定
①一、家中*1におゐて奉公人不寄上下、いとま不出に*2、かなたこなた*3へ罷出輩在之ハ、可加成敗条可申上事、付遣女*4同前事、
②一、知行遣候已前之*5領中つきの*6若党*7・小者*8いつかた*9に奉公仕候共、当給人*10違乱有間敷候、但田地事ハ給人次第可取上事((田地は給人の意のままに取り上げても構わない))、
③一、知行遣候以後*11、其在所*12之百姓他所へ相越ニおゐてハ曲事たるへし、いかやうニも給人任覚悟*13、其もの*14からめ*15取上可申事、
五*16
④一、もとの在所へ於還住者、不可有違乱事、
四
⑤一、此以後*17何々*18の百姓たりといふ共、前〻ゟ田地作候百性を此以後に者、めしつかふ*19へからさる事、
右条〻、一柳市助*20・小の木清次*21・尾藤甚右衛門*22・戸田三郎四郎*23、此四人として聞立*24有様ニ可申上候、もし他所ゟ於聞付者、四人之者可為曲事者也、
天正十
卯月 日 (発給人欠)
(宛所欠)
「一、412号、127~128頁」
(書き下し文)
定
一、家中において奉公人上下によらず、暇出ださずに、彼方此方へ罷り出ずる輩これあらば、成敗を加うるべきの条申し上ぐべきこと、付けたり遣女同前のこと、
一、知行遣わし候已前の領中付の若党・小者何方に奉公仕り候とも、当給人違乱あるまじく候、ただし田地のことは給人次第に取り上ぐべきこと、
一、知行遣わし候以後、その在所の百姓他所へ相越すにおいては曲事たるべし、如何様にも給人覚悟に任せ、その者搦め取り上げ申すべきこと、
五
一、もとの在所へ還住するにおいては、違乱あるべからざること、
四
一、これ以後何々の百姓たりというとも、前〻ゟ田地作り候百性をこれ以後には、召し使うべからざること、
右の条〻、一柳市助・小野木清次・尾藤甚右衛門・戸田三郎四郎、この四人として聞き立て有様に申し上ぐべく候、もし他所ゟ聞き付くるにおいては、四人の者曲事たるべきものなり、
(大意)
定
一、家中において奉公人の身分の上下によらず、暇願いを主人に出さずにあちらこちらで雇い主を変える者がいれば成敗すべきであると報告しなさい。つけたり、遣女も同様のあつかいとする。
一、知行地を新たに与える以前の領内に住む若党・小者がどこへ奉公したとしても現在の給人は異議を申し立ててはならない。ただし、出奔した若党・小者の田地については給人の裁量で取り上げても構わない。
一、知行地を新たに与えたあとに、その領地内の百姓が他領へ出ることは曲事とする。処分は給人の裁量とする。
一、本来の郷村に還住する者については給人は異議を申し立ててはならない。
一、知行地を与えたあとに、誰それの百姓であると主張したとしても、以前から田地を耕作してきた百姓を今後使役してはならない。
右の条々、一柳直末・小野木重次・尾藤知宣・戸田勝隆の四名として尋ねだし、ありのままに報告しなさい。もし横から聞き付けた場合は四名の者の責任とする。
本文書は受発給人を欠く写であるが、「四」、「五」など原本を写し取った際の正誤訂正の跡が見られるため、写すべき原本が存在した可能性が高い。秀吉の在地政策を示す貴重な文書であるが、残念ながら本文書のみしか伝わっていない憾みも残る。
毛利攻めにおいて新たに獲得した領地を家臣=給人に与える際の、在地支配のガイドライン的な文書と思われる。
①身分の上下にかかわらず奉公人が、主人に暇乞いをせずに勝手に雇い主を変える者がいたようでそれを禁じたものである。兵士の員数確保のためだろうか。
②新たに知行地を与えた給人と以前の領主に仕えていた若党・小者の雇用主替えをめぐってトラブルがあったらしい。若党・小者はより厚遇の雇い主を希望し、一方の給人たちは引き留めようとしたのであろう。秀吉は移動の自由を認めているが、そのさい田地の作職は取り上げても構わないとする。
③百姓については若党・小者と異なり移動の自由を禁じている。またその処分は給人の裁量に任せると定めている。
④ただし、移動しようとする百姓のうち還住する者については妨げてはならないとする。
⑤この文書発給以後、誰それの百姓であると主張しても、以前から田地を耕作している者を手作地で使役してはならないとする
この五箇条については一柳直末ら四名の責任としていることから、この時期の在地支配の吏僚的存在であったと考えられる。
注目すべきは、③と⑤で「百姓」と一括りにしている点で、有名な次の文書と好対照をなしている。
<参考史料>
条〻 三方郡之内
せくみ浦*25
(中略)
一、おとな百姓として下作*26ニ申付、作あい*27を取候義無用ニ候、今まて作仕候百姓直納*28可仕事、
一、地下之おとな百姓、又はしやうくわん*29なとに、一時もひら之百姓つかわれましき事、
右所定置如件、
牧野信之助編『越前若狭古文書選』637~638頁
参考史料は「おとな百姓」や荘官など在地の有力者が「ひら之百姓」を使役して「作あい」を取ることを禁じている。つまり「作あい否定」=小農自立政策が読み取れるとされてきた。これとくらべると天正10年段階の秀吉は「百姓」の階層性に言及せず、給人手作地の百姓使役禁止など太閤検地の政策基調の萌芽が見られるものの、「作あい否定」のような明確な目標はまだ見えていないといえる。
*1:秀吉家臣全体
*2:暇乞いをせず
*3:彼方此方
*4:ケンジョ、「遣手」(ヤリテ)、「遣手婆」(ヤリテババ)ともいう。遊郭で遊女などを保護監督する者
*5:知行地を与える以前の
*6:「領知に附属する」の意か、以前の領主の領地内に住んでいた
*9:何方
*10:現在の給人、知行地を与えられた新しい領主
*11:知行地を与えてのちの
*12:知行地内の郷村
*13:給人=領主の差配に任せて
*14:者
*15:搦
*16:本文書を写し取ったあとに順序を間違えたため「五」「四」と書き加えたものであろう
*17:この文書発給以後
*18:ドレドレ、誰それの・領主の
*19:召使、給人の手作地で百姓を使役することか
*20:直末
*21:小野木重次
*22:知宣
*23:勝隆
*24:聞き出す、尋ね出す
*26:小作
*27:小作料
*28:直接納めることで「作あい」を取れないようにする