日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年12月20日施薬院全宗宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

白川郷*1雖可有検地、増米*2出之、定請*3令懇望候条閣*4之候、然者諸入方*5一切不可出候也、

   十二月廿日*6  (朱印)

        施薬院*7

 

『秀吉文書集二』1771号、2936頁

 

(書き下し文)

 

白川郷検地あるべしといえども、増米これを出し、定請懇望せしめ候条これをさしおき候、しからば諸入方一切これを出すべからず候なり、

 

(大意)

 

白川郷を検地することになっているが、踏み出し分を書き出し、定請を願い出ているので踏み出し分はそのままにするように。諸経費についてはこちらで負担しないように。

 

 

意味がよく読み取れないが、吉田兼見によると12月30日「百姓訴訟により」「白川御館畠地子銭」を収取できなかったと記されていてどうも在地の動向が関係しているらしい*8。支配者側の史料だけではやはり限界があり、地方文書なども見る必要がある、あればの話だが。

 

全宗が秀吉から11月に与えられた領地は白川郷にはなく、愛宕郡内では八瀬のみであるので、代官として拝命したのであろう。

 

ちなみに本年の1月4日には近江国滋賀郡山中郷とのあいだで境目をめぐって「口論に及んだ」と記録されている*9。 吉田兼見は白川より注進があったので配下の鈴鹿定継らを現地に向かわせ、調停している。

 

もともと、近江と山城の国境は「逢坂の関」とすると漠然と定められているにすぎず、当初近江国に属していた荘園が、後世山城国に属するケースも多くきわめて流動的であった。隣接する郷村との境界争い*10の解決が近現代まで続く例も珍しくない

 

Fig. 山城国愛宕郡白川郷周辺および京都

 

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                   『日本歴史地名大系 滋賀県』より作成

上掲図は明治17年に測量されたものであるが、右京が都として衰退していた事実をよくあらわしていて興味深い。東京府東京市・京都府京都市・大阪府大阪市など市制が敷かれるのはこの5年後で、京都市は「上京区/下京区」の二区制からスタートした。

 

*1:山城国、下図参照

*2:検地により新たに踏み出された石高。3月19日、秀吉は山城・近江での検地において「出米の百姓」過半が逃散したので未進年貢を来秋まで「借し遣わす」としている。1355~1356号文書

*3:あらかじめ定められた量・額の年貢納入を百姓が請け負うこと。水損干損などによる減免を求めないという誓約をしている

*4:サシオク、そのままにする

*5:検地にかかる諸経費

*6:天正13年

*7:全宗

*8:『兼見卿記』同日条

*9:『兼見卿記』同日条

*10:すぐさま国境相論となるケースを含む