日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年5月11日福島正則宛豊臣秀吉朱印状写

 

去十六日之書状加披見候、其国*1検地大形*2相済候由、然ハ宇土境*3之在所*4二三ヶ村令一揆付、討果候旨聞召*5候、惣徒者*6之儀於有之者、悉成敗可申付候、頓*7隙明次第可罷上候也、

 

  五月十一日*8 御朱印

  

    福島左衛門大夫とのへ*9

(三、2494号)
 
(書き下し文)
 
去る十六日の書状披見を加え候、その国検地大方相済み候よし、しからば宇土境の在所二、三ヶ村一揆せしむるについて、討ち果し候旨聞し召し候、そうじていたずらものの儀これあるにおいては、ことごとく成敗申し付くべく候、やがて隙き明け次第罷り上るべく候なり、
 
(大意)
 
先日16日付の書状確かに拝見しましました。肥後国の検地があらかた済んだとのこと。また宇土あたりの百姓ども二三ヶ村が起こした一揆を攻め滅ぼしたことも聞き及んでいます。「徒者」はすべて撫で切りにするよう命じなさい。時間に余裕があれば上洛するように。
 
 

 

福島正則らは吉川広家に宛てて書状をしたためている。その一覧表を下表1にまとめてみた。

 

Table.1  天正16年4月吉川広家宛書状

「出典」を明記していないものは
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1588/16-1-1/6/0021?m=all&s=0021

これらによると、吉川広家は肥後国玉名郡の小代城*10の「普請」を担い、加藤清正・福島正則・蜂須賀政家・生駒親正らは肥後の検地を担当したようである。この命に従わない「徒者」(いたずら者)はことごとく成敗せよという文言は、のちの天正18年8月12日付浅野長吉宛朱印状の「一郷も二郷もことごとく撫で切り仕るべく」を彷彿とさせる。

 

小代城主の小代親泰は下表2のように、当初は秀吉から、ついで佐々成政から、成政失脚後は清正から知行を充て行われることになった。それはとりもなおさず、豊臣大名になり損ね、秀吉の陪臣の地位に甘んじざるを得なかったことを意味する。自立的な領国支配を行っていた「国人」*11たちはこうして秀吉によってその存在を否定されるようになった。

 

小代氏は13世紀には玉名郡野原庄の地頭職に任じられており、14世紀には預所職も兼務するなど長期にわたって野原庄一帯を支配してきた。天正15年に安堵された村々は野原八幡宮の大行事、小行事を年番でつとめるなど宗教的にも地域的一体性を保っていたものと推測される*12

 

ともあれ小代氏は数世紀にわたり影響力を誇示した、父祖伝来の玉名郡から切り離されることで、近世的な領主となったと言えるだろう。大名は「当座の預かり主」に過ぎず、百姓はその地に根を張るというのが豊臣政権の政策基調であることは繰り返すまでもない。

 

Table.2 小代親泰宛の知行充行状況

          『長洲町史』、 細川藩政史研究会編『熊本藩年表稿』などより作成

Fig. 小代氏の移封先と宇土境周辺図

                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

 

*1:肥後国

*2:大方。あらかた、ほとんど

*3:肥後国宇土郡、下図参照

*4:郷村のこと。ほかに「在地」、「地下」(じげ)などと呼ぶ。また領主の知行地を指す場合もある

*5:秀吉自身への尊敬表現

*6:「御徒町」のように「かちもの」と読む場合は馬に乗らない下級の戦闘員を指すが、ここでは前に「一揆」とあることから「いたずらもの」と読み「ならず者」、「不逞の輩」といった秀吉に臣従しない者たちの意で騎馬戦士か歩兵かは問わない

*7:やがて

*8:天正16年

*9:正則

*10:筒ヶ嶽城

*11:黒田基樹『国衆』平凡社新書、2022年は「国人」などといった曖昧な概念は使うべきでないと指摘する。まだ読み終えていないので本ブログのこれまでの慣行に倣い「国人」としておく

*12:『大日本史料』第9編25冊320頁大永3年雑載、同第11編27冊417頁天正13年雑載