日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年10月1日石田三成・大谷吉継宛豊臣秀吉朱印状(検地掟)

 

     検地御掟条〻

 

一、田畠屋敷共ニ五間*1六拾間之定、三百歩*2ニ縄打*3可仕事、

 

一、田地上、京枡*4壱石五斗代*5、中壱石参斗代、下壱石壱斗代ニ可相定、其ゟ下〻ハ見計*6可申付事、

 

一、畠上壱石壱斗、中壱石、下八斗ニ可相定、其ヨリ下〻ハ見計可申付事、

 

一、給人百性*7ニたのまれ*8、礼義*9・礼物*10一切不可取之、至于後日も被聞召付次第、可被加御成敗事、

 

一、御兵粮被下候上ハ、自賄*11たるへし、但さうし*12・ぬか*13・わら*14ハ百姓ニ乞可申事、

 

  天正十七年十月朔日*15(朱印)

 

        石田治部少輔とのへ*16

 

        大谷刑部少輔とのへ*17

 

(四、2717号)

 

 

(書き下し文)

 

     検地御掟条〻

 

ひとつ、田畠屋敷ともに五間・六拾間の定め、三百歩に縄打仕るべきこと、

 

ひとつ、田地上、京枡壱石五斗代、中壱石参斗代、下壱石壱斗代に相定むべし、それより下〻は見計らい申し付くべきこと、

 

一、畠上壱石壱斗、中壱石、下八斗に相定むべし、それより下〻は見計らい申し付くべきこと、

 

一、給人、百性に頼まれ、礼義・礼物一切これを取るべからず、後日にいたるも聞し召し付けられ次第、御成敗を加うらるべきこと、

 

一、御兵粮下され候上は、自賄たるべし、但雑地・糠・藁は百姓に乞い申すべきこと、

 

 

(大意)

 

 

     検地御掟条〻

 

一、田畠、屋敷地ともに5間×60間=300歩として測ること、

 

一、田地の上は1反あたり京枡1石5斗、中は1石3斗、下は1石1斗とし、それより下の「下々」などは相応に定めるように。

 

一、畠の上は1石1斗、中は1石、下は8斗とし、それより下の「下々」などは相応に定めるように。

 

一、給人が百性に頼まれて、礼義や礼物などを受け取ることは禁ずる。後日でもそのような事実が聞こえたら罪科に処す。

 

一、御兵粮は(秀吉が)与えるので、自弁とし百姓らに提供を強要してはならない。ただし塩や味噌、馬の飼料である糠や藁は百姓に分けてもらうよう申し出ること。

 

 

同日、ほぼ同文の文書が片桐貞隆・石田正澄宛に発せられている*18。そちらでは長良川から越前との国境までを検地の範囲としており、具体的に検地を行うにあたって示された方針であると見てよい。言い換えれば、こうした原則はその都度試行錯誤的にだされたものと見るべきだろう。全体的にはある方向性を示しているものの、細部は実情に合わせて軌道修正していったものであると。

 

①は田畠屋敷地の区別なく面積を、従来の「30間*12間=360歩=1反」から「5間*60間=300歩=1反」に変更することを命じている。今日も「1坪」という単位が用いられるが「1間*1間=1歩=1坪」なので、360坪=1反から300坪=1反へ切り替えたことになる。しかし人々の意識が簡単に切り替わるわけではないし、当時は通信や交通手段が極めて限られていたこともあり、またメートル原器のようなものもなくスムースに移行したと見るわけにはいかない。

 

1反を360歩から300歩に「圧縮」した意図は明確ではないものの年貢量が1反あたりで測られる以上百姓の負担が増えたことは間違いない。安良城盛昭がこれを「作合否定」と呼び、中世の家父長制的奴隷制ウクラードから近世的な小農自立型ウクラードへの画期をなすものと位置づけたのはあまりにも有名である。

 

②と③は田と畠の「斗代」を地種によって格付けしたものである。「斗代」が(平均的な)生産高なのか年貢納入高なのか、年貢賦課基準高なのかは論争のあるところである。

 

④は検地を行う者が、受ける側の百姓から金銭や物品を受け取って手心を加えることを禁じたものである。

 

⑤も④と同様、検地を行うものと受ける側の癒着を防ぐ目的だとみなせる。

 

*1:1間=6尺、約1.8メートル

*2:長方形5間*60間=300歩=1反と定める。それまでは30間*12間=360歩=1反

*3:測量

*4:中世社会は様々な升があったので「京枡」に統一しようとしたが、現実には困難を極めた。また偽の「京枡」を売る者も現れた

*5:「斗代」は中世では1反あたりの年貢収納高。1石は約180リットル、1斗は約18リットル。米は現在重量で取り扱われるが最近までは「俵」や「斗」などの容積で取り引きされていた

*6:現状に鑑みて

*7:「給人・百性」と並列関係にあるのか、「給人が百性に恃まれ」なのかで意味はまったく変わってくるが、受け身の「らる」があるので後者と解釈した

*8:恃む・頼む。あてにする、頼りにする

*9:「礼儀」には謝礼、報酬の意味もある

*10:謝礼として贈る金品。フロイス『日本史』もたびたび指摘しているが日本では人を訪ねるさい礼物や礼銭を持参する習慣があった

*11:自弁。ここでは百姓から酒食を振る舞われること、あるいはそれを強要することに対しての自弁。天正6年3月19日柴田勝家黒印状にも同趣旨の文言がある

*12:「雑地」。塩や味噌を置くところ。転じてここでは塩や味噌類のこと

*13:籾殻

*14:藁、ぬかとともに馬の飼料

*15:グレゴリオ暦1589年11月8日、ユリウス暦同年10月29日

*16:三成

*17:吉継

*18:2718号