天正14年1月19日、秀吉は家臣宛に十一ヶ条からなる定書を発した。奉公人や百姓をどう扱うべきか定めた長大な朱印状である。もっとも今のところ原本は見つかっておらず、写が5通ほど残されているだけである。しかしいずれもほぼ同文であることから、この文書が発給されたことは間違いないであろう。
第一条に見える奉公人は「侍」や「若党」などの戦闘員、「中間」(チュウゲン)、「小者」、「荒し子」と呼ばれる非戦闘員に分かれるが、いずれも戦闘に必要欠くべからざる重要な人員である*1。これらの軍事要員を確保するため、家臣に念を押したようだ。
ところでタイトルに「加藤嘉明宛(カ)」と入れたが、充所が書かれていないため不適切かもしれない。ただ、本文書が近江水口加藤子爵家に伝わったことを強調したいためあえてそうした。
長いが重要なので一条ごと読んでいきたい。
奉公人などにつき定写(文書集の表題)
定
一、諸奉公人、侍事ハ申に不及、中間・小者・あらし子に至るまて、其主に暇を不乞出候儀、曲事候之間、相拘へからす、但まへの主に相届、慥合点有之ハ不及是非事、
『秀吉文書集三』1842号、6頁(書き下し文)定
一、諸奉公人、侍のことは申すに及ばず、中間・小者・あらし子に至るまで、その主に暇を乞わず出で候儀、曲事に候のあいだ、相拘うべからず、ただし前の主に相届け、慥かに合点これあらば是非におよばざること、
(大意)定める一、さまざまな奉公人について、侍は言うに及ばず、中間・小者・荒し子にいたるまで、奉公主に暇乞いをせず勝手に奉公主を変えることは曲事なので、新規の奉公先でこういった者を抱えてはならない。ただし、現在の奉公主に届け出で、確実な合意があればこの限りではない。
この文書を初見として、下表のように16世紀末から17世紀にかけて奉公人に関する法令が集中的に発せられている。
Table. 検索式「奉公人OR若党」による「大日本史料総合データベース」検索結果
より条件のよい奉公先を求めて「侍」をはじめとする奉公人たちが勝手に奉公先を渡り歩いていたらしい。こうした動向に対し危機感を抱いた秀吉が、歯止めをかけるべく家臣たちに促したのであろう。
*1:藤木久志氏は中世の戦争を、飢えた百姓たちが「食うための戦争」と位置づけている