覚
一①、佐竹*1・宇都宮*2・結城*3・那須*4・天徳寺*5・其外同名*6家来、下野・常陸・上野三ヶ国得(闕字)上意*7候者共、今度治部少輔*8申次第、何へ成とも一手*9ニ相動*10可令在陣事*11、
一③、城〻兵粮事、船にても取安所ハ、此面*15へ可相着候、遠所ニ有之分ハ、扶持方*16ニ可相渡事、
一④、景勝*17・利家*18・真田*19扶持方儀ハ、上野城之内ニ有之兵粮可相渡事、
一⑤、城〻兵粮米・玉薬以下有之所、能〻可相改*20候事、
右之通成其意、堅可申付候也、
五月廿八日*21 (朱印)
(充所欠)
(四、3232号)(書き下し文)
覚
一①、佐竹・宇都宮・結城・那須・天徳寺・その外同名家来、下野・常陸・上野三ヶ国上意を得候者ども、このたび治部少輔申し次第、いずれへなるとも一手に相動き在陣せしむべきこと、
一②、上野麦所務のこと、在々念を入れ申し付くべきこと、
一③、城々兵粮のこと、船にても取り安きところへは、このおもてへ相着くべく候、遠所にこれある分は、扶持方に相渡すべきこと、
一④、景勝・利家・真田扶持方の儀は、上野の城のうちこれある兵粮相渡すべきこと、
一⑤、城々兵粮米・玉薬以下これあるところ、よくよく相改むべく候こと、
右の通りその意をなし、堅く申し付くべく候なり、
(大意)
覚
一①、佐竹・宇都宮・結城・那須・天徳寺・その外親族郎党家臣、下野・常陸・上野三ヶ国のうち秀吉に臣従した者たちは、このたび三成が申し次第に、どこであろうと一個の軍団として行動し、在陣すること。
一②、上野の麦年貢納入の件は、郷村の実り具合を入念に調べ、徴収すること。
一③、城々に残された兵粮について、船で運びやすいところはこちらに運送するように。遠い所の場合は兵士たちの食い扶持として配分すること。
一④、景勝・利家・昌幸の兵士たちの食い扶持については、上野の城に残されている兵粮を配分すること。
一⑤、城々に兵粮米・玉薬以下が残されていたら、よくよく調べ上げ帳面に記載すること。
右の条々を理解し、きびしく下々へ命ずること。
図. 天正18年石田三成軍事指揮下に入った東国大名

われわれの間には曹長、小隊長、十人組長、百人隊長などがある。日本人は一切このようなことを気にかけない。
日本の軍隊の指揮命令系統が一貫しておらず、統率の執れなかったことを物語っている。大名クラスの者も兵士が合戦の勝敗より掠奪に夢中になっていて「どうしたものか」と頭を悩ませていたようだ。
*1:義重、常陸国久慈郡太田城主。下図参照、以下同様
*2:国綱、下野国河内郡宇都宮城主
*3:晴朝、下総国結城郡結城城主
*4:資晴、下野国那須郡烏山城主
*5:佐野房綱、下野国安蘇郡唐沢山城主
*6:ドウミョウ、一族
*7:秀吉の意思
*8:石田三成
*9:まとまった軍勢として
*10:ハタラク、軍事行動に出る
*11:三成の軍事指揮下に入るという意味
*12:「所務」は年貢収納の権利義務を指す用語
*13:「在々念を入れ」とは郷村をしっかり検見して麦の実り具合を確かめよ、という意
*14:「申し付ける」内容は年貢徴収のこと
*15:秀吉本陣のある小田原
*16:兵粮を担当する部局、兵粮奉行
*17:上杉
*18:前田
*19:昌幸
*20:「改める」は「reform」のような意味ではなく、調べる、吟味するの意。→「宗門人別改帳」
*21:天正18年。グレゴリオ暦1590年6月29日、ユリウス暦同年同月19日
*22:文永1年4月26日式目追加
*23:田麦徴収令
*24:三鬼清一郎「田麦年貢三分一徴収と荒田対策」『名古屋大学文学部研究論集(史学)』18号、1971年
*25:『ヨーロッパ文化と日本文化』115頁、岩波文庫