本文書は「武徳編年集成」という18世紀半ばに編まれた徳川家康の一代記に引用されている写(copy)で、原本(original)は今のところ所在不明である。今日コピーと言えばもっぱら複写機でなされることが多く、領収書でカーボンコピー*1が用いられる程度だが、当時の「写」は手書きであった。そのため書き手により様々な取捨選択が行われうる。「武徳編年集成」の文書の引用は本文書のように発給者の名前のみ記し、花押や朱印といった様式については拘っていないが、文書集でも「朱印状写」と呼んでいるのでしたがった。
なお以下に当該文書が引用されているので参照されたい。
武徳編年集成 93巻 [23] - 国立国会図書館デジタルコレクション
昨廿一日、岩附城*2押寄、二三丸迄押破、首百余討捕之由神妙被思召候、此中*3ハ持兼*4候城計請取候而、強事*5無之様子候処、右之仕合*6外聞*7可然事に候、弥堅可申付候、女童部に至迄一人も不残、悉可加成敗候、討取*8首共為持*9可差越候、尚木下半助*10可申候也、
五月廿二日*11 秀吉
岡本下野守とのへ*12
(四、3219号)
(書き下し文)
昨廿一日、岩附城押し寄せ、二・三の丸まで押し破り、首百余り討ち捕るの由神妙に思し召され候、このなかには持ち兼ね候城ばかり請け取り候て、強事これなき様子に候ところ、右の仕合外聞然るべきことに候、いよいよ堅く申し付くべく候、女童部に至るまで一人も残さず、ことごとく成敗を加うべく候、討ち取り候首とも持たせ差し越すべく候、なお木下半助申すべく候也、
(大意)
昨日21日に、岩附城を攻め、二の丸三の丸まで突破し、首を100余り討ち取ったとのこと実に立派なことである。ここ最近は落城しやすい城だけ請け取り、強敵もいなかったところ、岩附城の二の丸三の丸を撃破したことは実に名声を高める働きぶりである。くれぐれも油断せぬように、女子どもにいたるまでひとりも残さず皆殺しにせよ。討ち取った首を秀吉の本陣まで持参させるように。詳しくは木下吉隆が述べる。
図1. 武蔵国埼玉郡岩附城周辺図
図2. 小田原北条攻め関係図
下線部にあるように岩附城に立て籠もった女性や子どもにいたるまで首を刎ねよと命じている。先走るが次回採り上げる文書では「ひとりも洩らさず討ち果たすべく候、女子共はことごとく此方へ差し越すべく候」とある。「ひとりも洩らさず討ち取った首」のうち「女子共」分は秀吉本陣ヘ送るように命じたのか、生け捕った「女子共」なのかというと前者と解釈する方が無理はない。女性が非戦闘員であるとは限らないが、子どもは明らかに戦力外である。殲滅せよと言っているに等しい。
*1:「領収書」として支払った側が受け取るのは複写されたものである。ペンで数値を改竄されないようにするためだが、近年はそのしくみを理解していない者も多く、書き換えて発覚するケースも多い。なおCarbon Copyの略語「CC」は電子メールの送信先として今日にその姿を留めている
*2:武蔵国埼玉郡。下図参照
*3:ここのところ
*4:もたない=防戦に耐えられない。落城しやすい
*5:おしごと。無理なこと
*6:しあわせ。良いことにも悪いことにも用いる。ことのいきさつ、めぐり合わせ
*7:名声、評判、名誉
*8:「候」脱カ
*9:「為」は使役の助動詞で「持たせ」。「為替」と同様
*10:吉隆
*11:天正18年、グレゴリオ暦1590年6月23日、ユリウス暦同年同月13日
*12:良勝