高麗鷹*1二居・同馬一疋鞍置*2到来之、希有之仕立御感悦候、随而国主*3参洛之儀、依寒天不自由、来春為可召俱*4、其地滞留*5之段、長〻之辛労之至候、猶小西摂津守*6可申候也、
十二月廿八日*7 (花押)
宗対馬守とのへ*8
(四、2873号)
(書き下し文)
高麗鷹二居・同馬一疋鞍置きこれ到来し、希有の仕立ご感悦に候、したがって国主参洛の儀、寒天により不自由、来春召し俱すべきため、その地滞留の段、長〻の辛労の至りに候、なお小西摂津守申すべく候なり、
(大意)
高麗鷹2居、鞍を置いた高麗馬1疋到着した。実に上質の出来映えで悦びに堪えない。朝鮮国王参洛の件、寒天により思うままに動けず、来春に彼をともなうためにその地に留まっていることご苦労なことである。なお、行長が口頭にて申すであろう。
対馬は朝鮮半島に近いこともあって、古くから交流が盛んだった。李氏朝鮮でハングル制定にも寄与した申叔舟が東アジアの歴史や地理、風俗、言語、通交などを克明に記した研究書が『海東諸国記』(ヘドンチェグツキ)で1471年に完成した。歴史学のみならず中世琉球語研究などでも活用されている。
この史料の魅力はなんと言っても地図にある。京都には「畠山殿、細川殿、武衛(斯波)殿、山名殿、京極殿」、周防には「大内殿」、九州には「小二(小弐)殿、千葉殿、大友殿、菊池殿」と記され、また富山浦(現釜山)、蔚山には「倭館」も見える。本文はほぼ漢文で、ごく一部が漢字ハングル交じりで記されている。対馬はその『海東諸国記』の「海東諸国総図」に一段と大きく描かれている。これはその「心理的近さ」が描画に現れたものであろう。
図1. 『海東諸国記』(15世紀)総図に見える対馬島
本文書で秀吉は朱印でなく花押を据えている。これは朱印状より厚礼である。
朝鮮国王宣祖を参洛させるべく当地に滞在している宗義智の労をねぎらったものである。
小田原北条氏への開戦を前にしても朝鮮国王の参洛にこだわっている点は興味深い。