日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正8年1月20日沼元新右衛門尉宛宇喜多直家書状 三木城攻めの諸相 その3/止

(折紙・・・切封カ)

対宇*1一御折紙披見申候、今度於篠葺*2各御調之分、普請注文岡権*3指越候、被抽余人、一角*4被仰付と見へ申候、御入魂*5祝着之至候、打続城山之普請、是又大分御調之段、快然*6之至誠難尽紙上候、弓矢之詮*7此時と存候条、被入御精之段、向後不可有忘却候、随而三木*8本丸落去之左右*9、昨日以早馬河内*10へ申遣候、其後自羽筑*11花房又七*12被指下、様躰具被申下候、筑州・蜂彦*13紙面今朝以右行事*14河内へ差遣候、定其方へも可有到来候、別小三*15・同山城*16・彦進*17腹を切、年寄中*18一両人同前ニ候、相残物*19(を)ハ一所へ追寄、番*20を被付置、悉可被果と相聞*21播州之事ハ不及申、但州大田垣*22構武田城*23も去十五日ニ令落去、於于今者両国*24平均*25候、自因州鳥取*26も人を被付置、切々*27懇望候、花又*28見及候条無不審*29候、諸勢今明*30之間ニ英賀表*31へ打下、西表敵陣へ趣*32聞合*33可及行にて候、西国之儀可任存分と大慶ニ存候、猶天兵*34可被申之条閣*35筆候、恐〻謹言、

   正月廿日          直家*36(花押)

     沼新右*37  御返報*38

            長浜市長浜歴史博物館編『秀吉に備えよ!!』43号文書

(書き下し文)

宇へ対し一御折紙披見申し候、このたび篠葺においておのおの御調いのぶん、普請注文岡権指し越し候、余人を抽んぜられ、ひとかど仰せ付けられと見え申し候、御入魂祝着のいたりに候、打ち続く城山の普請、これまた大分御調いのだん、快然のいたり誠に紙上に尽くしがたく候、弓矢の詮この時と存じ候条、御精を入れらるるのだん、向後忘却あるべからず候、したがって三木本丸落去の左右、昨日早馬をもって河内へ申し遣わし候、その後羽筑より花房又七指し下され、様躰つぶさに申し下だされ候、筑州・蜂彦紙面今朝右行事をもって河内へ差し遣し候、さだめて其方へも到来あるべく候、別小三・同山城・彦進腹を切、年寄中一両人同前に候、相残るものをば一所へ追い寄せ、番を付け置かれ、ことごとく果てらるべしと相聞け候播州のことは申すに及ばず、但州大田垣構え、武田城も去んぬる十五日に落去せしめ、今においては両国平均候、因州鳥取よりも人を付け置かれ、切々懇望に候、花又見及び候条不審なく候、諸勢今明のあいだに英賀表へ打ち下し、西表敵陣へ赴くと聞き合い及ぶべき行いにて候、西国の儀存分に任すべくと大慶に存じ候、なお天兵申さるべくの条閣筆候、恐〻謹言、

(大意)

当方への手紙拝見しました。このたびの篠葺城での準備、普請の注文について岡権を差し遣わしたことたいそうなお働きと存じます。相手方と通じたこと実にめでたいことです。立て続けに城を築くことも大方すんだとのこと筆舌に尽くしがたい思いです。合戦はこの時とばかりに精を入れられたこと決して忘れません。さて、三木城本丸落城の様子、昨日早馬にて河内城へ伝えました。その後羽柴秀吉より花房正成をよこし、その様子詳しく伝えてくれました。羽柴・蜂須賀が書面にて使者を河内城へ遣わしました。きっとそちらへも知らせが行くことでしょう。別所長治・吉親・友之は腹を切り、重臣たちも同様に腹を切りました。残る者は一ヶ所へ押し込め、見張り番をつけ、全員死すべしと命じられました。播磨はもちろんのこと、但馬の国人大田垣が立て籠もっている武田城も先日15日に落ち、現在播磨・但馬両国が平定されました。因幡鳥取よりも人を寄越し、度々歎願しています。花房が見届けていますので不明な点はないでしょう。軍勢は今日明日にでも英賀城を落とし、西の敵陣へ赴くと口々に言い募っています。西国では存分に戦うとのことめでたいことです。詳しくは天兵が申しますのでここで筆を擱きます。謹んで申し上げました。

 

図 1 中国攻め関係図

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下線部の 「相聞け」の主語がはっきりしないものの、おそらく秀吉であろう。城中に立て籠もった者を一ヶ所に集め、見張り番までつけて「ことごとく相果てらるべし」と命じたようだ。秀吉は恭順した百姓には年貢減免を行う一方、抵抗した村々はことごとく焼き払ったという(機会を改めて)。別所長治縁者と重臣の命と引き換えに城中に立て籠もった者は助けたという話は疑った方がよさそうだ。三木城攻めとならぶ兵粮攻めに鳥取城攻めがある。その悲惨な様子を「信長公記」は次のように伝えている。

 

Cf. 信長公記」巻11に見る鳥取落城時の様子

 

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                    『史籍集覧』15 国会図書館


 

(書き下し文)

信長公記」巻11

十月二十日
今度因幡国(ア)鳥取一郡の男女ことごとく城中へ逃げ入り楯て籠もり候、下々百姓以下長陣の覚悟なく候のあいだ、即時に餓死*39に及び、はじめのほどは五日に一度、三日に一度鐘をつき、鐘次第雑兵こごとく柵ぎわまで罷り出で木草の葉を取り、なかにも稲かぶを上々の食物とし、あとにはこれも事尽き候て、牛馬をくらい、霜露にうたれ、弱き者餓死(かつえし)際限なく(イ)餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女柵ぎわへ寄り、もだえこがれ引き出し扶けそうらえと叫び、叫喚の悲しみ哀れなる有様、目も当てられず…


②(ウ)鉄砲を以て打ち倒れそうらえば、片息(虫の息:つまり生きている)したるその者を人集まり、刀物を手に手に持って続節(関節)を離ち、実取り候き、身のうちにても取り分け、頭よく味わいある(コウベがおいしい)と相見えて、頸をこなたかなたへ奪い取り逃げ候き


十月二十五日
③あまりに不憫に存じられ、食物与えられそうらえば、食に酔い過半頓死候、まことに餓鬼のごとく痩せ衰えてなかなか哀れなる有様なり

下線部(ア)によれば「鳥取一郡の男女ことごとく…下々百姓以下」とあるので、鳥取郷の者たちが男女を問わず全員城内へ逃げ込んだようだ。(イ)によると「城外へ出して助けてくれ」と叫ぶ者もいたらしい。(ウ)は秀吉軍が鉄砲で撃った者をまだ生きているうちに人々が集まり、バラバラにして食べていたらしい。とくに頭が美味しいと見えて頸を取り合っていたという。ハンニバル・レクター顔負けの惨状である。

 

このように「攻め殺し」にしろ「干し殺し」にしろ酸鼻を極める結果は避けられなかった。これが戦国期社会の一側面である。

 

*1:宇喜多に対し

*2:美作国大庭郡篠葺城

*3:宇喜多家臣岡剛介カ

*4:ひとかど

*5:了解を得るため前もって申し入れ、親しくなること。「昵懇」

*6:心地よい様

*7:かい、甲斐

*8:播磨三木城

*9:「ソウ」有様、様子

*10:播磨国加西郡河内城/別所城カ

*11:羽柴筑前守秀吉

*12:宇喜多家家老花房正成

*13:蜂須賀彦右衛門正勝

*14:担当者、責任者、ここでは使者のことか

*15:別所長治

*16:別所賀相吉親

*17:別所友之

*18:重臣

*19:「相残る者」が城内に逃げ込んできた老若男女を含むのかは未詳。Cf.「信長公記」や甫庵「太閤記」の鳥取城落城の場面

*20:見張り

*21:申し付ける、命じる

*22:竹田城

*23:但馬国朝来郡竹田城

*24:播磨・但馬両国

*25:平らげる

*26:因幡国邑美郡鳥取

*27:たびたび

*28:花房又七

*29:はっきりしないこと

*30:今日明日

*31:播磨国飾磨郡英賀城

*32:向かう、赴く

*33:「言い合う」の謙譲語、口々に言い合う

*34:この文書を持参した使者の名前、安芸国人天野氏か

*35:「擱」

*36:宇喜多/浮田直家

*37:宇喜多家家臣、美作国久米南条郡の国人沼本(ヌモト)房家

*38:返事につける脇付、「御返事」、「御返報」、「御報」、「貴報」、「尊報尊答」の順に礼が厚くなる。「御返報」は同輩もしくは下輩

*39:かつゑし、なお「かつえ」という言葉で思い出されるのがこちらの騒動であろう

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