「暖簾に腕押し」「糠に釘」状態なので今回でこの話題は終えることとする。大学のレポートとして及第点はもらえないがテレビ番組としては成立する現状は憂うべきと思う一方、所詮エンターテインメントに過ぎないといってしまえばそれまでである。
この番組は江戸東京礼賛を目的としているので人口集中に伴う都市問題、たとえばゴミ処理問題に言及することはない。人口増の要因も、江戸に住む人々が家族を形成して増える自然増と、周辺から衣食住を求めてあるいは口減らしで移住し増える社会増の、大きくふたつに分かれるがその区別もしていない。都市下層民など存在しなかったかのようであり、この番組で描かれる「江戸」はまるでパラレルワールドである。
この話題を終えるに当たり、同じ年に公儀手伝い普請を命じられた加賀前田家の事例を採り上げ、肥後細川家との異同(?)を浮き彫りにしてみたい。
史料1 寛永12年8月26日(加賀藩史料)
(書き下し文)
①一、当年伊豆山・江戸へ遣わし候一年切りの奉公人*1、侍・小者によらず、来年江戸御普請*2中は相替わらず召し仕るべし、しかるうえは請人手前、当請状のごとく裁許せしむべきこと
②一、来年一記(ママ)居の役人、侍・小者によらず、当年十月中に金沢へ罷り出で、奉公の年月相究むべく候、
③一、諸給人知行所の百姓、田畠を構わざる者相改め、来年江戸御普請中召し仕るべし(以下給金の相場)
…④御分国の者、あるいは金堀と号し、あるいは日用取奉公のため、他国へ罷り越すこと御停止候、
①、②より「一年切りの奉公人」のなかに「侍」や「小者」と呼ばれる者がいたことが確認できる。「侍」は年季契約の奉公人の身分呼称として使われていたのだ。
また③は田畠を耕していない百姓を調べ上げ、手伝い普請に従事させろと命じているのである。ここでも土地を与えられている者は「給人」と呼ばれており「侍」とはまったく異なる地位にあったことがわかる。
以上の点から、同じ年に江戸の公儀普請を命じられた前田家は、細川家と異なり(?)労働力を「侍・小者」といった「一年切りの奉公人」や「田畠を耕さない百姓」に求めていたことが確認できるのである。
次に徳川初期の法令をひとつ見ておこう。
(書き下し文)
一、武士の面々、侍の儀は申すに及ばず、中間・小者にいたるまで一季居*3一切抱え置くべからざること、
武士は、侍・中間・小者などの一年切りの奉公人を雇ってはいけないという命令である。つまり「侍」とは「武士」に雇傭される年季奉公人の呼称であったのだ。
大日本史料総合データベースで「一季居」を検索してみると次のような結果が得られる。