前々回に採り上げた文書に登場した石田三成の同日付書状写があるので今回読んでいくこととする。なお中野等『石田三成伝』*1も本文書を採り上げ丁寧な解説を付しているのでご興味のある方はそちらも参照されたい。
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(朱筆)
「石田治部少輔三成書」
態令啓候、義宣*2至平塚*3御著之由尤候、今日ハ其元有御休足、明日(闕字)殿下*4御本陣へ被成御越可然存候、就其前〻ハ貴殿為御一人佐竹中御仕置*5被仰付候処ニ、義宣御若気故歟、及近〻余多ニ御用被仰付候*6由候、左様ニ候とて、只今之儀諸事貴所御才覚を以不被仰付候ハ、何事も不可相澄事*7、義宣御進物等之事、見苦敷候てハ更〻御為不可然候、御進退此節相居儀候条、一廉御調法*8尤候、佐竹於御内輪*9(闕字)殿下御存知之方ハ貴殿御一人ニ候、然時諸篇*10御思慮候て者、義宣御為之儀ハ勿論、其方御手前*11迄御越度候様可被思食候間、相残御家中衆ニ無憚、如前〻被加御異見、御家*12無相違様ニ御分別此時相究候、猶使者嶋左近*13申含候条、不能懇筆*14候、恐々謹言、
(朱筆)
「天正十八」 石田治部少輔
五月廿五日*15 三成(花押影)
佐竹中務太輔殿*16
御陣所
(『茨城県史料 中世編4』33号文書、167頁)
(書き下し文)
わざわざ啓せしめ候、義宣平塚に至り御著の由もっともに候、今日はそこ元御休足あり、明日殿下御本陣へ御越なされ然るべくと存じ候、それについて前々は貴殿御一人として佐竹中御仕置仰せ付けられ候ところに、義宣御若気ゆえか、近々に及び余多に御用仰せ付けられ候由に候、さように候とて、只今の儀諸事貴所御才覚をもって仰せ付けられずそうらわば、何事も相澄むべからざること、義宣御進物などのこと、見苦しく候てはさらさら御為然るべからず候、御進退この節相居り儀候条、ひとかど御調法もっともに候、佐竹御内輪において殿下御存知の方は貴殿御一人に候、しかるとき諸篇御思慮候ては、義宣御為の儀はもちろん、その方御手前まで御越度に候よう思し食さるべく候あいだ、相残る御家中衆に憚かりなく、前々のごとく御異見を加えられ、御家相違なきように御分別この時相究め候、なお使者嶋左近申し含め候条、懇筆にあたわず候、恐々謹言、
(大意)
書翰をもって申し上げます。義宣殿が平塚に到着されたとのこともっともなことです。今日はそこでご休息なさり、明日秀吉本陣ヘお越しになればよいと思います。そこで以前は貴殿(東義久)一人で佐竹氏一門を差配されてきたところ、義宣がまだ若いためか最近やたらとそなたに用を申し付けているとか。そうであれば、今回の秀吉本陣ヘの参陣について万事貴殿が差配しなければ何事も立ち行かなくなるでしょう。義宣の秀吉への進物が見苦しい物では佐竹家の為にもなりません。佐竹家の命運はこの時にかかっていますので、一層熟慮されますように。佐竹家一門において秀吉が見知っているのは義久殿御一人です。このようなときにあれこれとお考えになっては、義宣殿はもちろんそなたや佐竹家一門までの越度と殿下はお思いになるでしょうから、ご一門に憚ることなく、以前のように意見するなどして御家が傾くことがないように分別をお持ちください。なお使者嶋清興に申し含めましたので詳細は避けました。恐々謹言。
本文書の充所「佐竹中務太輔」とは東(佐竹)義久で、図1にみるように佐竹宗家の当主である義宣は18~20歳の若さで家督を継いだため、彼の補佐役を務めていた。なお父の義重は義宣への家督相続時43歳でなお実権を握っていた。
図1.佐竹三家系図

さて石田三成は佐竹氏との「取次」役で、義宣・義久両名から秀吉へ贈答品が贈られた際に三成や増田長盛も金品を受け取っている(表1)。馬や金が多いのは佐竹領国内に金山が豊富にあり、また馬の産地であったことも関係しているだろう。
表. 佐竹義宣・宇都宮国綱らの秀吉への贈答品

なお佐竹氏を盟主とする国衆らは図2の通りである。
図2. 天正初年の佐竹氏および国衆勢力図

ところで小田原北条氏を除く東国戦国大名は血縁・地縁的結合関係によって領域集団を結んでおり、佐竹氏もその例外ではなかった。「洞」(うつろ)と呼ばれるものがそれに当たる。下図3で佐竹義宣と東義久との関係を「主従関係」のように位置づけたが、正確には家臣たちの独立性の高い盟約的、誓約的関係だった。そのため「洞中」内での紛争も絶えなかった*17。
図3. 秀吉・三成・義宣・義久の主従関係

佐竹氏は伊達氏と南奥羽地方をめぐって争っており、秀吉の小田原参陣命令に遅れていた。そこで石田三成を介して秀吉と佐竹氏のあいだを取り持つ執り成しが行われたのであろう。中野等氏の見解にしたがえば「指南」という行為になるだろうか*18。
三成は直接義宣に述べるのではなく、一族の東義久から助言するように述べている。ここにいまだ流動的な豊臣政権の構造をみることもできよう。
*1:106~107頁、吉川弘文館、2017年
*2:佐竹。常陸国久慈郡太田城主
*3:相模国大住郡
*4:秀吉
*5:義久がひとりで佐竹家中を切り盛りするよう義宣から命ぜられた
*6:義宣がまだお若いのでなんでもかんでも義久に用を申し付ける
*7:現実には義久殿のご才覚次第で片付かないことはありません
*8:熟慮すること、紛争を調停すること
*9:佐竹家一門
*10:あれこれ
*11:佐竹家一門
*12:佐竹家
*13:清興
*14:丁重な手紙
*15:グレゴリオ暦1590年6月26日、ユリウス暦同年同月16日
*16:東義久
*17:『茨城県史中世編』312~316頁
*18:中野等「豊臣期の文書にみえる『取次』『御取成』などの仲介文言について」、『古文書研究』89号、2020年