(黒字ゴシック体は小早川隆景への敬意表現、赤字は秀吉の自敬表現)
九州儀、小西摂津守*1罷上言上之通、具聞召候、其表有居陣、入精被申付之由尤候、然者肥後表之一揆和仁*2・辺春*3取巻由、寒天之刻、痛入雖被思召候、併其方外聞候之間、以仕寄*4責崩候歟、又者重〻塀・雲雁*5以下丈夫相付、干殺*6ニ成共、何之道ニも自今以後見こり*7之ため候間、一人茂不遁様可被申付候、
一①、右取巻之人数迄にてはか不行候者、久留米*8ニハ留守居丈夫残置、其方事肥後表へ被相越、和仁・辺春儀是非干殺ニ可被申付候、
一②、残城を相拘、一揆於楯籠者、自是*9御人数被遣可被仰付候事、
一③、国〻置目等猥候由被聞召候間、不斗乍御遊山被成御座、弥御改候て可被仰付候、来春先為先勢二三万御人数被遣、残党一〻*10可被刎首候、猶追〻可有言上候也、
十二月十日*11 (花押)
小早川左衛門佐とのへ*12
(三、2394号)
(書き下し文)
九州の儀、小西摂津守罷り上り言上の通り、つぶさに聞こし召し候、その表居陣あり、入精申し付けらるるの由もっともに候、しからば肥後表の一揆和仁・辺春取り巻く由、寒天の刻み、痛み入り思し召めされ候といえども、しかしその方外聞候のあいだ、仕寄をもって責め崩し候か、または重ねがさね塀・雲雁になるとも、いずれの道にも自今以後見懲りのため候あいだ、一人も遁れざるよう申し付けらるべく候、
一①、右取り巻きの人数までにて捗が行かずそうらわば、久留米には留守居丈夫残し置き、その方こと肥後表へ相越され、和仁・辺春儀ぜひ干殺しに申し付けらるべく候、
一②、残る城を相拘え、一揆楯て籠るにおいては、これより御人数遣わされ仰せ付けらるべく候こと、
一③、国〻置目などみだり候由聞し召され候あいだ、ふと御遊山ながら御座なされ、いよいよ御改め候て仰せ付けらるべく候、来春先先勢として二三万御人数遣わされ、残党一〻首を刎ねらるべく候、なお追〻言上あるべく候なり、
(大意)
九州の情勢について行長が申すところを詳細に聞きました。陣を構え入念に準備されたとのこと実にもっともなことです。さて肥後一揆勢の和仁親実・辺春親行が籠る田中城を包囲したとのこと、厳寒の季節実にご苦労なことでしょうが、そなたの外聞にも関わることですので仕寄で攻め落すか、あるいは十重二十重に虎落で包囲しようとも今後の見せしめのため一人も逃さぬようしてください。
一①、この包囲した人数だけで足りなければ、久留米城には最低限の留守居だけを残し、そなたみずから出陣し和仁・辺春をかならず干殺しにしてやってください。
一②、他の城に一揆が立て籠るようなことがあれば、当方より軍勢を派遣します。
一③、九州の国々で統治がうまくいっていないと聞き及んでいますので、物見遊山がてら私が出陣し仕置を徹底させるつもりです。年明けすぐにでも先勢として2、3万人を派兵し、残党の首を一人残らず刎ねてやります。なお、何かあればご報告ください。
肥後国人一揆は隈府の隈部親永のみならず、玉名郡の和仁親実、辺春親行へも飛火した。位置関係は下図に示した。
Fig. 肥後国玉名郡田中城・坂本城周辺概略図
本文中黒と赤で分けたように、隆景には依然として敬意表現を多用している。のみならず文書形式も印判を捺す朱印状ではなく、花押を署名する判物であり、隆景の相対的地位の高さがうかがえる。同日同内容の朱印状が高橋直次、立花宗茂、筑紫広門、鍋島直茂、龍造寺政家に、花押を据えた判物が毛利輝元*13に発給されている*14ことに鑑みると、なんどか本ブログで指摘したように、毛利輝元や小早川隆景は他の秀吉家臣より厚遇されていたようだ。
さて前書では、隆景の「外聞」に関わることなので仕寄で攻め落すか、虎落などで包囲してでも「見懲り」=見せしめのため一人も逃さぬよう指示している。こうした「一罰百戒的な」戦術は費用対効果の面できわめて有効である。敵対する者を徹底的に殲滅しても獲得した土地を耕す労働力がなければ、ただ単に征服欲をみたしたに過ぎない(追記参照)。可耕地を耕すことのできる最低限の労働力を確保しなければ無意味である。
①は現在田中城を包囲している兵力だけで不十分なら、隆景の居城の久留米城には最低限の留守居を残し、隆景みずから兵を率いて干殺しにするよう命じている。この箇条は隆景の知行高に課された軍役量の最大限をもって、あるいはそれを超えてでも制圧するよう命じたとも取れる。
②はほかの城で一揆勢が蜂起するようなことがあれば、秀吉より軍勢を派遣すると述べている。肥後のみならず肥前の西郷信尚、豊前の城井鎮房のように反旗を翻す可能性のある勢力がまだ現れるかもしれないと踏んでいたようだ。
③は年明けすぐにでも秀吉が出陣して、うまくいっていない九州仕置をみずから行うと述べたものである。「ふとご遊山ながら」という余裕を見せた文言を入れているが、これは秀吉一流の政治的レトリックとみるべきであろう。
実はこの秀吉の指示は実行に移されたようで、田中城を仕寄で攻撃した絵図「辺春和仁仕寄陣取図」が山口県文書館のサイトで公開されている*15。これによると二重に雲雁(虎落)が張りめぐらされ、北に鍋島直茂率いる肥前衆、南に立花宗茂、東に筑紫広門、西に安国寺恵瓊や小早川秀包らが陣取っており、この虎落の内側の右(「南」側)に「仕寄」がひとつ中心部の「辺春」に迫っていたことがわかる。非常に興味深い史料なのでリンク先を参照することをおすすめする。
追記 2021年12月9日
もちろん征服欲を見たせるのは秀吉ただひとりである。軍役を課される諸大名はもちろん、戦闘員や陣夫として徴発される百姓たちの動機や目的はそのようなところにない。様々な階層や諸勢力ごとに思惑があったと解するのが自然であろう。そうした諸要因の総体として諸事象を腑分けすべきというのが本ブログの立場である。
*1:行長
*2:親実。肥後国玉名郡田中城主
*3:親行。同国玉名郡坂本城主。佐々成政援軍の立花宗茂軍の進路を妨げるため和仁親実とともに田中城に籠城
*4:シヨリ/シヨセ。城攻めの際に用いる、竹を数十本まとめて束にした楯。また城を攻めること自体を「仕寄/為寄」という
*5:モガリ=虎落。竹で作った垣根
*6:敵兵を飢えさせること
*7:見懲り=見せしめ。今日の「一罰百戒」にあたる
*8:筑後国、隆景居城
*9:上方より
*10:一人残らず
*11:天正15年
*12:隆景
*13:本文書同様に輝元への敬意表現も用いられている
*14:2395~2400号
*15:http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/HQ_DL/hebaru_L.jpg