覚
一①、さぬきの国*1にをいて為御蔵入*2、高壱万五千石を以定納壱万石、雅楽頭*3御代官*4仕可致運上事、
一②、拾壱万石之分ニ、人数五千五百人の役儀*5可仕事、
一③、残る壱万六千弐百石ハ雅楽頭台所入として*6役なし*7に被下候事、
一④、のこるあれふ*8の事ハ連〻*9に毛*10をつけさせ、雅楽頭もの共*11にそれ/\にかさねて可扶助*12事、
一⑤、山銭・海の役銭*13ハ雅楽頭台所入に可仕候事、
以上
⑥天正拾五年十二月廿二日(朱印)
生駒雅楽頭とのへ
(三、2403号)(書き下し文)覚
一①、讃岐国において御蔵入として、高1万5千石をもって定納1万石、雅楽頭御代官仕り運上致すべきこと、
一②、11万石の分に、人数5千5百人の役儀仕るべきこと、
一③、残る1万6千2百石は雅楽頭台所入として役なしに下され候こと、
一④、残る荒不のことは連〻に毛をつけさせ、雅楽頭者どもにそれぞれにかさねて扶助すべきこと、
一⑤、山銭・海の役銭は雅楽頭台所入に仕るべく候こと、
以上
(大意)覚書一①、讃岐国内の蔵入地を1万5千石とし、三分の二にあたる1万石を親正が代官として請負い、必ず蔵入地分の年貢として上納すること。一②、知行高の内、11万石の軍役負担を5,500人とする。一③、残り1万6,200石は親正の台所入として、軍役負担は免除する。一④、さらに残った荒地は頻繁に作物を植えるよう百姓に督励し、収穫できるようになったらそなたの家臣たちに知行地として与えること。一⑤、山銭、海の役銭など小物成は家臣たちに与えずに、そなたの台所入とすること。
讃岐国と香川県は同一視されることが多い。しかし下図のように壺井栄『二十四の瞳』の舞台として知られる小豆島は備前国児島郡に属していた。
Fig.1 讃岐国周辺および備前・備中の主な港湾都市
小豆島は現在香川県小豆郡(しょうずぐん)小豆島町(しょうどしまちょう)に属しているが、律令制下では「備前国児島郡」であった。呼称もめまぐるしく変り、古代は「あずきしま」と訓じていたが、中世になると「しょうずしま」と呼ぶようになり、「駿府記」慶長20年(1615)閏6月3日*14条に「セウヅシマ」*15、文政4年(1821)伊能忠敬「大日本沿海実測録」にも「小豆(セウヅ)島」とあるように「しょうずしま」という呼称は近世末まで保たれていたようだ。ただし1586年の「イエズス会士日本通信」には「Xodoxima」(ショウドシマ)とあり呼称に揺れが見られる。複数の呼称が併存していたと考えるのが自然だろう。後述するように明治初期の内務省は「ショウドグン」とフリガナを振っているが、現在は郡が「ショウズグン」、島名は「ショウドシマ」と読みわけているのはなんらかの妥協の産物だったのだろう。
応永19年(1412)備前に棟別銭が懸けられた際、小豆島にも課されるはずであった。しかし讃岐守護代安富宝城は「この島のことは備前の内にて候とも、内にてそうらわぬこととも、いまだ落居なき島にて候」(小豆島は備前国内であるとも、国外であるともいまだに決着を見ない島である)と備前国棟別役負担を拒否した*16。つまり中世後期には小豆島が備前、讃岐のどちらに属するのかはっきりしなくなる。より正確にいえば讃岐の守護勢力が小豆島を侵食していくために帰属を曖昧にしたというべきなのだろう。そして19世紀の20年代、上述伊能忠敬は「小豆島」を讃岐国とするものの「けだし郡名なし」と郡に属していないと推測する。これらの点から時代が下るにつれ小豆島住民のあいだで備前ではなく讃岐の、とりわけ「小豆郡」住民という意識が芽生え始めたと考えられる。
この「想像の行政体」に実体が与えられたのは明治11年(1878)郡区町村編制法施行により愛媛県小豆郡が成立したときである。同14年(1881)内務省地理局『郡区町村一覧』には「愛媛県小豆(セウド)郡讃岐国」が確認できる。そして同21年(1888)愛媛県より第3次香川県が独立した際、「讃岐国小豆郡」は香川県小豆郡として完成した。
追記
明治以降も府県という行政体*17とは別に住所として国名は広く使われており、郵便の宛名も大都市を除いて「○○国××郡」と書かれることが多かった。したがって「讃岐国小豆郡」という行政区が実在したわけではないが、住所として使用されることは珍しいことではなかった。
瀬戸内海は日本舟運の大動脈であり、小豆島が寄港地として古くから重要視されていたことは説明を要しないであろう。
閑話休題(無駄話はさておき)本文に入ろう。①は讃岐国内の太閤蔵入地を1万5,000石とし、三分の二にあたる1万石を代官として秀吉に上納するよう命じている。この太閤蔵入地を具体的に「○○郡××郷」に置いたか、讃岐一国のうち1万5,000石を蔵入地とし1万石を上納させるために計算上措かれた単なる数値に過ぎないのかは本文書からは判然としない。ただし播磨の加藤清正と同様、大名領国最寄の太閤蔵入地の代官を兼務させた点だけはここでも確認できる。
ただ、この文面を見ると収穫具合によらずつねに1万石を上納せねばならない請け切りの代官だった可能性は残る。つまり不作の年は親正の「持出し」だったかもしれないということである。
japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com
これらを簡単に図示したのが下図である。
Fig.2 豊臣大名知行地と太閤蔵入地
②は知行石高のうち11万石に軍役5,500人の負担とすることを定めており、1万石あたり500人の軍勢を率いなければならない。
③では1万6,200石を無役とするとしている。以上の石高を足し合せると天正15年末段階の讃岐の国高は①+②+③=15,000+110,000+16,200=14万1,200石となる。
④は上記の14万1,200石のほかにかなりの荒蕪地が存在していたことをうかがわせる記述である。親正に領主の義務として勧農を行うよう促しており、それが実際に収穫できるような沃野となれば家臣たちの知行地として与えるように述べている。
⑤では山野河海から徴収する小物成はすべて親正の収入とし、家臣たちに徴収権を与えることのないように仄めかしている。
豊臣期の課役対象はおおよそ次のような対応関係にあったとまとめられよう。
Fig.3 郷村の同心円的構造と課役対象
本文書とは関係ないが夫役徴発が引き起したとみられる郷村の労働力不足をうかがわせる事例を挙げておく。
Table. 文禄5年近江北部の夫役賦課状況
これが「予想された結果」に過ぎないことは、天正20年1月各大名に宛てて発せられた豊臣秀次朱印状の四条目「御陣へ召し連れ候百姓の田畠のこと、その郷中として作毛仕りこれを遣わすべし*18、もし荒し置くに至りてはその郷中御成敗なさるべき旨に候こと」*19の文言が示している。秀次の不安は杞憂に終らなかったわけである。
最後に⑥について。これまで見た文書の多くは「私的な手紙」*20という形式を採っていたため年代が記されることはなかった。しかしこの文書は「公的文書」と位置づけるため年代を明記したわけである。「私的な手紙」によって公権力の意思伝達が行われることは日本史上しばしば見られる特徴である。
*1:讃岐国。ちなみにこのころの検地帳には仮名で「○○のこおり」と書かれており「郡」を「のこおり」と訓じていたが、いつしか「グン」と音で読むようになった
*2:「御」があるので秀吉の蔵入地。よく「豊臣政権下の秀吉直轄地を蔵入地と呼ぶ」式の説明を見かけるがナイーヴで誤解を招きやすい。史料に見える「蔵入地」自体は「誰かの直轄地」という意味でしかなく、秀吉直轄地は蔵入地であるが、すべての蔵入地が秀吉直轄地とは限らない
*3:生駒親正。讃岐国国主、香川郡野原荘に「玉藻城」とも呼ばれる讃岐高松城(「高松城」には言わずとしれた備中高松城もあるので本ブログでは混乱を避けるためこう呼ぶ)を築城した。「高松」という地名は隣接する山田郡高松郷から採用したため高松郷はその後「古高松」と呼ばれるようになった。同様に松山や徳島などの佳名はこのころ名づけられた比較的新しい地名であることが多い
*4:「御」がつくので秀吉の蔵入地を差配する代官。豊臣大名はみずからの領地付近の太閤蔵入地の代官を兼務するのが徳川期と大きく異なる点である。ちなみに代官とは文字通り「代理」として職務を遂行する官職を意味していたが、中世荘園制下で年貢収納などを代行する者を代官と呼ぶようになり、主君の代理として事に当る者=直轄地を支配する者の呼称となった。ただし「領主の代わりにつとめる」という含意は最後まで残った。領主は自分の知行地であれば年貢率などを「恣意的に」決められるなど自律的に振る舞えるが、代官は下命にしたがうのみである
*5:石高に応じた軍役
*6:「台所入」は「蔵入」と同じ意味。親正の蔵入地
*7:軍役を免除する
*8:「荒不」=「コウフ」の訓読み。荒廃してすぐに耕作できない田畠。検地帳などにも「永不」(永年不作)などの記載が見える
*9:頻繁に
*10:作物
*11:親正の家臣
*12:知行地として充て行う
*13:山銭・海の役銭ともに山海などを利用する百姓から徴収する小成物/小物成
*14:7月13日に元和に改元
*15:『大日本史料』12編21冊262頁
*16:ヌ函/254/:安富宝城書状|文書詳細|東寺百合文書
*17:北海道は最初開拓使、のち内務省直轄の北海道庁が置かれたので地方行政体ではない。よって「道府県」という呼び方は正しくない。なお長は北海道庁長官
*18:百姓に命じなさいの意
*19:『大日本古文書 浅野家文書』260号、459~460頁など
*20:書状・書翰・消息などと呼ばれる