三木城攻めの結末は以下のように語られることが多い。
上記天正8年1月15日付の浅野長政宛別所長治書状は、同工異曲も含め様々な軍記類に写されているものの浅野家文書として伝わっていない。また、「なんぞ臍(ほぞ)を嚙むや」、「その心底に感じ、落涙留まらず」といった文書らしからぬ表現も見えるため、もとになったものを写したとしてもかなり粉飾された可能性がある。しかし、「干し殺し」の結末がこうしたイメージで語られてきているのもまた事実であろう。近年このようなイメージと異なる様子を伝える文書も知られるようになった。発掘調査も進んでおり、報告書も公開されている*1。
三木城周辺は以下の通りである。
秀吉が別所長治に宛てた書状では、秀吉は次のように約束している。
右三人*2於生涯*3軍卒*4赦免之事、少モ相違有間敷候、猶従浅野弥兵衛*5方委細可申達候、謹言、
(書き下し文)
右三人生害においては軍卒赦免のこと、すこしも相違あるまじく候、なお浅野弥兵衛方より委細申し達すべく候、謹言、
(大意)
右の別所一族三人が自害するなら城兵の命は保証することに間違いありません。なお詳しくは浅野長政より伝えます。謹んで申し上げました。
これが一般的なイメージであろう。