天正十五年分納物成*1算用相究*2、払*3之朱印小日記上候て皆済*4也、但此日付以前之朱印小日記有之共、重而の*5さん用ニ相立ましき也、
天正十六
十二月十日*6(朱印)
こにしりうさ*7
(三、2638号)(書き下し文)
天正十五年分納め物成算用相究め、払いの朱印・小日記上げ候て皆済なり、ただしこの日付以前の朱印・小日記これあるとも、重ねての算用に相立てまじきなり、
(大意)
天正15年分の年貢諸役を精算し、朱印状と「小日記」を提出して決算とする。ただし、本日より前に作成した朱印状や「小日記」が新たに見つかったとしても、計算し直すことはない。
短文でかつあまり見ない用語も出るので全体の文意を取りにくいが以下の点は指摘できるだろう。
充所の小西隆佐は行長の父親で、堺奉行に任じられていた堺の豪商である。すなわち豊臣政権によく見られる豪商出身代官が豊臣政権の財務を担っていたことである。
天正16年末に前年15年分の会計を締め、そのさい朱印状と「小日記」と呼ばれる帳簿に付けていたようだ。これらはいずれも残されていない。大坂落城の際に灰燼に帰したのであろう。
また新たに証文などが見つかったとしても、再計算はしないとする。ただし翌年計上する可能性もあるので、「見なかったことにしていた」とは断言できない。