日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年6月29日上杉景勝宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

於八王子城虜*1之女共*2六十余人被差越候*3、則雖可被*4加御成敗候、国*5可成忘*6所候と被*7思召、何*8助遣候条、在〻如元慥ニ送届、可被*9返付候、但小田原ニ籠城之者共妻子ハ、最前請取候城〻如並申付、可被*10遣候、猶増田右衛門尉*11可申候也、

 

    六月廿九日*12 (朱印)

       

         羽柴越後宰相中将とのへ*13

 

(四、3277号)
 
 
(書き下し文)
 

八王子城において虜(とりこ)の女ども六十余人差し越され候、すなわち御成敗を加えらるべく候といえども、国亡所になるべく候と思し召され、いずれも助け遣わされ候条、在々へもとのごとくたしかに送り届け、返し付けらるべく候、ただし小田原に籠城の者どもの妻子は、最前請け取り候城々なみのごとく申し付け、遣さらるるべく候、なお増田右衛門尉申すべく候也、

 

(大意)
 
八王子城で捕虜となった女ども60人あまりをこちらに送り届けたので、すぐさま斬首に処すべきところだった。しかし大地が荒廃してしまうと思い助命しそちらへ送った。郷村へ送り届け、以前のように帰農できるようにしなさい。ただし、小田原城に立て籠もっている者たちの妻子は、以前落城した城の扱い通り命じ、こちらへ送り出すようにせよ、詳しくは長盛が申す。
 

 

 

八王子城を包囲していたのは上杉景勝軍と前田利家軍で、その当事者である景勝に小田原城に陣取った秀吉から発せられたのが本文書である。

 

八王子城の縄張り図、大まかな位置と八王子城の遠景を以下に転載した。

 

八王子城にて生け捕った女たち60余名が小田原城を包囲している秀吉のもとに送り届けられた。そこで全員斬首すべきだったが、郷村が荒廃してしまうので帰農できるよう手配せよと述べている。しかし小田原城に立て籠もっている者の妻子はこちらへ送るようにと命じている。

 

前回読んだ文書では撫で斬りにしたと加藤清正に書き送っている。こちらの読み間違いなのか、秀吉自身よく把握していなかったのかは今後の課題としたい。ともかく大河ドラマで女装して難を逃れるという発想自体存在しなかったことは確かである。

 

天正18年6月28日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

 

Fig.1 八王子城縄張り図

 

                                    『八王子市史』下巻504~505頁

Fig.2 八王子城の位置

 

                                                  同上書542~543頁間に挿入

Fig.3 八王子城を望む

                                          同上476~477頁

 

*1:擒・俘・囚・俘虜などとも書く。捕虜のこと

*2:「ども」は複数を表す接尾辞

*3:尊敬の助動詞「被」は景勝に対するもの。本文書では秀吉に対するものと混ざっている。これは右筆から見ての序列が関わっているのかもしれない。以下「景勝」、「秀吉」と注釈する

*4:秀吉

*5:国とは本来大地や土地の意味でここでもそういった意味

*6:亡=耕作者のいない田畠

*7:秀吉

*8:秀吉

*9:景勝

*10:景勝

*11:長盛

*12:天正18年、グレゴリオ暦1590年7月30日、ユリウス暦同年同月20日

*13:上杉景勝