天正11年7月29日秀吉は武蔵岩付城主太田資正、常陸下妻城主多賀谷重経に長大な返書を書き送っている。二通とも写しか伝わっていないが、ほぼ同文である。ここでは重経宛の最後の一つ書きと文末を読んでみたい。
(前略)
一、廿五日*1、加州*2江出馬候之処、諸城雖相抱候、筑前守太刀風*3ニ驚、草木迄靡随*4躰ニ而、加州・能州*5・越州*6迄、平均ニ相果*7候、依之越中境目金沢*8与申城ニ馬*9を立*10、国之置目等申付候内、越後長尾*11人質を被出、筑前守次第与被申候之条、令赦免*12候事、
就中従信長御時、別而被仰談*13之旨、淵底*14令存知候条、是以後何ニ而茂御用之儀可被仰越候、聊不可存如在*15候、恐〻謹言、
七月廿九日 秀吉(花押影)
多賀谷修理亮*16殿
御返報*17
『秀吉文書集』一、745号、237~238頁
(書き下し文)一、廿五日、加州へ出馬候のところ、諸城相抱え候といえども、筑前守太刀風に驚き、草木まで靡き随うていにて、加州・能州・越州まで、平均に相果たし候、これにより越中境目金沢と申す城に馬を立て、国の置目など申し付け候うち、越後長尾人質を出だされ、筑前守次第と申され候の条、赦免せしめ候こと、なかんずく信長御時より、べっして仰せ談ぜらるるのむね、淵底存知せしめ候条、これ以後いずれにても御用の儀仰せ越さるべく候、いささかも如在存ずべからず候、恐〻謹言、(大意)一、四月二十五日、加賀へ出馬したところ、多くの城を抱えているとはいえこちらの働きぶりに驚き、草や木が風になびくように敵がつぎつぎに降伏し、加賀・能登・越中まで平らげました。さらに越中との国境にほど近い金沢という城に本陣を構え、統治の基礎を固めているうちに、越後の長尾景勝が人質を差し出し、秀吉に一任すると申し出られたので赦免いたしました。以上が北国攻めのことの次第です。とりわけ、あなた様は信長様がご存命のころより親しくされているのを存じておりますので、御用のさいは何なりとおっしゃってください。お気遣いは無用です。謹んで申し上げました。
Fig. 北陸道三ヶ国略図
太田資正・多賀谷重経ともに信長と交流していたので、「なかんずく信長御時より、べっして仰せ談ぜらるるのむね、淵底存知せしめ候条」というのはまんざら社交辞令ではない。こうして秀吉は信長が築いた関東とのコネクションを継承していったようである。
さて、本文書でも秀吉の大仰な物言いは健在で、下線部の「筑前守太刀風に驚き、草木までなびき」は読んでいるこちらの方が赤面してしまうほどである。
6月28日づけで秀吉は太刀や馬などの礼状を、7月11日には「証人」すなわち人質を請け取った旨上杉景勝宛に書き送っている*18。充所はいずれも「上杉弾正少弼殿」で本文書のように「長尾」ではない。しかし4月25日宇喜多秀家宛*19、5月15日小早川隆景宛*20、翌12年8月4日金剛峯寺惣分中宛*21では「越後長尾」と呼んでいる。
*1:4月
*2:加賀国
*3:勇猛な戦いぶり、猛烈なさま
*4:ナビキシタガイ
*5:能登国
*6:越中国
*7:成し遂げる
*8:加賀国
*9:馬印
*10:「馬印を立て」で本陣を構え
*11:上杉景勝
*12:攻め滅ぼさずに和睦に応じたという意味。相手の言い分を「詫言」と呼ぶのと同根で、それを「許す」という論理
*13:「仰せ談じる」の「仰せ」で重経に敬意を表している
*14:くわしく
*15:気を遣わず、遠慮せず
*16:重経
*17:返書につける脇付。ここから多賀谷氏から秀吉にあてて書状が発せられたことが分かる
*18:『大日本史料』各日条
*19:653号
*20:705号
*21:『大日本古文書 高野山文書之二』343号。ただし『豊臣秀吉文書集』二では「天正12年」比定を採用していない