日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年5月28日(充所欠)豊臣秀吉朱印状

 

 

 

        覚

 

、佐竹*1・宇都宮*2・結城*3・那須*4・天徳寺*5・其外同名*6家来、下野・常陸・上野三ヶ国得(闕字)上意*7候者共、今度治部少輔*8申次第、何へ成とも一手*9ニ相動*10可令在陣事*11

 

、上野麦所務*12事、在〻念を入*13可申付*14事、

 

、城〻兵粮事、船にても取安所ハ、此面*15へ可相着候、遠所ニ有之分ハ、扶持方*16ニ可相渡事、

 

、景勝*17・利家*18・真田*19扶持方儀ハ、上野城之内ニ有之兵粮可相渡事、

 

、城〻兵粮米・玉薬以下有之所、能〻可相改*20候事、

 

右之通成其意、堅可申付候也、

 

     五月廿八日*21 (朱印)

 

       (充所欠)

 

(四、3232号)
 

(書き下し文)

 

        覚

 

、佐竹・宇都宮・結城・那須・天徳寺・その外同名家来、下野・常陸・上野三ヶ国上意を得候者ども、このたび治部少輔申し次第、いずれへなるとも一手に相動き在陣せしむべきこと、

 

、上野麦所務のこと、在々念を入れ申し付くべきこと、

 

、城々兵粮のこと、船にても取り安きところへは、このおもてへ相着くべく候、遠所にこれある分は、扶持方に相渡すべきこと、

 

、景勝・利家・真田扶持方の儀は、上野の城のうちこれある兵粮相渡すべきこと、

 

、城々兵粮米・玉薬以下これあるところ、よくよく相改むべく候こと、

 

右の通りその意をなし、堅く申し付くべく候なり、

 

 

(大意)

 

       覚

 

、佐竹・宇都宮・結城・那須・天徳寺・その外親族郎党家臣、下野・常陸・上野三ヶ国のうち秀吉に臣従した者たちは、このたび三成が申し次第に、どこであろうと一個の軍団として行動し、在陣すること。

 

、上野の麦年貢納入の件は、郷村の実り具合を入念に調べ、徴収すること。

 

、城々に残された兵粮について、船で運びやすいところはこちらに運送するように。遠い所の場合は兵士たちの食い扶持として配分すること。

 

、景勝・利家・昌幸の兵士たちの食い扶持については、上野の城に残されている兵粮を配分すること。

 

、城々に兵粮米・玉薬以下が残されていたら、よくよく調べ上げ帳面に記載すること。

 

右の条々を理解し、きびしく下々へ命ずること。

 

 

 

 

図. 天正18年石田三成軍事指揮下に入った東国大名

 

                               横浜市歴史博物館『秀吉襲来』54頁、1999年より作成

 

本文書には「覚」という表題が付けられており、また充所が書かれていないという特徴がある。史料の伝存状況も「古書目録」の写真から採用したという事情もあり、つかみ所のない点もある。ここでは書翰に付された「別紙」ではないかと仮定した上で論点を述べてみたい。
 
 
は常陸や下野の諸大名が「一手」に軍事行動を起こせるように石田三成の軍事指揮下に入れと命じている。各大名の軍勢が個々に軍事行動を行っていたのを三成指揮下に置き統一的な軍事行動に移せるようにするということである。しかし彼らの主君はあくまで秀吉であって三成ではない。
 
は上野国の麦収納について、徴収せよと命じている。麦は水田の裏作として鎌倉中期から普及し、鎌倉幕府も地頭が麦に諸役を課すことを禁じてきた*22。その「聖域」とも呼べる裏作に介入し始めたといえる。それは百姓から見れば負担がより重くなることを意味する。豊臣政権はその後の朝鮮出兵時、全国に裏作の麦三分の一納入を命じた*23。しかし百姓の反発が大きくすぐに撤回せざるを得なかった*24
 
 
③~⑤は兵粮や玉薬の調達方法をうかがわせる記述である。数万規模の軍勢が移動することは都市が移動するのと同様、宿不足や食糧不足、弾薬不足を必然的に招く。兵站が整っているか、もしくは現地で購入するか掠奪に頼るか。しかしこの記述によると、落城させた城に残された兵粮米や弾薬を鹵獲することが日常的に行われていたようである。
 
 
2025/09/26 追記
 
①についてイエズス会宣教師のルイス・フロイスはこう書き記している*25
 
 
 
われわれの間には曹長、小隊長、十人組長、百人隊長などがある。日本人は一切このようなことを気にかけない。
 
 

 

日本の軍隊の指揮命令系統が一貫しておらず、統率の執れなかったことを物語っている。大名クラスの者も兵士が合戦の勝敗より掠奪に夢中になっていて「どうしたものか」と頭を悩ませていたようだ。
 
 

*1:義重、常陸国久慈郡太田城主。下図参照、以下同様

*2:国綱、下野国河内郡宇都宮城主

*3:晴朝、下総国結城郡結城城主

*4:資晴、下野国那須郡烏山城主

*5:佐野房綱、下野国安蘇郡唐沢山城主

*6:ドウミョウ、一族

*7:秀吉の意思

*8:石田三成

*9:まとまった軍勢として

*10:ハタラク、軍事行動に出る

*11:三成の軍事指揮下に入るという意味

*12:「所務」は年貢収納の権利義務を指す用語

*13:「在々念を入れ」とは郷村をしっかり検見して麦の実り具合を確かめよ、という意

*14:「申し付ける」内容は年貢徴収のこと

*15:秀吉本陣のある小田原

*16:兵粮を担当する部局、兵粮奉行

*17:上杉

*18:前田

*19:昌幸

*20:「改める」は「reform」のような意味ではなく、調べる、吟味するの意。→「宗門人別帳」

*21:天正18年。グレゴリオ暦1590年6月29日、ユリウス暦同年同月19日

*22:文永1年4月26日式目追加

*23:田麦徴収令

*24:三鬼清一郎「田麦年貢三分一徴収と荒田対策」『名古屋大学文学部研究論集(史学)』18号、1971年

*25:『ヨーロッパ文化と日本文化』115頁、岩波文庫