、其方迄可為曲事候条、成其意、早〻可差上候、猶小西摂津守*10可申候也、
十月三日*11 (朱印)
松浦兵部卿法印
(四、2722号)
(書き下し文)
急度仰せ出だされ候、①日本国〻のことは申すに及ばず、海上まで静謐に仰せ付けられ候ゆえ、大唐より懇望せしめ、相渡し候進物の船罷り出で候ところ、去る春②その方自分領商売船と号し、てつくわいと申す唐人大将として、八幡に罷り越し、彼の唐船の荷物海賊せしめ候よし、聞こし召され候あいだ、右の商売舟のよし申し候て、去る春罷り出で候てつくわい・その外同船の輩、いずれも残らず差し上ぐべく候、この方において御糺明を遂げられ、仰せ付けらるべく候、自然彼の者どもなにかと申す族これあり、罷り出でざるにおいては、その方まで曲事たるべく候条、その意を成し、早〻差し上ぐべく候、なお小西摂津守申すべく候なり、
(大意)
きびしく申し渡す。①日本の国々は言うに及ばず、海上まで平和を命じたことで、大唐国が通商を請いに進物を積んだ舟を派遣したところ、この春、②そなたは自分の領内にやってきた商売船だと称して、テッカイなる唐人を大将として海賊行為に及び、掠奪を行ったと聞き及んでいる。(この行為は海賊停止令に違背しているので)この商売船の事件について詳細に報告し、昨年春に海賊行為に及んだテッカイ、その他の者どもを残らず上洛させるように。当方において糺明し罪科に処すであろう。もし彼らがなにかと理由を付けて出頭しない場合には、そなたも同罪とするので、趣旨を理解し早々に差し出すようにしなさい。なお詳しくは小西行長が口頭にて申すであろう。
Fig.1 松浦党分布図
Fig.2 中近世移行期の日本列島と取り巻く環境
松浦兵部卿法印については未詳だが、松浦党のひとりであろう。
ところで「大唐よりの船」とあるが、明王朝は海禁政策をとっていた明は1567年海禁を解除したが、日本への渡航は認めなかったので必ずしも秀吉の言うような使節を乗せた船ではなく、後期倭寇と呼ばれる船の可能性がある。
さて①では「国〻」=陸上はもちろん海上まで「静謐」を命じたと述べ、陸海ともに秀吉の支配下であることを再確認させている。これは「海賊停止令」のことであるが、②によると松浦兵部卿法印は「自分の領内にやってきた商売船」だとして海賊行為を行ったことがわかる。兵部卿法印は相替わらず自力救済原則に則り活動していたのである。
そしてテッカイらの処罰権は兵部卿法印になく、秀吉にあったことを示している。すなわち海上の紛争も裁定者は秀吉であることを示している。
図2のように当時の日本列島は今日と大きく異なり、また海域世界を通して開かれていたことは念頭に置くべきだろう。