日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正10年6月5日中川清秀宛羽柴秀吉書状

  只今の殿*1迄打入*2候之処、御状披見申候、今日成次第*3、ぬま*4迄返申候、

  古左*5へも同前候、

自是可申存刻、預示快然候、仍只今、京より罷下候者慥申候、(闕字)上様*6并殿様*7何も無御別儀、御きりぬけ*8なされ候、ぜゝか崎*9へ御のき*10なされ候内ニ、福平左*11三度*12つきあい*13、無比類動*14にて、無何事之由、先以目出度存候、我等も成次第、帰城*15候条、猶追〻可申承候、其元之儀、無御由断御才覚専一候、恐〻謹言、

                  羽筑

  六月五日*16           秀吉(花押)

  中瀬兵*17

    御返報*18

                              「一、424号、132頁」

(書き下し文)

これより申すべきと存ずるきざみ、預り示し快然に候、よってただいま、京より罷り下り候者慥かに申し候、上様ならびに殿様いずれも御別儀なく、御切り抜けなされ候、膳所が崎へ御退きなされ候うちに、福平左三度付き合い、比類なきはたらきにて、何事もなきのよし、まずもってめでたく存じ候、我等も成り次第、帰城候の条、猶追〻申し承るべく候、そこもとの儀、御由断なく御才覚専一に候、恐〻謹言、

 

只今野殿まで打ち入り候のところ、御状披見申し候、今日なり次第、沼まで返し申し候、古左へも同前に候、

(大意)

申し上げるべき時と存じておりましたので、貴書ありがたく存じます。さて、たったいま京都より下向してきた使者が確かに申すには、信長様および信忠様いずれも無事に切り抜けられ、近江国膳所まで退却されましたとのこと。その際福富秀勝がしっかり付き添い、比類のない働きをしました。まずはめでたく存じます。われらも早々に姫路へ帰りますので詳しくはまたその際に承ります。そちらも油断のないようにしてください。謹んで申し上げました。

 

現在備前の野殿まで戻ったところであなた様からのお手紙を拝読しています。今日には沼まで戻ります。古田織部にも同様に伝えました。

 

 

 

 図 備中高松城備前野殿・同沼周辺図

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                   『日本歴史地名大系』岡山県より作成

本文書は織田信長・信忠父子が殺害された6月2日から3日後、中川清秀にあてて二人が無事近江国膳所まで逃れたと虚偽の情報を流したものとして知られる。この前日秀吉は毛利輝元吉川元春小早川隆景と起請文を交わして*19和議を結んでいる。

 

なお、中川清秀から秀吉に宛てた書状はブログ主の力量不足から見つけられなかった。神戸大学中川家文書へのリンクを貼ることでお詫びとしたい。

www.lib.kobe-u.ac.jp

*1:備前国都高郡野殿、図参照

*2:退却させる

*3:成り行きにまかせること、ここでは今日(=5日カ)になればの意

*4:備前国上道郡沼、図参照

*5:古田織部重然

*6:織田信長

*7:織田信忠

*8:切り抜け

*9:近江国志賀郡膳所が崎、膳所

*10:退き

*11:福富秀勝

*12:「つきあい」を強調

*13:付き合い、連れ添って

*14:ハタラキ

*15:姫路城へ帰ること

*16:天正10年

*17:中川瀬兵衛清秀

*18:脇付、清秀からの問い合わせに対する返答

*19:422号