言上之趣被聞食候、至肥後境目*1在陣之由候、辛労令察候、彼国静謐之上者、令帰陣尤候、猶石田治部少輔可申候也、
二月十一日*2 (朱印影)
北郷一雲軒*3
北郷讃岐守とのへ*4
(三、2435号)(書き下し文)言上の趣き聞こし食され候、肥後境目に至り在陣の由に候、辛労察せしめ候、彼の国静謐の上は、帰陣せしめもっともに候、なお石田治部少輔申すべく候なり、(大意)上申した件について確かに聞き届けました。肥後薩摩国境に在陣したとのこと、その辛労は察するにあまりあります。肥後を平定しましましたので帰陣される由、まことにごもっともなことです。なお詳細は石田三成が口頭で申します。
Fig. 薩摩国大口および日向国庄内周辺図
「庄内」とは上図の通り、日向国諸県郡から大隅国囎唹(曽於:ソオ)郡にかけての広大な地域で、北郷氏はここの領主であった。天正15年5月26日島津義弘宛秀吉朱印状によれば、北郷氏が当知行する土地は1000町に上ったという*5。
「言上の趣き」が具体的に何を指すのか明示されていないが、前回読んだ同日付島津義弘宛判物写から、日向国の知行地に関する北郷氏らの言い分を「確かに聞き届けた」という意味なのだろう。北郷氏も日向の知行地に関する内紛に巻き込まれただろうことは想像に難くない。
前回も述べたが、北郷氏や島津氏は豊臣政権に当知行状態の「安堵」を保証され、また秀吉にとっても裁定を下すことで「紛争の調停者」であることを具体的に示せる点で双方の利益は一致していた。
ところでこれに先立つ天正7年12月23日、北郷時久は島津義久に「当知行安堵」されている。このときの安堵状を見ておこう。
このたび、神裁*6をもってながなが無ニの忠勤たるべきの旨趣、もっとも肝心、それについて当知行証文のこと、改めずといえども*7、御懇望*8の条、数箇所の城・所領異儀なく宛行せしむるの条、くだんのごとし、
天正七年拾二月廿三日 義久
北郷左衛門入道殿*9
(『大日本古文書 島津家文書之三』1427号、237頁)
当知行証文を「改めずといえども」とあるように当知行には現実にその土地を支配しているという実績に加え、その正当性を証明する証文(公験=クゲン)が必要だった。ゆえに今回は例外的に「改めない」と断っているのである。時代劇などで「当知行」を「切り取り次第」つまり実力=武力で奪い取った土地としているようだが、現実はそれほど単純ではない。
この島津義久ー北郷時久の主従関係は、本文書により秀吉ー北郷へのそれへ変貌を遂げたことになる。