日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正13年9月10日一柳直末宛豊臣秀吉朱印状写

 

この前日秀吉は「藤原朝臣」(フジワラノアソン)から「豊臣朝臣」(トヨトミノアソン)に改姓している*1。正確には「豊臣」は「氏姓」であり、「名字」は変わらず「羽柴」なので「羽柴秀吉」と呼ぶべきか、「豊臣秀吉」に改めるべきか議論のわかれるところであるが、当ブログではそこまで踏み込まず慣例にしたがい、天正13年9月9日以降の秀吉を「豊臣秀吉」と呼ぶ。ちなみに「氏姓」である「豊臣」*2を考慮して「トヨトミヒデヨシ」と読むべきであるという議論もある*3

 

 また、黒田基樹氏は『羽柴を名乗った人々』*4において、「豊臣政権」ではなく「羽柴政権」と呼ぶべきと主張しているが、これも上記のような事情によっている。

 

◆2020年11月12日追記◆ 当ブログでは秀吉の政権を改姓前後にかかわらず統一的に「豊臣政権」と呼ぶことにしてきた。これは「そう呼ぶのがふさわしい」と主張するものではなく、便宜上であって「羽柴政権」と呼ぶ方がより実態に近いという考え方を斥けるつもりは毛頭ない。では「秀吉政権と呼んでみたらどうか」という意見も当然ありうるが、結果的に彼一人の政権だったものの、秀吉が秀次や秀頼に政権の継承を望んだことをネグレクトしてしまう上、下の名前に政権を付けることに抵抗があるという個人的な好みも絡むのでさしあたり「豊臣政権」としたい。

 

 

さてこの頃、秀吉は大柿城を預けていた加藤光泰の振る舞いに問題があるとして、去就について家臣に意見を求めた。9月3日付直末宛朱印状によれば理由は次の通りである*5。 重複している部分もあるが、一つ書きごとに書き出してみた。

 

  • 「かなめの所大柿之城」、「大柿のこと、肝心のところに候条・・・自然東国あたりへ人数を遣わし候ときの兵粮のために、蔵入七千石、代官としてこれも作内(加藤光泰)に預け置き候ところ」を預けているのに、その恩を忘れ家臣に過分な知行を与えていること。
  • 人を過分に抱え、蔵入地にも給人をつけるべきと「言語道断」の意見を秀吉にしたこと。
  • 大柿のかなめの城」周辺に2万貫を与え、蔵入地7千石の代官も仰せつかっているのに、知行に分不相応な人数を抱えていること。
  • 隣接する稲葉貞通と池田照政の領地*6や、近江の知行地においても光泰の知行地が入り組んでいるので「心の内には国の動乱出来候べかし」(心中で国を傾けると企てているに違いない)と懸念される。彼にそのまま大柿城を任せるべきか、それとも追放すべきか本書面をもって尋ねているので、どちらかひとつの意見を選択すること。

  • それぞれにとって重大な問題であるので、誓紙を差し出すこと。返事を「待ち入り候なり」。

 

 翌4日、早くも直末に光泰の後任として「早々大柿へ相越し、城請け取り申すべく候、ならびに蔵入のこと、同前に代官申し付け候*7と書き送っていることから、家臣に意見を求め、その上で決するというのはどうも形だけだったらしい。さらに8日には「大柿へ遣わされ候こと、慥かなる者と思し召し候て越し候」と直末を信頼しているからこその命である旨述べている*8

 

これを図示してみた。

Fig. 美濃国大柿城および周辺知行地概念図

 

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    尚以、米も大豆もつかい候て、新米其方内入替可申候、以上、
大柿*9之城請取候由、得其意候、能〻可申付事肝用候、就中城米大豆合五千俵事、其方在〻配当以下ニ遣之、新米出来次第ニ、其方内ニ入替可申候、当座先可為要意候間如此候、大豆分又米分付分*10尤ニ候、猶木下半介*11・森三右衛門*12申候也、
  九月十日*13 秀吉公御朱印
    一柳市介殿*14
『秀吉文書集二』1620号、225頁
 
(書き下し文)
 
 大柿の城請け取り候よし、その意を得候、よくよく申し付くべきこと肝用に候、なかんずく城米・大豆合わせて五千俵のこと、その方在〻配当以下にこれを遣わし、新米出来*15次第に、その方内にて入れ替え申すべく候、当座先要意たるべく候あいだかくのごとくに候、大豆分また米分付分もっともに候、なお木下半介・森三右衛門申し候なり、
なおもって、米も大豆も遣い候て、新米その方内入れ替え申すべく候、以上、
 
(大意)
 
 大柿城の引継を無事に終えたとのこと、よくよく下々の者へ言い聞かせることが大切です。なかでも城米大豆合計5千俵については、そなたが村々へ割り当て与え、新米の刈り取り次第新米と城米を入れ替えてください。当面用心すべき状況ですのでこのように命じます。詳しくは木下吉隆・森三右衛門が申します。
 
追伸、米も大豆も与えて、新米を確保するように。以上。
 
 
下線部がわからないのでスキップしたが、おおむね兵粮である米、馬糧である大豆の備蓄について指示したものである。

 

*1:1618号、なお豊臣改姓の時期について天正14年12月との説もあるが、ここでは遠藤珠紀「朝廷官位を利用しなかった信長、利用した秀吉」179~180頁にしたがい「このころ」とした。日本史史料研究会監修、神田裕理編『新装版 ここまでわかった戦国時代の天皇と公家衆たち』文学通信、2020年所収

*2:より厳密には豊臣が「氏」で、「姓」は朝臣であり、「名字」は羽柴のままである。甥の秀次は関白就任時、豊臣氏の「氏長者」である「豊氏長者」に任じられており、「豊臣」が「氏」であったことを示している。遠藤珠紀上掲177頁

*3:e.g.平清盛=タイラキヨモリ、中臣鎌足=ナカトミカマタリ、菅原道真=スガワラミチザネet al.

*4:10~11頁、角川選書、2016年

*5:1614号

*6:こちらを参照されたい。

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

*7:1615号

*8:1617号

*9:大垣、美濃国安八郡

*10:未詳

*11:吉隆

*12:未詳

*13:天正13年

*14:直末

*15:シュッタイ