拾弐石、かゝ*1かたへきやう*2のます*3にてわたしあるへく候、以上、
天正六年九月廿三日 秀吉(花押)
い藤よ左*4
「一、177号、59頁」
(書き下し文)
十二石、嚊/嬶方へ京の升にて渡しあるべく候、以上、
(大意)
妻に京枡で十二石渡して下さい。以上。
この文書は秀吉の自筆である。
「かか」=「嚊」は身分の高くない人が使う言葉で「太閤記/醍醐の花見」にも「茶屋のかゝ」と見え、こちらは茶屋の店主を意味するらしい。よくいえば庶民的、悪くいえば品のない表現と考えられる。近習に充てたためについ日常的な言葉を選んだのかも知れない。
京枡は京都で使用される升を意味し、京枡で測り「12石分」分を「嬶方」へ渡すように伊藤与左衛門へ依頼した。各地で異なる升が使われていたことに対し単位をより正確に測ろうとし、京枡を指定したわけである。同じ「12石」でも測る升が異なれば、計算は合わない。関白、太閤となったあとの史料にも、私製の升を使用したものを処罰した例が見える。まだ1反=360歩の時期だが、秀吉の度量衡に対する感覚は研ぎ澄まされていたようだ。
同様のことが現代でも当てはまる。同じ6畳といっても江戸間、京間、田舎間で広さが異なる。谷崎潤一郎「細雪」にも「江戸間であるから八畳が京間の六畳」と、京間の6畳=江戸間の8畳であると書かれており、江戸間の方が狭い。