天正7年から翌年にかけて秀吉は戦後処理の一環として、在地宛に還住や年貢諸役の免除を命じている。そこでその前提として今回と次回、三木城攻めのあらましを見ておく。
天正7年10月28日付小寺休夢斎*1宛秀吉自筆書状には「ほしころしか、又ハせめころし申すべく」との文言が見え、また「このご返事により、三木ゆるし候て、しろをう(け脱カ)とり候て、いのちをたすけ候か、又ほしころし(干し殺し)候か、両度に一度か、きわめ申すべく候」と休夢斎に尋ねている*2。ただし「干し殺し」は兵粮攻めを意味するというより「餓死させる」の意で使われることが多いようだ。
三木城攻めの様子は、天正8年1月から日を経ないうちに別所旧臣来野弥一右衛門が編んだ「別所長治記」に以下のような記述が見える。
秀吉毎度の合戦に一度も遅れを取り給わず、名誉*3の大将やと上下罵り合い*4にける*5。(中略)
屏の高さ1丈*6余ふたえ*7に付け、その間に石を入れ掻き楯*8栖籠*9を高く上げ、前に逆茂木を引きて、柵を結び、川の面に大綱を張り、乱杭を打ち、大石を入れ、橋の上に番*10を居え、人の通りを改め*11、後には諸国の軍勢陣屋を作り並べ、辻々に木戸を立て、篝を焼かせ*12夜廻り隙なく廻りけり。秀吉近習の侍を六番に分かちて三百人ずつ、①役所に名字を書き付け、組頭に判形おさせて、少しも懈怠なく相勤むべき定めの城中食攻めたるべしと②うんぬん」
(『群書類従』14「別所長治記」カタカナをひらがなに改め一部読みやすくした)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783
なお、早稲田大学所蔵の来野撰「三木別所家伝」もほぼ同内容である。
この記事は別所側から見た秀吉軍のイメージであるうえに、下線部②でこれらの話が伝聞である旨断っているので額面通り受け取ることはできない。ただ大規模かつ綿密な備えだったと見えていたことはたしかである。また運用においても1日を6組に分け300人、のべ1800名体制で監視させ、その管理は名字を書き記した帳簿にしたがい、「組頭」と呼ばれる責任者によっていたと別所側に伝わっている。この数字自体の信憑性や下線部①のように判形を取った文書が伝わっているのかどうかは別に検討を要するものの、いまだ織田家の一家臣でありながら秀吉が文書行政を重視していたと認識されていた点は注目すべき点で、のちの豊臣政権における行政官僚体系がすでにできあがりつつあったのかもしれない。