日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年5月3日浅野長吉・木村常陸介宛豊臣秀吉朱印状

 

 

江戸城*1俵物*2改之注文*3披見候、城中掃除以下申付、御座所*4拵、玉縄*5ニハ勢多掃部助*6・生駒主殿正*7を置候て、其城にハ松下石見守*8・古田織部*9召寄可入置候、河越城*10羽柴筑前守*11請取候、一左右*12次第相越、彼城兵粮・武具等入念可改置候、則鉢形城*13へ可相動候、不可有由断候、次制札事、如申越百枚遣之候、猶山中橘内*14可申候也、

 

  五月三日*15 (朱印)

 
    浅野弾正少弼とのへ*16
 
    木村常陸介とのへ*17
(四、3191号)
 
(書き下し文)
 
江戸城俵物これを改むる注文披見候、城中掃除以下申し付け、御座所を拵え、玉縄には勢多掃部助・生駒主殿正を置き候て、その城には松下石見守・古田織部召し寄せ入れ置くべく候、河越城羽柴筑前守請け取り候、一左右次第相越し、彼の城兵粮・武具など入念改め置くべく候、すなわち鉢形城へ相動くべく候、由断あるべからず候、次に制札の事、申し越すごとく百枚これを遣し候、なお山中橘内申すべく候也、
 
 
(大意)
 
江戸城に備えている俵物の員数を改めた注文を見た。城中掃除などを命じ、御座所しつらえるように。玉縄城に勢多正忠・生駒忠清を置き、松下之綱・古田織部を呼び寄せともに城を守備するように。河越城は前田利家が請け取った。利家の指示次第、河越城の兵粮や武具などを入念に調べ、すぐさま鉢形城を押さえるように。油断してはならない。次に、制札のことだが、そなたたちが申すように百枚ほど遣わす。なお詳しくは山中橘内が申す。
 
 

 

図. 江戸城・玉縄城・河越城・鉢形城関係図

 

               横浜歴史博物館編『秀吉襲来』54頁、図59より作成

最初の下線部では江戸城を請け取った浅野長吉と木村常陸介*18からの城内に残されている兵粮や武具などを調べ上げた「注文」を請け取ったと記されている。この注文は未発見だがおそらく大坂の陣で灰燼に帰してしまったのであろう。

 

次の下線部ではやはり兵粮や武具を調べ上げることを命じている。武装解除を行っているのだろう。戦争も相手のいる一種のコミュニーケーションであるだけに、一方的に自己の主張のみを通そうとすれば殲滅戦に至らざるを得ない。共有された「終戦手続き」があったはずである。

 

最後の下線部では長吉・常陸介が制札を欲しがっているので100枚ほど遣わすとしている。発給者名が秀吉なのか長吉らになるのかは明らかでないが。

 

なお5月発給の禁制は下表の通りで、秀吉発給のものが22通、豊臣大名が連署したもの16通、大名単独で発せられたものが24通の都合62通である。

 

表. 天正18年5月発給禁制一覧

 

 

繰り返しになるが軍事的に制圧した*19だけでは「戦争に勝利」したことにはならない。植民地化するなり朝貢国扱いするなり、大幅な自治権を認めるなどの統治/在地支配体制を整えるまでが戦後処理である。

 

 

*1:武蔵国豊島郡、下図参照。以下同じ

*2:米や海産物を俵に詰めたもの。ここでは食糧全般を指すか

*3:中世上申文書の様式のひとつ。ある事柄を調査し、その要件を明細書きとした文書で「一つ書き」で書かれることが多い

*4:秀吉が座る玉座

*5:相模国鎌倉郡

*6:正忠

*7:忠清

*8:之綱

*9:重然

*10:武蔵国入間郡

*11:前田利家

*12:イッソウ、指示

*13:武蔵国男衾郡

*14:長俊

*15:天正18年、グレゴリオ暦1590年6月4日、ユリウス暦同年5月25日

*16:長吉、若狭小浜城主8万石

*17:実名は未詳、越前府中城主

*18:実名ははじめの「一」一字しか明らかでないため「常陸介」呼称を採用した

*19:「戦闘に勝利」