日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年7月10日鍋島直茂宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

肥前国草野*1*2事、毛利壱岐守*3相談令検地、即為御蔵入*4両人令執沙汰*5可致運上候、深堀*6跡之儀も右同前致検地、可令執沙汰候、深堀方へ替地*7之義者、以御蔵入内相渡之、龍造寺*8へ引越可有之旨、深堀可申付候、猶毛利壱岐守へ被仰聞候也、

 

  七月十日*9 御朱印

 

     鍋島加賀守とのへ*10

 

(三、2575号)

 

(書き下し文)

 

肥前国草野跡のこと、毛利壱岐守相談じ検地せしめ、すなわち御蔵入として両人執り沙汰せしめ運上致すべく候、深堀跡の儀も右同前検地致し、執り沙汰せしむべく候、深堀方へ替え地の義は、御蔵入のうちをもってこれを相渡し、龍造寺へ引越これあるべき旨、深堀申し付くべく候、なお毛利壱岐守へ仰せ聞けられ候なり、

 

(大意)

 

肥前の草野鎮永の跡職については、毛利吉成とよく相談の上検地を行い、太閤蔵入地として吉成・直茂両名が代官として支配し、年貢を大坂まで運ぶように。深堀純賢を肥後へ移封した跡職についても同様に検地し、支配すること。純賢への替地は蔵入地から与え、龍造寺政家の寄子とする旨純賢に命じるように。なお吉成にも申し含めてある。

 

肥後国衆一揆の戦後処理の一環として在地土豪の移封が行われ、その際に検地を行うよう命じた文書の写である。

 

Fig. 肥前国関係図

                   『日本歴史地名大系 長崎県』より作成

上記文書から、毛利吉成、鍋島直茂といった「国主」や「給人」、つまり豊臣大名が太閤蔵入地の代官を兼務していたことがわかる。

*1:鎮永、筑後国山本郡草野を本拠とする国衆。肥後国衆一揆への荷担を疑われ天正16年成敗された

*2:跡職、草野氏の残した知行地

*3:吉成

*4:「御」があるので秀吉の蔵入地

*5:トリザタ、取り扱って処理すること、支配すること

*6:純賢、肥前国彼杵郡俵石城主。天正15年9月20日戸田勝隆宛書状によれば、前年に秀吉から朱印を賜り、すなわち知行充行を行われたようで、肥後国衆一揆の際に肥前国高来郡伊佐早城主西郷信尚により地元に足止めされたことを詫びている

*7:転封先の知行地

*8:政家

*9:天正16年、グレゴリオ暦1588年8月31日、ユリウス暦同年同月21日

*10:直茂