八木*1弐千石、島津修理太夫*2ニくたされ候間、慥ニはかりわたすへきものなり、
天正十五
十月十三日 御朱印
かとうかすへ*3
八木千石 そうふへきうない*4
八木千石 こいてはりまのかミ*5
はちすかあわの守*6借用*7之米千石、島津修理太夫ニくたされ候、たしかにはかり可渡候也、
天正十五
十月十三日 御朱印
ましたゑもんのせう*8
(三、2349号)
(書き下し文)八木弐千石、島津修理太夫に下され候あいだ、慥かに量り渡すべきものなり、
天正十五
十月十三日 御朱印
加藤主計
八木千石 祖父江久内
八木千石 小出播磨守
蜂須賀阿波守借用の米千石、島津修理太夫に下され候、慥かに量り渡すべく候なり、
天正十五
十月十三日 御朱印
増田右衛門尉
(大意)加藤清正へ米2000石(祖父江久内分1000石、小出秀政分1000石)島津義久に下賜するので必ず渡しなさい。増田長盛へ蜂須賀政家に貸した分の米1000石を義久に下賜するので間違いなく渡しなさい。
本文書を最初見たとき「かとうかすへ」を「かとうかずこ」と見誤ったことは以前つぶやいたとおりである。
「切手」とは「何か物などの引き渡しを命ずる証拠の紙、書付」*9で、ここでは秀吉が充所にある者たちに、米を島津義久に引き渡せと命じている。つまりこの充所にある者たちは秀吉の台所である蔵入地を預かる代官だということである。
米の流れは下図のようになるだろう。
Fig. 米切手
以前加藤清正が播磨国の代官であった可能性を指摘したが、本文書もそれを示唆している。清正といえば「七本鎗」や「虎退治」といった「武人的」側面のみが強調されがちだが、吏僚であった点にも注意する必要はある。
japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com
優柔不断な「貴族的」「吏僚的」なる者に質実剛健な「武人的」なる者を対置する、単純で実態にそぐわない19世紀的ステレオタイプは未だ健在である。アイドル=偶像崇拝というべき現象であるが、21世紀もすでに5分の1が過ぎ去った現在そろそろ卒業すべき時期に来ているのではないだろうか。
なお本文書についてはこちらもあわせて参照されたい。