日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正14年1月6日加藤清正宛豊臣秀吉領知充行状および御蔵入目録写

今回より天正14~16年を扱う第三巻に入る。

 

 

 

(史料1) 天正14年1月6日加藤清正宛豊臣秀吉領知充行状

 

播州餝*1東郡内下野田三百石事、為加増令扶助訖、全*2可領知者也、
 天正十四
  正月六日(朱印)
    加藤主計頭とのへ*3

『秀吉文書集三』1832号、2頁

(史料2) 天正14年1月6日加藤清正宛豊臣秀吉御蔵入目録写


     播州飾東郡御蔵入目録
一、七百四拾壱石七斗             符友村

一、七百六拾七石壱斗             いは村

  (中略)
   合五千三拾弐石弐斗
  天正十四年正月六日 朱印

           加藤主計頭とのへ

『秀吉文書集三』1833号、2頁
(書き下し文)
 
播州餝東郡内下野田三百石のこと、加増として扶助せしめおわんぬ、まったく領知すべきものなり、
 
(大意)
 
播磨国飾東郡下野田村三百石について、加増として与える。落ち度なく支配するようにしなさい。
 
 
 
史料2は目録なので読みと大意を省略した。これをまとめると下表のようになる。
 
Table1.  播磨飾東郡加藤清正知行地および蔵入地
 

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これらの村々を地図上にプロットしたのが下図である。
 
Fig.1 天正14年1月6日加藤清正知行地と蔵入地分布

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                   『日本歴史地名大系 兵庫県』より作成

清正に与えた下野田村を取り巻くように蔵入地が置かれている。「御蔵入目録」が加藤清正に充てられていることから、これら蔵入地の代官を清正が務めることになっていたようだ。また「蔵入」に「御」がついているのも秀吉の蔵入地であることを示している。本ブログではこうした蔵入地を仮に「清正付蔵入地」のように呼ぶ。蔵入地の代官がわかる場合、できるだけ「〇〇付蔵入地」と明示したいからである。

清正のこのころの領知は下表の通りである。

 

Table2. 加藤清正領知高変遷

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さて、上掲地図上の「明田」に「緋田」と添えた。緋田村は、秀吉がまだ信長家臣だったころに作成させた最古の検地帳が発見されたことで、2019年メディアを大いに賑わせた。
 

www.kobe-np.co.jp

 

記事を一部引用しよう。

 

 

 

「大もん 九畝(せ) 下 九斗九升 三野村 宗次郎」…。今回発見された検地帳に書かれていた地名や面積、分米高といった項目は、太閤検地として知られる文禄年間の検地帳と一致していた

 

強調は引用者
 
 

 

上掲地図で、明田(緋田)の隣に①「見野」 とみえるが、これが記事中にある「宗次郎」が属する「三野村」であり、三野村や的形村、ふく留(福泊)などから緋田に耕作していた者がかなりいたことが各種報道写真から読み取れ、偶然とはいえ因縁めいたものを感じる。

 

 

*1:「飾」の異体字

*2:完全に、落ち度なく

*3:清正