態染筆候、仍山形出羽守*1分領*2与哉覧*3、庄内*4城本庄*5乗取之由申越候、事実候哉、双方*6被遂御糺明、雖可被仰出候、年内無余日之間、至来春山形をも可被召上候条、其刻本庄をも可被差上候、①様子被聞召、理非次第可被仰付候、其中互手出不可有之旨、山形かたヘも被仰遣之候*7条、下〻猥儀無之様可被刷*8候、其上②往還之輩聊無滞様、堅可被申付候*9、猶増田右衛門尉*10・石田治部少輔*11可申候也、
十二月九日*12(花押)
羽柴越後宰相中将殿*13
(三、2637号)(書き下し文)わざと染筆候、よって山形出羽守分領とやらん、庄内の城本庄乗っ取るの由申し越し候、事実候や、双方御糺明を遂げられ、仰せ出さるべく候といえども、年内余日なきのあいだ、来春にいたり山形をも召し上げらるべく候条、そのきざみ本庄をも差し上ぐらるべく候、①様子聞し召され、理非しだい仰せ付けらるべく候、そのうち互いに手出あるべからざるの旨、山形方ヘもこれを仰せ遣わさるの条、下〻みだりの儀これなきよう刷わるべく候、その上②往還の輩いささかも滞りなきよう、かたく申し付けらるべく候、なお増田右衛門尉・石田治部少輔申すべく候なり、(大意)手紙にて伝えます。最上義光の領国だろうか、庄内の城を本庄繁長が乗っ取ったと申し出があったが、それは事実なのか。両者を召し出し関白みずからが理非を明らかにし、命じるだろうが、暮れも押し詰まっているので年明けに最上義光を上洛させる。そのさい本庄繁長も上洛させるよう促しなさい。①実否を確かめ、どちらの言い分に理があるか命じるでしょう。裁定が始まるまでのあいだに、お互いに武力に訴え出ることを禁ずる旨、義光へも仰せになるので、下々の者に至るまで「みだりの儀」がないように周知徹底しなさい。また②街道の通行の妨げをなすことも厳しく禁ずる。なお増田長盛・石田三成の副状を参照せよ。
Fig.1 出羽国庄名地方概略
Fig.2 最上・本庄・大宝寺三氏関係図
本文書の請取人は上杉景勝で、景勝に属する本庄繁長とその次男で出羽田川郡の庄内地方を支配する大宝寺義勝の行動を、最上義光の領国を侵すものとして、景勝に制止させるよう求めたものである。
繁長は上杉氏に属しながらもたびたび独自に動き、このときは越後村上から出羽を獲得すべく動いていた。最上義光がこの争いを「庄内越後境のこと」と記しているように、国郡境目相論の様相を帯びていたことはまちがいない*14。
同年10月26日徳川家康は「その表惣無事の儀、家康申し噯うべき旨、殿下より仰せ下され」と伊達政宗に書き送っている。殿下、つまり関白秀吉の命を受け、家康が調整役となったわけである。繁長の行為を景勝に止めるよう命じたように、紛争当事者に秀吉が直接命じるのではなく、各大名を通じて紛争状態の解消=「無事」の実現を図ったのである。
ただ「山形出羽守分領とやらん」という疑問形は、国境を秀吉自身それほど明確に把握していない書きぶりで興味深い。上方にいる秀吉が現地の様子を正確に知りうる手段は少ないが、それを隠そうともしないからだ。こうした弱みを見せることは駆け引きする上で切り札を相手に委ねることになり、通常考えにくい。これもこの時代特有の事情がはたらいている可能性がある。
下線部①にあるように、秀吉がみずからが双方の主張の正当性を見極め、裁定するのでそれまで手出し無用とそれぞれに命じている。
②については、行軍を妨げないように(軍事的)、物流の妨げにならぬように(経済的)、山賊行為などの禁止(治安維持的)などいくつかの可能性があるがそれ以上ははっきりしない。
*1:最上義光
*2:領国のこと。ただし戦国大名と異なり、あくまでも秀吉から一時的に「預けられた」土地であり、そのため改易されることもある
*3:ヤラン。~だろうか
*4:出羽国庄内地方。図1、2参照
*5:繁長。越後国岩船郡小泉荘の領主。上杉氏に属するが独立性も高い
*6:最上と本庄
*7:衍字カ
*8:スル。文字などを写し取る。ここでは周知徹底するの意
*9:景勝が武力衝突しないよう取り計らった上で、秀吉から「申し付ける」の意
*10:長盛
*11:三成
*12:天正16年。グレゴリオ暦1589年1月25日、ユリウス暦同年同月15日
*13:上杉景勝
*14:天正16年7月18日小介川治郎大輔宛義光書状