日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年3月27日前田玄以宛羽柴秀吉朱印状

 
 
   尚以菓子・扇、祝着候

為音信書状并菓子二折*1被越候、祝着候、仍此表事、先書委細申遣候つる、定可為参着候、泉州*2事者不及申、当国*3儀も無残所任存分候、既湯河館*4迄人数差遣候処、無行方逃散候、然者雑賀内*5ニ一揆張本人楯籠候間*6、為懲鹿垣*7を結廻、一人も不漏可干殺*8調儀候、其外地百姓*9等少〻助命、鉄炮・腰刀以下を取候て*10*11置所も在之事候、委曲様子源七郎*12見及候間、可物語候、次(闕字)禁裏様御作事*13無由断由尤候、尚追〻可申遣候、謹言、

   三月廿七日*14                            秀吉(朱印)

      民部卿法印*15

『秀吉文書集二』1367号、149頁
 
(書き下し文)
 
音信として書状ならびに菓子二折越され候、祝着に候、よってこの表のこと、先書委細申し遣わしそうらいつる、さだめて参着たるべく候、泉州のことは申すに及ばず、当国儀も残る所なく存分に任せ候、すでに湯河館まで人数差し遣わし候ところ、行き方なく逃げ散り候、しからば雑賀内に一揆張本人楯て籠もり候あいだ、懲らしめ鹿垣を結び廻わし、一人も漏らさず干殺すべき調儀に候、そのほか地百姓など少々命を助け、鉄炮・腰刀以下を取り候て免し置くところもこれあることに候、委曲様子源七郎見及び候あいだ、物語るべく候、次に禁裏様御作事由断なきよしもっともに候、なお追々申し遣わすべく候、謹言、
 
なおもって菓子・扇、祝着に候
 
(大意)
 
 ご挨拶として書状ならびに菓子二折りお送り下さりありがとうございます。こちらの戦況は先便にて詳しく申し遣わしました。お手許に届いていることでしょう。和泉国はもちろん、紀伊国もすべて平定しました。すでに湯川館まで軍勢を派遣したところ、敵兵たちは行き場もなく四散してしまいました。さて、雑賀に一揆の首謀者が立て籠もっているので懲らしめ、鹿垣を周囲にめぐらし、ひとりも残さず餓死させるつもりです。そのほか地元の百姓たちは少々助命し、鉄砲や腰刀などを没収して赦免するところもあります。詳しい様子は尾池定安が見ておりましたのでお話しすることでしょう。次に内裏の普請油断なく進めているとのこと、もっともなことです。なお後日また申し遣わします。謹んで申し上げました。
 
追伸、菓子と扇をお送り下さりありがとうございます。
 
 
 
Fig.紀伊国海部郡・名草郡関係図
 

f:id:x4090x:20200904145823p:plain

                   『日本歴史地名大系』和歌山県より作成
 
これに先立つ3月10日、秀吉は「平秀吉」として従二位内大臣に任じられ*16、「宇野主水日記」3月13日条に「羽柴秀吉公天下をしり*17たもうについて」*18とあるように、天下人としての地位を固めつつあった。
 
本文書は前田玄以の音信への礼状であるとともに、戦況報告でもある。雑賀衆の首謀者が太田城に立て籠もったので兵粮攻めにするつもりである旨したためている。周知のようにこの兵粮攻めは後日より大がかりな水攻めに変更される。興味深いのが下線部の「そのほか地百姓など少々命を助け、鉄炮・腰刀以下を取り候て免し置くところもこれあることに候」である。これは武装解除、いわゆる刀狩りを行い、一揆の指導的役割を担う在地土豪を排除しつつ、秀吉が「地百姓」*19と呼ぶ者らを耕作に専念させようとした措置である。
 
なお秀吉は、5月8日弟秀長に和泉・紀伊の二ヶ国を与え、秀長は閏8月小堀新介政次*20に紀伊国惣国検地を命じている。
  
秀長は3月22日、23日に根来・雑賀勢力の根拠地である積善寺城や澤城に立て籠もる者たちへ*21、また前野長泰・蜂須賀正勝は4月22日「太田郷二郎左衛門尉・惣中」宛に助命する旨起請文を書き送っている*22ところから硬軟織り交ぜた交渉を行っていたとみられる。さらに4月25日秀長は以下の書状を太田二郎左衛門に書き送り、開城後の城兵の安全を保証する旨約している。
 
 
 
 
しろより出候ものにたいし、少もむさふりこと*23申し候ハ者、せいはい可仕候間、このはうへめしとり、ひかせ申へく候也、
   四月廿五日                           美濃守(花押)*24
     太田二郎左衛門殿
上述『和歌山市史』589号、1208~1209頁
 
(書き下し文)
 
城より出で候者に対し、少しも貪りこと申しそうらわば、成敗仕るべく候あいだ、この方へ召し取り、引かせ申すべく候なり、
 
(大意)
 
城から出た者に対して、少しでも略奪や乱取などを行う者は成敗するので、こちらで捕らえ連行するものである。
 
 

  

*1:二箱。折箱に入れたものの単位。中身を折詰と呼び、鮨折、菓子折などと現在でも使う

*2:和泉国

*3:紀伊国

*4:紀伊国日高郡

*5:紀伊国海部郡=アマグン、図参照

*6:紀伊国名草郡太田城、図参照

*7:シシガキ。獣害を防ぐために田畠の周囲にめぐらせたバリケード。ここではそれを軍事転用した。現在は電流を流す方法が一般的

*8:ホシゴロシ、餓死させる

*9:在地有力者である「一揆張本人」=「地侍」に対する語

*10:刀狩り、武装解除

*11:ユルシ。通常「免」は旱損・水損・風損などによって荒廃した田畠の年貢を免除する意味があるが、ここでは単に助命する=秀吉への抵抗を大目にみるだけか、加えて戦禍で荒廃した田畠の年貢免除をも含意するのかの判断は留保しておく

*12:尾池清左衛門定安、前田玄以の家臣で検地などに携わる。慶長13年玄以の次男で丹波八上城主の前田重勝により殺害される

*13:普請

*14:天正13年

*15:前田玄以

*16:内大臣に任じられた秀吉は当然のことながら史料上では「内府」と呼ばれている

*17:知る、統治する。「知る」のこの意味でもっとも有名なのは、愛宕百韻における明智光秀の句「あめがしたしる五月かな」を「天が下知る」=「天下をとる」決意表明と解釈する例

*18:『和歌山市史 第四巻 古代・中世史料』1191頁

*19:4月22日「仕置条目」(1413号、160頁)では「平百姓」

*20:小堀遠江守政一/小堀遠州の父で、はじめ浅井氏の家臣、ついで秀長に仕える。検地帳など地方文書にも政次の名前が見える

*21:上述『和歌山市史 第四巻』566~567号、1194~1195頁

*22:上述『和歌山市史』585号、1207~1208頁

*23:略奪はもちろん乱取も含むと思われる

*24:羽柴秀長