日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年1月19日小早川隆景宛豊臣秀吉判物

 

  去十二月廿一日之書状、於京都到来披見候、

 

一、肥後之様子、安国寺*1一書之通被聞召候、属平均、諸城へ人数丈夫ニ指籠之由尤候、誠寒天之刻長〻在陣、別痛入候、

 

一、有動*2事、先書*3ニ委細被仰遣候通候間、可成其意候*4、則為御上使、四国衆・浅野弾正少弼*5・加藤主計正*6・小西摂津守*7、其外弐万余、明日廿日ニ被差遣候、於様子*8ハ被仰含候間、遂相談可被申付候事、

 

一、阿蘇*9之儀も一揆棟梁人*10可在之候間*11、有御糺明、可被加御誅罰と思召候処、以大友*12御侘言*13可申之由、沙汰之限候*14、是又様躰御上使ニ被仰付候事、

 

一、豊前之悪徒等*15悉令誅罰、首到来候、定其方へも可相聞候、

 

一、九州儀者度〻如被仰遣候、何方迄も於悪逆之輩者、不残此度可被加御成敗と思召候条、弥無緩可被申付候事専一候也、

 

   正月十九日*16 (花押)

        小早川左衛門佐とのへ*17

(三、2422号)
 
(書き下し文)
 

  去る十二月廿一日の書状、京都において到来し披見し候、

 

一、肥後の様子、安国寺一書の通り聞し召され候、平均に属し、諸城へ人数丈夫に指し籠むるの由もっともに候、まことに寒天の刻み長〻在陣、べっして痛み入り候、

 

一、有動のこと、先書に委細仰せ遣わされ候通りに候あいだ、その意をなすべく候、すなわち御上使として、四国衆・浅野弾正少弼・加藤主計正・小西摂津守、そのほか弐万余、明日廿日に差し遣わされ候、様子においては仰せ含められ候あいだ、相談を遂げ申し付けらるべく候こと、

 

一、阿蘇の儀も一揆棟梁人これあるべく候あいだ、御糺明あり、御誅罰を加えらるべくと思し召し候ところ、大友御侘言をもって申すべきの由、沙汰の限りに候、これまた様躰御上使に仰せ付けられ候こと、

 

一、豊前の悪徒などことごとく誅罰せしめ、首到来候、さだめてその方へも相聞うべく候、

 

一、九州の儀は度〻仰せ遣わされ候ごとく、何方までも悪逆の輩においては、残らずこの度御成敗を加うらるべくと思し召し候条、いよいよ緩みなく申し付けらるべく候こと専一に候なり、

 
(大意)
 
先月21日付の書状京都にて拝見しました。
 
一、肥後の状況について、恵瓊の書状にしたためたとおりうかがいました。諸国を平らげ、諸城に軍勢を備えたとのこと、実に結構なことです。実に寒さ厳しき折長期にわたる在陣ご苦労なことです。
 
一、有動兼元のこと、先日の書状に詳しくしたためたとおりですのでその通りに処置してください。すなわち上使として四国衆・浅野長吉・加藤清正・小西行長ほか2万名余の軍勢を明日派遣します。詳しいことは申し含めていますので相談して事に当たってください。
 
一、阿蘇惟光も一揆の首謀者であるので、吟味のうえ斬罪に処すべきところ、大友義統からの申し入れがあったので再吟味することにします。詳しくはこれまた上使に申し含めております。
 
一、豊前の逆徒どもは悉く討ち果たし、首が到着しました。そちらのお耳にも入っていることでしょう。
 
一、九州仕置については何度も命じているとおり、抵抗する者はどこまででも追い詰めて成敗してやりますので、いよいよ油断・怠りなく統治することに専念してください。
 

 

Fig. 肥後国人一揆関係図

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                      Google Mapより作成



肥後国人一揆の「張本人」つまり首謀者に対する処罰に関する文書であるが、肝心な部分については上使に「申し含めた」としてなぜか言明を避けている。

 

本文書に関連して2407号についても触れたが、ここで「百姓」という身分呼称について一言述べておく。

 

「身分」というとどうしても制度上定められたトップダウン方式のものを想像しがちである。しかし通信や交通手段の未熟な社会において、広範囲に監視の目を光らせた「ビッグ・ブラザー」*18が存在し得たとは到底思えない。外見からもその場で一目で推測しうる社会的実態を反映したものと考えるべきだろう。つまり、経済的・政治的・文化的・社会的・宗教的…な階層をある程度視覚化し、共有しうる社会的な指標を反映し秩序づけられ、ボトムアップ的に形成されたものとみる立場である。社会とは何かを共有することで成り立つが、そのひとつが身分秩序であり、社会的合意により形成された慣習である。逆に言えばその「合意」を見いだすことで社会の構成原理を知りうることが可能となる。

 

ある者をある身分と認定するのはその者が属している集団である、というのが20世紀第四四半期以降の共通理解である。百姓と定めるのは村であり、町人と定めるのは町であるといった具合である。ただし村に住んでいる、町に住んでいるからといってその住人すべてが百姓や町人であるわけではない。原則的に

        百姓/町人であるなら村/町に住んでいる  真

     村/町に住んでいるなら百姓/町人である  偽

となる。とくに町に住む者のうち「地主」、「家持」などの町人や町人に准ずる者は人口のわずか数パーセントを占めるに過ぎず、大部分は日雇い業や年季奉公で糊口をしのいでいた。

 

「百姓」は本来「姓を持つ多くの者」の意で「おおみたから」とも呼ばれ広く一般人民を指していたので、その実態は時代により異なる。

 

秀吉が「百姓」と呼び、家臣たちにも在地の者たちにも「百姓」という呼び名で通じる、社会的実態を持つ者が「すでにいた」ということが重要なのであって、その逆ではない。ただし「百姓」という身分の者がある単一の階層を形成するものだったかは検討を要する。

 

有動兼元らの首を持参した者が百姓だった場合の処遇が問題となっていた。彼らは兼元らとともに秀吉に抵抗した武装勢力である可能性がある一方、労働力として貴重である。一罰百戒的な立場からは厳罰に処すべきかもしれないが、仕置という点から見れば一刻も早く耕作に専念させるよう「寛大な」措置を採った方が功利的である。肥後国人一揆の戦後処理はきわめてむずかしものになったであろう。

 

*1:恵瓊

*2:兼元。肥後国人隈部親永の子親泰の重臣

*3:天正15年12月27日付隆景宛判物、2407号

*4:有動のことは、今度一揆張本人の儀に候あいだ、ことごとく誅罰を加えらるべく候条、一人も漏らさざるよう申し付くべく候…上使相越し次第相談を遂げ、有動首を刎ねるべく候、ただし百姓として有動一類首をきり出で候については、百姓の儀は助け置かるべく候か、なお御上使に仰せ含めらるべく候こと」。「ただし」以降は、地元の百姓が有動一族の首を持参した場合、持参した百姓たちを助けるかどうかについては上使に言い含めてありますの意

*5:長吉

*6:清正

*7:行長

*8:詳細

*9:惟光。阿蘇神社大宮司

*10:「張本人」と同様首謀者の意

*11:同2407号文書において「阿蘇のこと、神主若輩に候あいだ、下〻猥りにこれあるべきと思し食され、これまた上使と相談糺明を遂げ、一揆張本人成敗候は、をのづから異儀あるべからず候」と一揆の「張本人」=首謀者であり、当然斬罪に処すべきものとされていた

*12:義統

*13:申し入れ

*14:「沙汰の限り」、「沙汰の限りにあらず」には「是非を論じる範囲を超えている/論じるまでもなく」と「是非を論じる範囲内である」の相反する二通りの意味がある。ここでは後者の「成敗するかどうかの是非を論じる」の意

*15:城井鎮房

*16:天正16年

*17:隆景

*18:ジョージ・オーウェル『1984年』