高麗儀、柳川*1□*2遣、色〻入精段尤候、至来年可渡海由、被聞召届候、然者□*3已下可為造作*4候間、□□*5弐千石被遣之候、猶施薬院*6・小西和泉*7被申候也、
七月十六日*8 (花押)
宗対馬守とのへ*9
(三、2576号。下線部は引用者)(書き下し文)高麗の儀、柳川差し遣わし、色〻精を入る段もっともに候、来年にいたり渡海すべきよし、聞こし召し届けられ候、しからば賄已下造作たるべく候あいだ、八木弐千石これを遣わされ候、なお施薬院・小西和泉申され候なり、(大意)高麗の件について、柳川調信を朝鮮へ派遣し、種々交渉したことは忠節の至りです。来年には渡海することは確実だと関白様は聞き及んでいます。それについていろいろ費用が嵩むことでしょうから、米を2000石遣わします。なお詳細は施薬院全宗・小西隆佐が口頭で申し上げます。
本文書は下線部に敬意を表す「被」(らる)が用いられており、また朱印でなく花押が据えられていてやや厚礼に属する文書である。秀吉に臣従したとはいえ他大名より高位にあったようだ。
本文書に見られる小西隆佐の嫡男行長は2月29日、義智の後見人宗義調に宛てて「高麗よりの御左右ござなく候か、承りたく存じ候、殿下様*10高麗の儀切にお尋ねなされ候」と書き送っていて、小西ー宗ラインから朝鮮に交渉していたものと見られる。
またこのころの秀吉は「切にお尋ねなされ候」との文言が示すように比較的低姿勢だった。
なぜこの時期に「唐入」という発想が表出してきたのかについては、佐伯真一『「武国」日本』(平凡社新書、2018年)を参照されたい。